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沖縄から眺望できる「国民的思考停止」という病の風景 ~~辺野古米軍基地建設とは何なのか

 新型コロナウィルスの緊急事態宣言は解除されたが、なお多くの人々が困窮にあえいでいる。未知の感染症が落とす影は依然大きく、私たちの社会を暗然と覆っている。だが、そこで見えた数々の問題も含めて、この国の本当の「病」は、感染症とは別のところにある。
 この春、新聞社を退職した。社会部デスクだった期間を含め、記者生活は35年になるが、1990年代半ばに勤務した沖縄で、「米軍基地問題」という、この国の「病」に気づかされ、記者として取り組むテーマとなった。その後の歳月は、この国にはびこる「病」の根本にある「病原」を探しあぐねる日々だった。
 今、こう言い切ることができる。見えざる「病原」の本当の姿は、私たち自身である、と。

 1、 今につながる事件

 1995年9月、那覇支局員として沖縄で取材していた時のことだ。アメリカ軍基地が所在する沖縄本島のある町で、その事件は起きた。小学生の少女が買い物帰りに、3人のアメリカ兵に拉致され、レイプされるという悲惨極まる事件だった。今日、多くの日本人の記憶からは薄れているのかも知れないが、今まさに問題になっている名護市辺野古での新基地建設につながっていく事件である。

 大まかに背景を説明すると、現在、日本国内でアメリカ軍が管理し、使用している基地(専用施設)は13都道府県にあり、全体面積は約2万6318ヘクタールにのぼる。そのうちの70%、約1万8494ヘクタールが沖縄に集中的に置かれている。沖縄本島をみれば、島の全体面積の15%が米軍に占有されている状態だ。こんな都道府県はほかにはない。むろん面積だけの問題ではない。基地、演習場から発生する航空機や訓練の騒音、墜落事故、落下物、山火事は全国でも断トツに多く、なかでも兵士らが基地から出て民間地域で起こす凶悪事件は、人々にとって最も耐え難い被害である。

 つい4年前にも、沖縄県うるま市に住む二十歳の女性がウォーキング中に元アメリカ海兵隊員の軍属の男に暴行され、殺害された。さかのぼれば1972年に沖縄が日本に復帰する前、筆舌に尽くしがたい痛ましい事件が日常的に頻発していた。

 95年の少女暴行事件の直後、当時の大田昌秀・沖縄県知事は、「代理署名」と呼ばれる行政手続きを拒否する。県内のアメリカ軍基地の敷地内に点在する「反戦地主」の所有地を、国が強制的に収用するため、定期的に必要になる更新手続きで、機関委任事務として知事に委ねられているものだ。その手続きに、前代未聞の「否」を突き付け、過重な米軍基地の縮小を国家に求めたのである。

 これによって翌年春には、沖縄本島中部の読谷村にあった米軍基地「楚辺通信所」の土地の一部が、米軍に占有させるための法的根拠を失って「不法占拠」状態になる。

 1996年4月1日未明。期限切れの午前0時、ゲート前には大勢の人々が抗議の声をあげて詰めかけた。それに対して米軍も日本政府もなすすべはなく、日米安保体制が大きく揺さぶられる事態だった。

 2、 忘れ去られた「問い」

 この国の何かが変わるのではないか――。この時の人々のうねりを現場で見つめながら、私はそんな風に考えた。敗戦後、「平和憲法」を持つこの国の国民は、「アメリカに守っていただいている」という固定観念に脳髄を支配され、国内各地を米軍が好き勝手に使える足場(基地)に提供し、しかも大半を沖縄に集中させたまま、国家の中枢も国民もその異常さを疑おうともしない――。

 この国のあり様に一石を投じた大田知事の捨て身の行動で、長年の不平等な安全保障政策を問い直す機運が広がるのではないか、と期待を持ったのだった。

 今思えば、30代だった私は、この国の「病」の深刻さをまだ十分に理解してはいなかった。2年後の97年、国会は基地用地の強制使用を可能にする駐留軍用地特措法の改正案を可決。知事が手続きを拒否しても国は米軍用地を継続して使用することが可能になる。沖縄の抵抗はあっさり押さえ込まれ、「安保」は微動だにしないまま、必死の問いかけもやがて忘れ去られていく。

 3、 マスメディアの岐路

 知事の代理署名拒否から法改正に至るまでの、基地問題と日米安保をめぐる政治の動きは、本土(ヤマト)のマスコミ報道にとっての岐路でもあった。

 新聞では朝日、毎日など比較的「リベラル」とみられているメディアは沖縄に対して同情的だったが、「保守系」とされる読売、日経などは沖縄県政への批判に傾き、産経には、沖縄タイムス、琉球新報という地元新聞への批判記事まで掲載された。本土からの「沖縄バッシング」の始まりである。

 私は、「リベラル」とされる方の新聞社の記者の一人だった。沖縄が負わされている問題を全国に伝えようという姿勢は、当時の担当デスクや取材キャップ、記者たちの間で少なからず共有されていた。しかし、そのころは私自身、問題の所在を見出すには至ってなかった。

 例えば、「沖縄の基地問題」という言葉は記事でもよく使うが、本来は、沖縄ではなく日本の「病」だ。また、近年、日米地位協定の問題が全国的に議論になっているが、少女暴行事件の際にも、沖縄県は在日米軍の特権を羅列した協定の見直しを強く求めていた。

 忘れてはならないのは、アメリカ軍関係の事件・事故の裁判権や捜査権に関わる不平等規定の、その先にあるのは、いまや「国是」と化した日米安保体制だ。そこには「平和憲法」と呼ばれる戦後日本の体制との根本的な矛盾と不合理が存在する。われわれ記者は、沖縄という地に現出した「症状」に対処するだけではなく、さらに分け入って病の原因となる「病原」を見据え、日本という国全体の問題として検証しなければならない。記者としてそのことを十分に伝えられなかったことが、今も消えぬ悔恨だ。

 4、「唯一」の説明

 少女暴行事件の翌年4月に日米両政府が合意したのが、宜野湾市の米軍普天間飛行場の返還だった。住宅密集地のど真ん中で航空機が発着し、「世界一危険な基地」ともいわれる。2004年には同基地を離陸した大型輸送ヘリが隣接する沖縄国際大学に墜落する事故が起きている。沖縄の人々は一瞬、歓喜したが、返還には県内で代わりの基地を提供するという条件がつけられ、ぬか喜びとなる。

 普天間はアメリカ海兵隊の航空基地だ。海兵隊は、沖縄に駐留する米軍の陸海空海兵4軍種の中では一番大きな部隊ではある。陸戦部隊と航空戦力、補給部隊を併せ持ち、主に海軍の艦船でアジア各地を移動する。政府は普天間返還の代替基地に「辺野古が唯一の解決策」の主張を変えようとしないが、その機動力からすれば、日本国内のどこか別の場所に移転することだって、軍事技術的にはなんら不可能なことではない。そもそも、海兵隊の移動に使われる強襲揚陸艦の艦隊は、沖縄から800キロ近く離れた長崎県の佐世保基地を母港にしているのだ。

 「辺野古が唯一」について、日本政府はいまだに国民への説明を果たしていない。在沖海兵隊の駐留意義を強調した防衛省作成の宣伝用パンフレットがある。9年ほど前に発行され、そこにはこんなことが書いてある。

 「沖縄は・・・我が国の平和と安全に影響を及ぼしうる朝鮮半島や台湾海峡といった潜在的紛争地域に近い(近すぎない)位置にあります」

 「沖縄は我が国の周辺諸国との間に一定の距離を置いているという地理上の利点を有する」

 詳細な説明はないが、意味のよく分からない「地理上の利点」が、「唯一」の理由だという。「近い(近すぎない)位置」「一定の距離」って、いったい何キロメートルなのか。九州や北海道や東京や大阪とは何がどう違うのか。

 このパンフをめぐっては、沖縄県が防衛省に対して文書で疑問点を質したが、防衛省からの回答は肩すかしばかりで、まともな説明はなかった。そのやり取りは、同県のホームページで公開されている。

 5、 海兵隊は必要か?

だが、それ以上の問題は、そもそもアメリカ海兵隊が沖縄を含む日本国内に駐留しなければならない理由など本当にあるのか、ということだ。海兵隊がなければ本当に日本の安全は危うくなるのか。

 在沖海兵隊は、もともと朝鮮戦争の予備兵力として日本本土に駐留していたもので、当時に比べれば規模も縮小され、日本が侵攻を受けた際の防衛力にはなり得ない。在沖海兵隊が、日本を守るための戦力でないことは、まともな専門家なら知っているが、まさに、それこそが国を挙げて検証し、国民全体で議論しなくてはならないことだ。でも政府は、安保の中身そのものに踏み込んで議論するのは避け、粗末なパンフレットでごまかしている。にもかかわらず安全保障を自ら学び、考えようとする国民はほんの一握りで、ほとんどの人は関心さえ持とうともしない。「抑止力」という、測定不能な空虚な言葉をよりどころにして、それ以上追究しようとはしないのが現実だ。

 政府の調査によれば約7割の人々が日米安保条約を認めている。マスコミの調査も似たような結果だ。そのことの是非は別にしても、自分の国の安全保障という重大事をほかの国に委ね、なるべく考えないようにすることで安心できるというのは正常ではない。国家権力が国民を「騙す」というよりも、国民が好んで権力に「騙されたふり」をして、思考すべきことから目を背けている、考えないようにしている――。そういう現実が見えてくる。

 6、埋め立て工事の再開

 コロナ禍の混乱が続く中、政府は6月12日、中断していた辺野古での埋め立て工事を57日ぶりに再開した。わずか5日前の沖縄県議選では、基地建設に反対する県政与党系の候補が過半数を制したばかりだ。

 地元沖縄の「琉球新報」はこう書いた。

 「沖縄に対し強硬な態度をとり続ける一方で、米国には常に弱腰だ。米軍の特権を認める日米地位協定の改定さえ言い出すことができない。強い者に媚び、弱い者には高飛車に出る。そのような国の在りようはいびつであり、一刻も早く改めるべきだ」(6月13日付)

 「本土」でも、いくつかの地方紙が言及した。

 「自治の観点からも地方選挙の結果を軽んじる政権の姿勢は見過ごせない。コロナ禍の対応で知事らの存在感が高まる今、全国の首長や議会から、沖縄の民意を尊重するよう国に求める動きが出てくることを期待する」(神戸新聞 6月14日)

 「辺野古の海の埋め立ては現在、全量の2%に満たないとされる。今、打ち切れば、サンゴなど希少な生態系への影響も少なくて済む」(中日新聞 6月16日)

 全国紙は、工事再開そのものは報じたものの、それ以上の言及は見当たらない。

 7、イージス・アショアの計画停止

 一方で、正反対の出来事があった。辺野古工事再開の3日後、防衛省は、秋田県と山口県で計画されていた迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」の計画停止を発表した。発射後に分離されるブースター(推進装置)が、自衛隊演習場や洋上以外の場所に落下する可能性があるためで、改良のためには費用と時間がかかり過ぎるという理由だ。

 ブースター落下は初めから言われていたし、システムのレーダー波による住民の健康への悪影響も指摘されている。また両県はハワイとグアムに向かう弾道下に位置することから、実はアメリカ国土を守るためではないか、との見方もある。コロナ禍で多くの国民が窮状にあるなか、そんなものに莫大な予算をつぎ込むのが「合理的な判断とはいえない」(河野防衛相)のは当たり前の話だ。

 しかし、計画停止を報じる新聞各紙が一斉に書いていたのが、「対米関係への懸念」だった。

 「米国からの反発などを受ければ、配備計画の停止という決断の見直しを迫られる可能性もある」(朝日、6月16日付)、「交渉の行方は日米関係そのものにも影を落としかねない」(毎日、同)、「米国から別の装備品を購入する案が検討されているという」(読売、同)――。

 確かに「事実」には違いない。要するに、今の日本の政権がトランプ大統領の顔色を常に窺うように、日本という国、つまり日本国民はアメリカ合衆国のご機嫌を損ねることを、極度に恐れている。新聞報道もそうした国民感情を反映しているに過ぎない。

 8、辺野古では――

 沖縄の新聞は、問題を辺野古の新基地建設に広げてとらえていた。

 沖縄タイムスは17日付社説で「計画のずさんさ、住民の反発―。イージス・アショアが停止に追い込まれた要因は、まさに名護市辺野古の新基地建設で問題になっていることとピタリと重なる」。そして建設現場で想定外の軟弱地盤が見つかったことによる工期延長と工費の膨らみ、さらに昨年の県民投票で7割が埋め立て反対を示したことに言及し、「辺野古も『合理的な判断』で、白紙撤回するべきだ。二重基準は許されない」と訴える。

 琉球新報も同日付で「技術的な問題が大きいのは名護市辺野古の新基地建設も同じだ」として、「辺野古の埋め立て強行は二重基準と言える」。

 同じように解決不能な問題を抱え、同じように地元の人々の反対に合いながら、地域によって真反対の「二重基準」を当てはめることを「差別」という。立ち止まってそれを見直す兆しは、まだ見られない。

 9、思考停止という「病」

 論理薄弱な理由で地元の人々の反対を押し切って広大な自然を破壊する愚行が、いったいなぜまかり通るのか。「差別」以前の問題として、何のため、誰のための工事強行なのか。政府の言う「普天間の危険性除去」は、「辺野古が唯一」の理由にはならない。

 冷静に見る限り、イージス・アショアの計画停止は極めて適切な判断だった。だが、そこで取りざたされるのはアメリカとの関係に対する懸念であり、辺野古まで中止することの対米関係への影響を考えれば、容易にはやめられないということなのか。つまり、イージスと辺野古の両方を見直すだけの覚悟が、この国には期待できないということか。さらに言えば、沖縄の民の反対や不安は、「本土」の民のそれに比べれば許容範囲、という差別意識が日本人の中に根強くあるということなのか。いずれであれ、問題の本質を熟慮し、議論した結果とはいえず、なんの思考もなされてない。

 では、そのような「思考停止」は誰のものであるのか。辺野古埋め立て強行という現政権の愚策は「症状」ではあっても、病のもとになる「病原」とはいえない。小選挙区制といういびつな制度とはいえ、民主的な手続きで選ばれ、なお一定の支持率を得ているのだ。官僚は政治によって動くものだから病原とは言えず、マスコミも根源的な問題とは言い難い。

 結局のところ、この国の主権者である「日本国民」の総体的な思考停止こそが、「病原」そのものということになる。中国や北朝鮮の脅威はたびたび取りざたされるものの、防衛問題を思考する意識は国民全体的にあまりに希薄だ。自国の安全保障をアメリカ合衆国という外国にゆだねるだけで、なるべく考えないようにしている。沖縄のアメリカ軍基地や迎撃ミサイルの是非が国政選挙の主要な争点になるわけでもない。「平和憲法」があるから日本は平和だ、日米安保条約があるから日本は安全だ――。そんなことを言い合いながら、私たちは安全保障政策の本質的な議論を何十年もさぼってきた。「敗戦後日本人」とでもいうべき私たちの「思考停止」こそが、この国の「病原」なのだ。それに感染している点では護憲派も改憲派もなんら変わりはない。

 10、受け止めるべき民意とは

 一連のコロナ騒動を振り返ってみれば、十分な補償も受けられずに苦渋の中で営業を続けざるを得ない商店主や、不運にも感染した有名人、PCR検査の拡充を求める専門家らに罵声を浴びせる愚衆のいかに多かったことか。権力に従順で、同調圧力を疑わない国民のことを、「民度が高い」とは言わない。SNSという言論空間でさらけ出された「思考停止」が多数派を占めるなら、やがて社会を恐怖に陥れる。同じように、沖縄という「少数派」の問いかけを、「多数派」のヤマトゥンチュ(本土人)が無視し続けるのであれば、議論の停滞と国としての堕落に歯止めはかからなくなる。

 6月23日の沖縄慰霊の日に際し、イージス・アショア配備の候補地だった秋田県の地方紙、秋田魁新報は「地元の反対の中、強引に進められたのは沖縄と同じ。(中略)諦めずに声を上げ続けることが大切と再認識させられた」(24日付)と書いている。そのうえで、イージス停止後の政府による「抑止力」の検討について、「民意を十分に受け止めたうえで議論を進めることが必要だ」と記した。

 自らの地が、国民的な議論もろくにないまま国策の踏み台にされかかったことで、にじみ出てきた言葉だと思う。

 安全保障政策に民意を反映する――。そのためには、民が政府や専門家と称する面々の話をただ信じ込むのではなく、自ら情報を見極め、思慮し、行動につなげようとしなくては形にはならない。なによりも国民的議論を怠ることは許されない。「敗戦後」から抜け出し、自ら思考し、議論する「日本人」になること。その問いかけは撓まずに続けていきたい。

川端俊一(かわばた しゅんいち) 元新聞記者

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