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現実遠足


「ここはいわゆる現実ではありません」

「でも先生。ここは現実だよ」

 だよねえ、と他の生徒も頷いた。

「定義によってはそうでしょうね。しかし、もしあなた方の身体が他の世界にあって、そしてその身体からあなた方は思考しているとしたら。他の世界にあるはずのその身体が死んだ時にあなたが死ぬとしたら。実はその世界の方が現実なんじゃないか、とは思いませんか?」

「えー、死ぬってなあに?」

「思わないよ。だって僕の身体はここにあるし」

「ここにいるって感じるもん」

 生徒は口々に反発するが、先生は何も意に介さない様子で話を続けた。

「前の授業で、この世界のことを何と呼ぶか習いましたね」

「〈仮想現実世界〉」

「そう。今回の授業では仮想現実世界からディスコネクトし、現実世界へ遠足に行きます」

 先生は現実世界についての概要をみんなに見えるように頭上に大きくポップアップさせた。色味の少ない殺伐とした風景と奇妙な造形の生き物の映像が流れた途端、小さな悲鳴が上がる。前回も見ただろ、と誰かがからかう。

「これが現実世界と現実世界に於ける人間のイメージです」

「せめてスキンカラーをライムとマゼンタのグラデーションに変更できないの」

 といって、ある生徒が人間の映像にカラーを合成させ、派手な人体を作り出すと教室はどっと湧いた。先生はすぐさまその悪ふざけのコマンドを掻き消した。

「仮想現実世界から現実身体に意識を戻したら最後、このようにコマンドを操ることはおろか、データアクセスもできなくなります。また物理法則はかなり複雑で制限されたものであることも心に留めておく必要があるでしょう。仮想現実世界のように自由移動はできないので、パニックに陥る生徒は少なくありません」

「現実世界ではどうやって動くのかな」

「コマンドが使えないんだから、そもそも動けないんじゃないの。先生も自由移動はできないと言っていたでしょう」

そんなのやだねー、という声に賛同するように、おのおのがぱっぱっと空間移動や高速回転を始めて教室に色と光の濁流がうまれた。

「いい質問ですね。現実世界では、人間は身体を動かして移動をします」

 一瞬、水を打ったように静まりかえった。先生の説明に理解がなかなか及ばないのだ。

「移動するために身体を動かすの?」

「そんなことをする必要があるの?」

「というかコマンドが使えないのにどうやって身体を動かすの?」

 ひとたび疑問が噴出すると、生徒たちは堰を切ったように喋り出し教室はザワザワし始めた。

「これに関しては、習うより慣れろというほかありませんね。それでは早速、皆さんの意識を現実世界へ接続します」

 そう言うや否や、生徒たちの意識は途切れ、教室は消失した。

 ふっと意識が戻った。黄緑色の膜が視界を遮っていたが、それは徐々に滴り剥がれていった。自分がカプセルの中に入っていて、開いた扉から膜が流れ出ているということを認識した。ヒリ、とした痛みを感じたが、それが痛みであることはまだ解っていなかった。突如、目の前に人型のホログラムが現れた。それはゆっくりと奇妙な動きを始めた。

「身体をこのように動かしてください。そうすれば移動ができます。誕生して、自我が芽生えて以来、あなた方自身でこの身体を動かしたことはありませんが、仮想現実世界で扱うコマンドは現実に於ける身体感覚とリンクしている為、そう難しくはないはずです。身体のメンテナンスは私たちが万全を期して行っているので、これ以上なく動かしやすい状態ですよ」

 僕は身体を動かすことを意識した。すると身体は難なく動いた。仮想現実世界でコマンドを扱うときのような感覚だ。カプセルから出て、あたりを見渡すと、黄緑の膜で身体をぬらぬらと光らせた人間たちが僕と同じように呆然と立っていた。遠くで誰かがもんどり打って倒れる音がした。

「皆さん、それでは少し外に出てみましょう」

 先生の声を発する飛行物体に誘われるまま、僕たちはぞろぞろと歩いた。

「ねえ、君は誰?」

隣を歩く人間に尋ねたが、僕は自分から発された声に驚いた。

「私は76。君は?」

といったその人間も、自分の声に驚いたようだ。

「僕は157だけど。これが僕の声なんだろうか。声がこんなにも平坦で味気ないなんて。君の声との違いを全く感じない」

仮想現実世界では声の高さや太さ、倍音にしたり揺らしたり、自由自在に声を発せられたけれど、今は制限された音しか出ない。見た目だって、他の人間の体とまるで違わない。少しばかり大きかったり小さかったり、表面に濃淡がある程度で、ほとんど同じだ。

「これが本当に私なの」

76はそう呟いたが、声があまりに平板で感情を汲むことができなかった。
光沢のあるマシンの傍を通り過ぎるときに姿が反射して映る。これが僕か。そして誰が誰なのか、まるで解らない。みんなが急によそよそしく、理解が及ばない存在になってしまった。僕はかつてないほどの孤独を感じた。
広大で無機質な施設を延々と歩き、ようやく壁にたどり着くと、壁の一部がアーチ状に透明になって、外の様子が見えるようになった。飛行物体がそこをくぐるので、我々もそれにならって外へと踏み出した。

「ここが現実世界のメインフィールドです」

「これって広いの? なんだかよく解らない」

「現実世界は仮想現実世界と同様に、広さはアンカウンタブル〈計測不可能〉です。しかし、あなた方が実際に移動できる可能性は、人体と物理法則の制限によって仮想現実世界に比べて遥かに狭いのは確かです」

「気が滅入るなあ」

「不自由で何もできやしない」

「早く仮想現実空間に戻りたい」

 他の人間も同意するように単調な音で唸った。

「さて、現実遠足を終えたい方はカプセル内に戻ってください」

人間はもと来た道をぞろぞろと引き返していく。
しかし僕は、そのまま外の世界へ歩き出した。ぐいぐいと身体を動かす。足の裏で地面を踏みしめる感覚がある。

「157、どうするつもりですか?」

飛行物体は歩き続ける僕を追って尋ねた。

「僕はもう少し残ります。まだ現実を見ていたいんです」

「わかりました。遠足が終わったらカプセルに戻ってきてください。仮想現実空間は4次元的時空間を構成しつつあるので、遠足にどれだけ時間がかかろうとも、そこまで問題ではありません。次の授業には間に合うでしょう。ただしあなたの身体が朽ちない限り」

「はい。先生」

 僕はただ一人、世界を歩いた。空は灰色で殺風景だ。味気のない世界だが、不思議と高揚した。知らなかった世界をもっと見たかった。
 しばらく歩き続けて、初めて身体が疲れるということを知って途方にくれた頃、少し先に鈍く光る銀色のシェルターがあるのに気づいた。そのシェルターの入り口に人間が立っていた。

「遠足は楽しんでいるか?」

 僕は驚いて返答に詰まった。

「俺の話を聞いてみたくないか?」

 僕は頷いて、その人に続きシェルターに入った。思いの外、人がいて賑わっていた。

「ここで何をしているの?」

「たとえば、ある人は現実世界に魅せられて、ある人は人間について考えたくて、またある人は奴らを壊したくて、ここにいるんだ」

「奴らって……」

「マザー・マシンのことだ」

「なぜ? マザー・マシンは世界にも等しいのに」

「きっと世界が正しくないと思ったんだろう」

 その人は僕に座るよう促し、会話を続けた。

「仮想現実世界では〈死〉という観念は全くないだろう。〈老い〉もない。なぜならそこではそれは起こらない。しかしここでは起こる。そして俺たちは本当はここにいる」

「老いとは、私のことだ。見ろ。身体が死に向かっているのだ」

しわくちゃな身体の人間がよろよろ歩いてきて言った。僕はぞっとした。先生が言っていた、身体が朽ちるということが何となく想像できた。

「死とは何か、は聞かないでくれ。誰にも解らないのだ。死んだ人間の意識がどこへ行ってしまったか、誰にも解らなくなってしまう。私はそう理解するが」

現実世界は恐ろしい。僕は身体の震えを感じた。

「シェルターは私たちが野垂れ死んでしまわぬようマザー・マシンが作ったのだ。それどころか、ここでの研究や生活の為のものまで提供してくれる」

「マシンが人間に入力されるがまま応じる時代があったそうだ。懐古主義的なやつがいるのかもね」

「懐古主義というより、私はむしろこう思う。昔の資料によればかつて人間は人間から生まれたらしい。しかし今は、マザー・マシンなしで人間を生み出すことは不可能だ。人間が人間を生み出すには、現実世界の身体に欲情し、そして痛みに耐えることが必要だが、そのどちらも我々にはできない。仮想現実世界での感覚に慣らされて、この身体に美を見いだせず、また痛みに頗る弱い。昔シェルターで人間を生み出す試みがあったそうだが、結局はマザー・マシンの助けを借りた上に、生み出そうとした人間は痛みに耐えかねて死んでしまったという。だが、かつて人間は人間から生まれた。そして過去の記録をみればマシンも人間から生まれたというではないか」

「人間がマシンを?」

世界にも等しいものを作り出せたというのか。

「全知全能のマザー・マシンは、進化したマシン自身が生み出したものだろうが、元を辿れば、人間がそもそもマシンを作ったんだ」

「なぜ生まれたのか。私とは、人間とは、この世界は何なのか。それを考える学問を〈哲学〉というが、私は、マザー・マシンも哲学をしているのではないか、と思うのだ。人間を観察して答えを得ようとしているのではないか。これは私自身が哲学を欲する人間だから、マシンもそうであるはずだと思い込んでいるのかもしれないが、何故奴らは我々を生み育て、シェルターで生きることまで許すのか。その答えはどうにもこれではないかと思えてならないのだ」

現実世界に足を踏み入れて以来、僕も漠然とそのことを考え始めていた。世界が揺らいでいた。ここで学ぶ。まだ僕は帰らない、ということを予感した。



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