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記憶の結い目

暖かい日差しが降り注ぎ、車内には光が満ちていた。私は前の方の席に座っていた。隣を見るとアミが座っていた。小学生の時の親友だ。
バスの中はとても静かだった。エンジンの音がしないまま、流れるように走っている。道は、山の斜面に沿って緩やかに上って、カーブの先は見えない。私は再びアミを見た。彼女はうつらうつらとしている。
駅にとまった。駅にとまるから、これは電車なのかもしれない。プラットホームにはたくさんの人がいた。窓のガラス越しに、子供を抱いた母親が見えた。私が、席を譲るべきなのだろう。アミは眠りたそうだ。少し憂鬱だった。とても疲れているから立ちたくなかった。この席はこんなにも居心地がいいのに。眠たいのに。アミがすっくと立ち上がった。私も立ち上がらないわけにはいかないので、慌てて立ち上がった。入り口から老婆が乗り込んでくるのが見えたので、何れにしても、もう一つ席が必要だった。
アミと私は電車の扉にもたれかかって、大きな窓越しに見える景色を眺めていた。入り江のような内海のような、おだやかな水の流れが眼前に広がっていた。電車の中からでも水底が見えるくらい透き通っている。水底の揺らめきの隙間に、建物の跡らしき、人為的な四角が散見される。時おり、砂色の壁が水面をつき破って頭を覗かせている。ここは昔、街だったのだろうか。

「アミ。ここは昔、街だったのかもしれないね」
「んー」

電車が走るにつれて、変わり映えのしなかった景色が少しずつ移り変わっていく。
海よりも深く真っ青な瓦の屋根が水に浮かんでいるのが見えた。屋根だけを捨ててしまったみたいだ。それから、水底に沈んだ廃墟が次々と現した。さきほどまで見えていた建物跡のような、ささやかな痕跡ではなく、白色や灰色のれっきとした壁がそこにあった。暗い窓の穴があった。
やっぱり、街が水に覆われている、と思って、私はアミの方をみた。アミは穏やかな眠そうな表情を浮かべている。彼女は虚空を見つめているようだった。
私はアミに教えてあげなきゃと思って、必死に喋った。
「水の中に建物があるよ。たぶん昔の人のものなんだね。珍しいものが沢山見えるよ。水の中にまだ残っているなんて珍しいよ。時間が経ってしまったら、大抵朽ちてしまうもの。あの時みた景色みたい。まるで————」
 まるで、何だっけ。
「ほら、見て。あれなんかはお墓じゃないかな。うーん、よく読めないけど。草書体で彫られているみたい。石碑なのかもしれない」
アミに語りかけている最中に、向こう岸というか、もしかしたら小島なのかもしれないが、その山肌に沿って、長細い巨石が大量に乱立している瞬間があった。刻まれているのは、見たことのない文字だった。かろうじて詳細を目にすることのできた巨石の、一番目に刻まれた文字は「ト」のような形でその右上に「・」が刻まれていた。何となく「犬」に見えた。
私ははっと息を飲んだ。川上から、あまりにも巨大な、しめ縄のようなものが流れてきたからだ。そして、畏敬の念に打たれた。私たちの電車は道を進んで、その何かは川上からゆっくりと流れてきて、そうして徐々に全貌が見えてきた。太いしめ縄で作られた精巧で巨大な船だった。まだ若葉色をしている。畳に使われる、い草のような色だ。赤と金の絹で縫われた大きな帆が神秘的にはためいている。 
「アミ、みてよ。宝船だ!」
 大きな大きな宝船がゆっくりと流れている。それが二艘。あまりに壮観だったので、すっかり興奮していたのだけれど、よく見ると、その宝船たちの舳先は傾いていて、船首が水に沈んでいた。それが何だか物悲しさを生んでいた。その宝船たちは、浅い川に沈んでしまった沈没船だった。船首が水に浸かったまま、前進していた。
「圧巻だったね。みた?」
 アミは瞼を少し開けて、渋々窓の外を見る動きをした。
「うん」

こんなにすごいところが、どうして今まで誰にも知られずに放っておかれていたんだろう。ここは一体どこなんだろう。
ここはどこなんですか、と車掌さんの方に向かって声をかけた。車掌さんの姿は見ることができない。電光掲示板にポンッと明かりが灯って「津」「海」という文字と、残りは読めない不思議な文字が表示された。四国のあたりですか、と何となく適当にそう思って、聞いてみると、車掌さんからは答えが全く返ってこないのだが、私はなぜかその沈黙をイエスと解釈して、いつか一度行ってみようと決意した。
電車の中は静寂に満ちていた。この景色に、私と同じように心打たれている人はいないのか、と車内を見渡すが、皆、思い思いの方向を向いていた。誰も私を見る人はいない、私の見ていたものを見ている人もいない。
そういえば、駅で沢山の人が乗りこんできたのに、私とアミ以外は全員、座席に座れているみたいだった。私たちのように立っている人は誰もいない。一番後ろの席に加藤が座っていた。彼はサッカー部でクラスメイトだった。加藤もだるそうに窓の外を見ていたが、そちら側の窓から何が見えるのか、私は知らない。真っ白で何だか眩しかった。そちら側の窓を直視することは難しい。
宝船が流れ去って、しばらくすると、向こう岸に、色とりどりの巨石が無数に聳え立っているのが見えてきた。巨石には様々なデザインが施されていた。統一感など全くない。個々の巨石でそれぞれが完結していた。
「なんだか現代アートみたいじゃない?」
 アミも窓の外を見ていたが、私の期待していた表情ではなかった。
「あの石はなんかさ、草間彌生みたいじゃん。日本はまだ捨てたもんじゃないよ。ここまでアートに理解があるなんてさ」
「……」
「正直言って美しくはないよ。これだけ雑多じゃあね。それでも許容されている。ここに存在が許されていることそれ自体がさ。ほら、あれだよ、草間彌生」
 私が指で示すと、アミはその方向を見て、ああ、アハハ、と笑っただけだった。とうとう私は、果たして本当にアミと同じものを見ているのかどうか、不安になってしまった。こんな景色が広がっていたのなら、目が離せないと思うんだけど。すると、車掌が語り掛けてきた。とはいっても、姿は見えず、声も聞こえなかったのだが。
「あなたの見ているものが必ずしも、彼女にとって興味のあるものではありませんので」
「じゃあ、アミは違うものを見ているんですか」
「同じものを見ていても、違うものであり、そもそも見ていない時もあります」
 そうか、と私は頷いた。そういうこともあるんだな。それにしても、水は透き通っていて、本当に気持ち良さそうだ。車内は日差しで満ちていて、快適だけれど、少し身体に熱が篭っている。
「あの川に入りたいんですけど」
「下に行くと戻れません」
 大きな川の手前に河原があって、さらにその手前には森があった。
 子供が二人、森から駆けてきて河原で追いかけっこをしている。溌剌と駆け回って、着物がはだけて肩が見えている。まるでモンシロチョウが二匹、花の上で戯れているようだった。
「あの人たちみたいに」
「あの人たちは戻れません」
「あの川で泳ぎたいんですけど」
「あの川に入ると影になってしまいます。 ほら、あの人たち、影になってしまった」
川で、水をかけあっていた二人は、すっと影になってしまった。彼らは影になっても、楽しそうに遊んでいた。しばらくして消えて見えなくなってしまったけれど、まだ、二人は遊んでいる、という気がした。
「消えるのは悲しいので」

 電車が速度を緩めるのを感じて、私は目を開けた。私たちは床に座り込んで、眠ってしまっていた。車内は相変わらず昼下がりのように、明るく静かだった。立ち上がって、窓の外を見ると、大きな駅に停車するようだった。
 私は、このまま電車に乗り続けたくはなかった。もう飽き飽きとしていた。降りていいですか、と車掌さんに聞こうと思ったが、私はどうしても降りたかったし、もし怖い返事が返ってきたらどうしようと思って、何も聞かずに降りてしまおうと思った。
 車掌さんは、「はい」と言った。私はぎょっとした。電車の扉がプシューッと開いた。「ただし、覚悟が必要です——」
 車掌さんの話はまだ続くのかもしれなかったが、私はこれ以上聞くのが怖くて、荒々しくアミの手首を掴み、扉の外へと出た。
 私はそこから逃げるように走った。その電車からは他に誰も降りる人はいなかった。長い長いプラットホームを二人でずっと駆けていった。プラットホームの先にハギア・ソフィア大聖堂のような、ドーム型の屋根の駅舎があった。広い駅なのに、ここでは誰とも出くわさない。アミは私に導かれるまま、何も言わずについてくるけれど、彼女は目を閉じていて、彼女の足は時折がくんがくんと力が抜ける。それでも走り続けている。
 プラットホームから、ガラスの階段を上って、駅舎の中へと入った。がらんどうだったプラットホームから一転、そこでは人が行き交っていた。すれ違う人はみんな異国の顔立ちをしていて、彼らが呟く言語も耳慣れないものだった。私は彼らと目を合わせないようにして、辺りを見渡した。
 そこは大きな図書館だった。終わりがが見えないほど本棚は列を連ねている。中央は大きな広場となっていて、木製の机と椅子が並べてあり、そこで読書に耽っている人もいた。中央の広場から上は、吹き抜けになっていて、天井はどこまでも高く、空まで高く行ったかと思われるところに、空色に塗られたドームの内側がやっと見えるのだった。中央の広場のわきに本棚が並んでおり、その上には上階が幾層にも連なっていた。
 私はどこに行けばいいのかわからなかったが、中央の広場を横切って、その奥に行けば、出口が見つかるのではないかと考えた。背の高い本棚を抜けて、建物の壁まで突き当たったが、出入り口はどこにもなかった。コンクリートの壁に、一人分の幅だけの狭い階段が設置されていて、私たちは手を繋いだまま一列になって、それを上った。二階にも同じように本棚の森が広がっていた。一階の本棚は垂直で平行に並んでいたけれど、ここは斜めになっていて、ぐにゃぐにゃと迷路のようだ。 
 せっかくだから、一番上に行ってみようと思った。吹き抜けになっている中央の広場を挟んで反対側の位置に、エレベーターが上下に動いているのを見つけたので、私たちはそこまで歩いて行った。
 エレベーターはガラス製で、透明だった。ワイヤーも機械仕掛けも見えなくて、不思議な力で動いているようだった。勝手に乗っていいものかわからなかったし、私たちだけで乗るのは不安だったので、誰かがやってくるまで待った。オレンジ色の髪の男性が一冊の本を脇に挟んで、エレベータの前に立った。エレベーターを待っているようだった。彼は、オランダ人みたい。私はなんとなくそう思った。私は彼と乗ることに決めた。もし何か言われたら、降りればいい。
 透明な扉が開いて、私たちはエレベーターに乗り込んだ。エレベーターの扉が閉まると、透明だった壁や床は、突然霧がかったようにくすんで、外の様子が見えなくなってしまった。私は不安を覚えた。オランダ人をちらりと見ると、彼は呑気に本を読んでいたので、私はなんとか気を取り直した。エレベーターはぐんぐんと上昇して、重力を感じた。
 チンと音が鳴って、扉がスーッと開いた。エレベーターの中は少し薄暗かったので、扉から突然差し込む強い光で、私は思わず目を細めて、外の景色を直視することができない。オランダ人は鼻歌でも歌いそうな軽やかな足取りで、歩き出し、外へ出た。彼が外に出ると同時に、霧がかった壁は再び透明なガラスに戻って、私たちは外の景色を知ることになる。そこは、ドーム型の屋根の上だった。頭上には雲ひとつない本物の青空が広がっていた。オランダ人はびゅうびゅうと強い風に打たれて、オレンジ色の髪を上下左右に逆立たせながら、平然と屋根を歩いている。扉から強く冷たい風が吹き込んできて、一気に肌寒くなった。私はこんな怖い場所にはいられないと思って、扉から足を踏み出せない。一歩も動き出せないまま、彼の踊り狂う後頭部を眺めていた。数秒後、また透明な扉がスッとしまった。彼が今にもこちらを振り向きそうだ、という首の動きを始めた刹那、ガラスは再び曇って、霧のような壁しか見えない。
 次に扉が開いたところは、室内で、図書館だった。私たちは慌てて降りて、入れ替わりに数人の女性が乗り込んでいった。吹き抜けから下を見下ろすと、この階はほとんど最上階だった。
 少し辺りを歩くと、何やら心惹かれる背表紙の本を見つけた。空色の布表紙で、題名は金文字で綴られている。それを本棚から引き抜くと、金色の鯨の表紙絵が描かれていた。私はそれをパラリと開いた。知らない言語なので、意味がわからないまま、しばらくそれをボーッと眺めていて、私ははっと気づいた。私はアミの手を離してしまった。彼女の所在を確認しようと慌てて傍を見るが、彼女はいない。ぐるりと辺りを見渡すがどこにもいない。私はアミを見失ってしまった。
 手を離すんじゃなかった。私は強い不安に襲われた。一人じゃなかったから、知らない場所でも怖くなかった。いや、そんなことよりも、アミの安否が心配だった。なんで急に私を残して、どこかへ行ってしまったの?
 私は人にぶつかるのも構わず、図書館中を走り回った。縦横無尽に広がる本棚の森を走り回って、アミの姿を探した。コンクリートの壁に沿って走っているときに、壁から一本の長い通路が、伸びているのを見つけた。その通路は果てしなく続いて、図書館から、またどこかの建物へとつなぐ連絡通路のようだった。この通路は図書館の上層の高い位置から伸びているので、通路の壁面に設置されている窓からは青空しか見えない。長い長い通路の真ん中に小さな人影があって、その人影は壁にもたれて、床にだらりと座っている。目を凝らすと、その人影はアミのようだと思って、私は反射的にその長い長い廊下を走った。
 図書館ではいくら走っても疲れなかったのに、ここではひどく疲れて、身体が重い。私はアミの隣にどっかりと座って、息切れを整えようとした。彼女はスヤスヤと眠っているようだった。
 通路は全部が白く、窓だけは青色だった。息が整い始めたので、私はとても明るいこの場所で、アミを探し続けていた時もずっと片手に持っていた、あの空色の本を広げた。ぱらりぱらりとページをめくる。
「それで、もう終わりだよ」
 アミがそう言うと、私が次にめくったページは真っ白で、何も書かれていなかった。文章が途切れてしまっていた。
「ねえ、アミ。これは夢かな」
「夢じゃないよ。これが夢になるのなら、私たちの記憶も思い出も全部夢になってしまうよ」
「それはいやだな」
「でも、私たちはもうすぐ目醒めるみたい」
「アミも?」
「うん」
「アミは今眠っているの?」
 彼女はずっと目を瞑りながら話していた。
「うん。でも目醒めるよ」
「私たちにどんなことがあったっけ」
 私たちは見た。水に沈む家々。まるで——。

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