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長い夜を歩くということ 161

 急に、見たこともない樺澤麗華の真剣な表情が脳裏に浮かんだ。

大きく開かれた瞳は私の瞳だけを見つめて、磨き続けた演技力をかなぐり捨てた強さで私を離さない。

私はその瞳をそらさないように、でも見つめないように彼女を見ていた。

彼女は耐えかねたのか吹き出す。

その意地の悪い口を白くて細い指で隠し、目を細めてクスクスと笑いながら

「先生、冗談ですよ」

とからかう。

私は顔を揺らさないように注意をし、ノートに挟んだを指を抜き、扇風機を止めた。

ノートは完全に閉じられた。

 私は立ち上がり、書斎を飛び出た。

玄関の適当な靴を履き、その場にある適当な傘を掴む。

エレベーターに入り込み一階を押す。

ドアが開いた瞬間に飛び出す。

エントランスを置き去りにする。

そして一歩外に出た時、一八〇度広がる黒い雨がはるか上空まで広がっていた。

私は傘を広げて私と雨の境界線を一歩だけ越える。

開かれた布を叩きつける感触が右手に伝わってくる。

もう一歩踏み出す。

体の全てが雨の中に入り込み同化する。

雨音は身体中に流れた。

また一歩、また一歩、私は足を前に進めた。

重みを持った呪いから、私は少しずつ遠ざかっていく。

そして、雨が体に染み付いた余韻を流し、夜が私を包み隠してくれると信じたかった。

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