長い夜を歩くということ 149
「先生は優しい人ですね」
「優しくは、ないですよ。ただ自分勝手なだけです」
私は膝の上に置いた問診票の白を焦点も合わずに眺め続けていた。
「あらあら、急に弱気になってどうしたんですか?」
彼女は私の顔を覗き込むようにからかった。
女優はどれだけの種類の笑顔を持っているのだろうか。
私にはその一つ一つを彼女の意図通り受け取ることができている自信がなかった。
「先生がそんな調子では、私は安心して退院なんてできませんよ。居なくなったら寂しがっちゃうなと思って。やっぱり坊主になって思い出の一つでも作っておいたほうがいいんじゃないですか?」
私は彼女の担当医という役になると決めて、また顔を上げた。
「言いましたよね。私だけ覚え続けるなんて不平等だって」
私は軽く笑いながら彼女に向けて埃を振り払うように顔を上げた。
「いいじゃないですか。ファンなら泣いて喜ぶようなことですよ?」
「私が坊主になったら前に会った記者が笑いながら飛んでくるだけですよ」
「ふふ。やっぱり先生はそうでなくっちゃ」
彼女は細い指を唇に当ててクスクスと笑う。
その言葉の揺れは演技なのか、彼女なのか、それとも彼女の奥の何かなのか、やはり私にはわからない。
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