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長い夜を歩くということ 105

「申し訳ありません。あいにく手持ち無沙汰なもので、このようなものしかなく、ご容赦いただければ幸いです」

私は彼に名刺を手渡すと今度は私が名刺をもらった。

「これが私の最後の名刺交換だな」

と神山さんは初めて名刺交換をした新人のように微笑み、じっくりと名刺を眺めていた。

「ほう、お医者さんだったんですね。これは意外でした。」

神山さんはそう言うとと一つの場所を見て止まっていた。私が彼の視線の先をたどった時、陽だまりのように優しく包む声が私の肌に触れた。

「そうですか。塩尻さんもこの一年間、頑張ってこられたんですね」

私はその言葉の意味を一切の迷いもなく理解することができた。しかし、何も言わなかった。

神山さんも静かに私の名刺をしまった。

最後の一口を私が飲み終えた時、雨が降り出していた。

満月は隠れてただ騒がしい雨音が私たちを包みこんでいた。私は神山さんにお礼をして部屋を出た。

彼の顔にはもう涙の跡すらなく、初めて会った時よりも明るく笑っていた。

「また、あなたとはどこかでお会いしたいものです」

彼は私が部屋を出る時そう言ってお辞儀をした。

「きっとまた会えます。その時には…今度は…私が話を用意しておきます」

私はなんとか笑っていた。

 雨の音は強まり、土砂降りに変わった。部屋に戻るとソファに置いたバッグがふと目に入った。

私はそれが自然であるように、中に手を突っ込み、少しだけ厚みのあるものを掴み、取り出した。

表紙の厚紙をめくろうとして、手は止まった。私はそれをまた丁寧にバッグの中にしまった。

あらゆるものに衝突し、流れて消える雨の音に、私は頭を擦り付けるように委ねた。

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