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長い夜を歩くということ 90

 次の日、彼は会社に行くことができなかった。

自分で会社を興してから一度たりとも休んだことはなく、それは彼女と会う前も、やけ酒を浴びていた時でさえなかったことだ。

費やした日々と思いは結実して彼に「大企業の社長」という肩書きを作り、実家さえ超えるような旗印を授けてくれた。

一日休むことが十年の信頼を泡に帰すことを彼は社会人生活で強く叩き込まれ、それは嘘ではないと確信している。

しかし、積み上げた日々が今、「ただの人」であったはずの彼に噛みつき、引きちぎろうとしている。

求めてきたものの果てが幸せを破壊する義務と責任の檻だった。

彼はただ逃げてしまいたいと思った。ただ遠く、満月を眺めた熱海よりも遠く、海さえ超えて、彼女の歌う言葉が通じる国に、彼女の手だけを握り、二人でいなくなってしまいたかった。

彼はソファに座り、カーテンの隙間から漏れ入る光の柱をただ呆然と眺めた。

どれだけの時間が彼の姿を見て通り過ぎたかわからないが、彼女がソファに座り、彼の肩に触れた時、朦朧とした意識がようやく現世に戻った。

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