見出し画像

長い夜を歩くということ 58

 蚊取り線香の煙が、風で繊細に揺れながら天井に伸びていく。

肌を拭くように撫でる夜風の涼しさは、満月に一番近いこの場所でしか感じることはできないだろう。

鯛のお造りはまだ三分の一以上残っている。

神山さんは仕事を辞めてからの楽しみについて語ったが、その中でも、「旅行なんて今まで行くことはできなかったから」と話す姿が少年のように楽しげで印象的だった。

しかし、どこか必死すぎるような感想も持った。

死に場所を求めているような、荷物の置き場所を探しているような、そんな歪さが笑顔の中に隠れている気がした。

話が一段落すると神山さんは横を向いて月を眺めた。

その顔は泣き出しそうなほどに優しくて、孤独な月を抱きしめるようにまっすぐだった。

私も釣られて大きくなった満月を見た。

しかし、これ以上何か感情を得ることに抵抗があり、すぐに鯛の黒目に視線を戻した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?