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写真史の稀書・奇書・寄所(6)ー『開化都々逸』

 大学院のとき、同じ美術史ゼミの仲間と集中的に川柳や都々逸について調べたことがある。「サラリーマン川柳」やペットボトルのお茶のラベルのそれのように、川柳や都々逸は元来そのときどきの世相や流行りものを反映している。(*川柳は五・七・五で都々逸は七・七・七・五。後者は笑点などのお題としておなじみだ)

 なにを隠そう、明治時代はは写真もその立派な題材で、『明治文化全集』などを中心にあさっただけでも、"写真都々逸"はゆうに100首は見つけられる。都々逸は江戸ユーモアの真骨頂のひとつともいえるもので、パンフレットのような薄い「都々逸集」もあまた出版されている。

 僕の手元にある『開化都々逸』(明治10年前後刊行か)のはそのうちのたった1ピースなのだけれど、48首のうち3種が写真にかんするものである。なかなかな割合だといえないだろうか。本書は句とともに挿絵も描かれていて、1コマのマンガと捉えることもできる。

 まず、収録されているうちの2首を見てみよう。下の写真の左から詠んでいく。

「まゝになるなら 写真にとつて 君に見せたや 我こゝろ」

「ぬしの来ぬよは 写しんをだして ぐちのやうだが だいてねる」

「二人ならんダ 紙とり写しん 末の末まで 消ぬやう」

 挿絵からもわかるが、はじめの2首の詠み手はどちらも女性。個人的には3首目も女性のように感じる。本書にかぎらず、写真関係の都々逸は女性が詠み手のものが意外とおおい。そして、その内容的な傾向はというと、ボヤキ系(1首目)と乙女心系(2、3首目)に大別される。乙女心系の中には、3首目のようにのろけているようなものもあれば、2首目のような、相手の男が来なくて待ちわびている心を詠んだものもおおい。

 この3首のなかで僕が気に入っているのは2首目だ。というのは、ほか2首は写真をモノとしてみているのに、これは「ぬし(主)」の身代りで、物質を超えた意味あいをもっているところにかわいらしさと、同時に写真のもつ魔術的な存在意義が見え隠れするからである。しかも、写真を抱きしめて寝るというのは、こればかりでなく、ほかの都々逸集にも散見できる。たとえば、『東都々逸五百題』(明治22年)の「幾夜寝覚の さびしき余り 写真抱きしめ 床〔とこ〕の守」や、『明治新撰都々逸袖之眺』(明治27年)の「一人寝る夜は 写真を抱いて 夢を頼りに 言ふ口説」などなど。

 もちろん、肖像画にしろ肖像写真にしろ、人物が描かれ写っているものは少なからずその人の身代わりと無意識に思う人はおおいだろう。けれど、たとえば選挙の時期になると、よく悪ガキが政治家のポスターの目玉に画鋲を刺したりするけれど、そのひとはそれで落選したりよもや死んだりするわけではない。いっぽう、藁人形をかんがえてみよう。藁人形のほうが怨念がこもっているように感じるし、いくら恨んでいる人がいたとしても、実際に藁人形にその人の写真を貼って釘で刺すなど、迷信とはいえなかなかやる勇気はない。

 僕がこのお気に入りの都々逸にたいしておもったのは、いまのわたしたちがもつレベルでの一種の身代わりというよりは、もっとつよい、いってみれば分身のようなレベルで捉えていたのではないかということだ。

 それは、とりもなおさず写真をめぐる迷信とも関係するだろう。現代において、写真に撮られたら死ぬかもしれないなんてほとんどすべての人はおもわないだろうし、3人で撮ると真ん中のひとが死ぬらしいから真ん中は避けようとか、人形やぬいぐるみを一緒に入れて「4人」にしようとしたことなど、あるだろうか?

 でも、明治の人たちはそれを真剣に実行していたのだ。もうひとつ、この時期にまつわる注目の事例をあげておこう。御真影(天皇の写真)がこれくらいの時期から全国の小学校に下賜されるようになるのだが、それに万が一のことがおこらないように"警備"をする目的で生まれたのが宿直の制度だったり、多木浩二の『天皇の肖像』によれば、学校が火事になったとき、御真影救いだそうとしておおくの校長が命を落としたという。天皇陛下とはいえ、平成・令和の時代に学校に御真影があったら、こんなこと起こるだろうか?

 もちろん、戦前の天皇は現代とはかなりことなった存在意味をおびていた。そこまで極端な例を出さずとも、大衆のあいだでも写真は写された人の化身であり、分身だった。そんな認識がありありとあらわれているのが、都々逸の愉しみなのである。

 おそらく日本で初めて写真を題材にしたと考えられる小説にも、そんな認識がよく表れている。次回はそれを紹介することにしよう。

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