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ロージナの風:武装行儀見習いアリアズナの冒険 #135

第十章 破船:3

 「承知いたしました。

ルートビッヒ様」

スペンサー掌帆長は、悲しみを湛えつつなおもどかしそうな目で、ブラウニング艦長の背を見た。

艦長室の扉が閉まったことを確認した後、スペンサー掌帆長は表情を笑顔に変え、鋭く号笛を吹き鳴らした。

「フォアコース。

フォアトップスル。

フォアトゲルンスル。

縮帆しまーす。

とっととヤードに上がりなさーい。

メインマストもコースだけ残して後は縮帆です。

フォアマスト要員は手が空き次第ジブとスパンカーにまわりなさーい。

メインマストはトップ、トゲルンともに適時展帆ありです。

おろそかにしてよいリギンは一本もありません。

ハンナ。

シュラウドは公園の遊具じゃありませんよ。

後で私の所へいらっしゃい。

おしおきします。

さあみなさん。

元気よくお仕事しましょう」

甲板では次の行動のために身構える娘たちの、はやりにはやる闘気が漲っていた。

彼女たちは、スペンサー掌帆長の命令が飛び始めると待ってましたとばかりに、一斉に各々の職分に全力を傾け始めた。

 色とりどりのコスチュームで身を固めた娘達が、シュラウドをましらのように駆け上がり、各々受け持ちのヤード上で散開する。

各ヤードではすぐさま帆が畳まれる。

メインマストのトゲルンヤードまでの高さは約三十メートルある。

文字通り目もくらむような高みでそうして縮帆作業に熱中する少女達の動きは、ましらと言うより猫のようにしなやかで美しい。

 「内陸を目指して進路を取りまーす。

ジブとスパンカーの連携に合わせてメインマストのコースヤードを回しますよ。

皆さーん!

日頃の訓練の成果を見せてもらいまーす」

マリア様は楽しげな笑顔で歌うようにのびやかな声を張り上げ、次々と命令を繰り出した。

そんなマリア様の鞘走るかのようなバイタル具合に、甲板では娘たちの間にいっそ恐怖と言っても過言ではない熱気が満ちた。

ひとりは皆のため。

皆はひとりのため。

気を引き締めて掛からねばならない。

 その時、ハッチから顔色が蒼白になったモンゴメリー副長が現れ、彼女らしからぬ上ずった声で叫んだ。

「ステラ!

すぐ士官次室に来てくれ」

 この時代、人が罹患する殆どの内科的疾病と外科的傷害は、先祖代々受け継がれてきた継代型ナノマシーンが、オートマティックで自律治療を行っていた。

結果として医師の仕事は、内科外科を問わず患者のナノマシーンによる自律治療に、必要十分な時間を稼ぎ出すことに重きが置かれていた。

自己回復のサポートは、昔も今も変わらぬ医学の本道ではあった。

要は出血を止め損傷部位を整復して原型に近い形に整えたり、脱水を補正して栄養と体温の管理を適切に施すと言うことに尽きた。

即ち患者に対して再生的外科処置と愛護的看護を行えれば救命率はかなり高いのだった。

その事実が、あえて言うならこの時代の医学的安直さだった。

医療全般を俯瞰すれば、治療に於いて感染症や遺伝的疾患、免疫機能や代謝の異常、悪性新生物を心配しなくて済むのはありがたいチートだった。

こうした現状はある意味、古代の医師が夢想したであろう、医療ユートピアそのものだったかもしれない。

 ステラ・グラハム・キョウヅカ海佐は一般臨床医の資格を持っていた。

彼女は本来、軍医として戦列艦などの大型艦や海軍病院で勤務すべき人材だった。

しかし万事多才をドレーク提督に見込まれて、軍医兼務の主計長兼事務長としてピグレット号に引き抜かれた。

 通常主計科のクルーは、衛生兵としての専門訓練を受けている。

そのことから、軍医の乗艦がない小型艦での医療は、主計科が受け持つものと相場が決まっていた。

しかし正規の医師免許を持ちながらも、ステラは現役の頃から本来専門外の主計長兼事務長を本業として勤務していた。

軍医が片手間に主計と事務の指揮を執っていたのだ。

 ステラは本来ならエリート街道を驀進できるほどのスキルを持ちながら、軍でのキャリアを投げうった。

ドレーク提督のスカウトに応じ、本来であれば軍医の乗艦が必要とされ無いスループ艦へ転勤したことには、軍務局も頭を抱えた。

おまけにステラは、ピグレット号の予備役編入に合わせて他のクルー同様、付き合い良く自分まで退役してしまったのだ。

軍務局は将来の軍医総監候補を失いさすがに慌てたが、ドレーク提督の肝入りとあってはなすすべもなかった。

そんなエリートらしからぬステラの身の処し方は、あまたあるピグレット号の謎のうちでも最大の不可解ではあった。

 ピグレット号は現役の頃からケイコ・マハン・ドレーク提督子飼いのスループ艦として、単艦で特殊任務に就くことが多かった。

ステラの人事一つを取ってみても、手の内にある人材を贅沢に使い切ることをいっさいためらわない、提督の強い意志が見て取れた。


 モンゴメリー副長がミズ・ロッシュを運び込んだのは、士官次室と呼ばれる下甲板の小部屋だった。

士官次室は、平時に於いて士官候補生や下級士官の居室に当てられる部屋だった。

駆け出しの士官にとっては仲間と共有する憩いの場でもある。

一方そこは、交戦時ともなれば医療班が置かれる部屋になった。

いざ負傷者が出始めれば、軍医と衛生兵を兼務する主計スタッフの活躍が期待される修羅の場でもある。

 メインマストのブレースに付いていたステラが、呼びかけに応じてすぐさまハッチに駆け寄ると、モンゴメリー副長はことさら小声でその耳に囁いた。

「ミズ・ロッシュが負傷された。

士官次室に運び込んだが、意識が無い。

致命的な外傷は見当たらないが頭部と左の上腕からかなり出血なさっている。

くれぐれもよろしく頼む。

このとおりだ」

モンゴメリ副長はステラに手を合わせた。

「助手が必要かもしれないが、主計科のスタッフは取りあえずブレースでそのまま操帆だ。

力仕事を優先させる。

すまんが当面はステラ一人だけで何とかしてくれ。

スタッフは次の会敵後、戦闘が始まったら負傷者と一緒に随時下へ降ろす」

知らせを受けてブラウニング艦長が艦長室から息を切らせて駆け付けた。

「ルーシー、子供たちは無事?」

「艦底甲板どころか下甲板まで殆ど持っていかれてる。

先生は照準器からラッタル付近まで飛ばされたようだ。

残骸の向こうに見える範囲で子供達の姿はなかったし呼びかけにも答えがない。

私は残骸を処理する工具を持って現場に戻り、とにかく子供達を捜す。

ルート。

上は大丈夫だな?」

そう言い置いたモンゴメリー副長は返事を待たずにきびすを返すと、すでに行動に移ったステラの後を追いハッチへと駆け出した。

聞き耳を立てていたのだろう。

後部甲板周りで作業中の娘達の顔が明らかに青ざめ強張っていた。

「上はマリアがいるから心配しないで。

子供たちのことは任せたわ、ルーシー!」

ブラウニング艦長がモンゴメリー副長の背中に向けて声を放った刹那だった。

ユリシーズ号で生き残っていた右舷の砲から最後の対空射撃が行われた。

第一射や第二射に比べると数も少なく勢いのない砲撃音だった。

ところが、ユリシーズ号自身の被害状況と射距離を考えれば、今度の射撃精度も驚くほど正確だった。

ユリシーズ号は、大破して左舷側に傾斜しつつも第三射を放つ位置まで、追撃のための操艦を続けたのだ。

そうして実際に高射砲撃を仕掛けてきたクルーの能力は端倪すべからざるものだった。

着弾音は、少し優しげな和音で響いた。

かろうじて残存していた艦底の構造物が、あらかたばらけて海上へと落下した。

第三射の砲弾もやはり鉄弾だけだった。

敵ながら目的を見誤らない、天晴れ堂々たる合戦作法だった。

こうしてピグッレット号はフィールド下の艦体構造物をほぼ完全に失った。

二人の士官候補生と甲板犬の安否は不明だった。

混乱のさ中、艦尾からふたつの落下傘降下が目撃されたが、それも不確かな報告だった。

生存に一縷の望みはあったが、アリアズナとディアナそれにスキッパーは、戦闘中行方不明と航海日誌に記録された。

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