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ロージナの風:武装行儀見習いアリアズナの冒険 #38

第三章 英雄:8

「ありがとう。

ミスター・カナリス」

レベッカは優しげな笑みを浮かべ要覧を受け取った。

付き合いの浅い士官候補生は気付かなかったが、“氷の女王”の振る舞いとしては、大層珍しいことだった。

カナリス士官候補生は重大な任務を終えた兵士のように高揚した表情を浮かべ、挙手の敬礼をもって答えた。

訓練とはいえ戦闘配置の後甲板で求められた任務を果たしたのだ。

それもあの伝説のインディアナポリス号で、ヨーステン艦長の目の前で。

加えて“氷の女王”バイロン副長は名指しで自分に命令を下したのだ。


『ミスター・カナリス!』


その厳格で冷徹ともいえる軍人の声は、こんな時だと言うのに、驚いたことに可愛いとしか形容できない響きで、若き士官候補生の鼓膜をくすぐった。


『ミスター・カナリス』


“氷の女王”レベッカ・シフ・バイロン海尉は他ならぬ僕の名前をしっかり覚えていて下さった。

僕の名前を澱みなく自然に口にされたのだ。

艦長や副長の立つ後部甲板で、訓練とはいえ戦闘配置の場で、任務を一つこなしたのだ。

兵学校に戻ればクラスメートのルイやジェシカにどんなに自慢できることか。

まして、僕は“氷の女王”に直接、名を呼ばれたんだ。

少年は目を見開きインフレーションを起こしつつある妄想に萌えながら静かにシステムダウンした。

 レベッカは手元の要覧に目を落とした。

先程無意識でしたように、ふわりと微笑めば天使の様に愛らしい唇を、残念なことにことさら嫌らしくニヤリと歪めてみせた。

「確かにピグレット号は退役後、名前を第七音羽丸と改めたようです。

同時に艦長や副長を含め、ほとんどのコアスタッフがそのまま予備役に編入されています。

クルーもほぼ全員が第七音羽丸に移籍してますね、これは。

ということは、古株はあの遭遇戦にまず間違いなく参加していますね。

ほーっ、記録によればあの時は慣熟航海中だったとなっています。

運の悪いことに多分乗員の上から下まであの艦で仲良く初陣だったはずです。

連中が聖者か病的メリーゴーランド好きじゃない限り、本艦は相当の恨みを買っているかと」

「思い出深いなー。

あれから何年になる?

退役後船体をピンク色に塗り替えたんだね。

そういえばあの遭遇戦からこっち、対空戦闘やってないよね。

いやいや、それにしてもピグレット号の回転ぶりは見事だったなー。

・・・どうでも良いことなんだけど、その要覧、やけに詳しく書いてあるね」

チェスターはレベッカとは対称的とも言えそうな、見事に邪気のない顔でクスクスと楽しそうな笑いをもらした。

「あの時の遭遇戦は兵学校の教科書にだって載っていますからね」

レベッカの顔が今度は誇らしげに輝いた。

 「そう、あれから五年ほどになるでしょうか。

艦長と副長が着任して半年ほどの頃だったと記憶しております。

よほど強靭な三半規管の持ち主でもたまらなかったでしょうな。

振り落とされた者がいなかったのは、連中にとっても不幸中の幸いというところだったでしょう」

いつの間にやらウィリアム・ヨーゲルソン・タイラ航海長が、レベッカの後ろに控えていた。

日に焼けた皺の深い顔を綻ばせ、潮気の強いほがらかなバリトンで愉快そうな声を上げた。

「やっぱり、ゲロゲロだったんですかね」

チェスターが酢を飲んだような顔をした。

「ゲロゲロだったでしょうな。

自分も海軍に奉職してからもうだいぶ年月が経ちました。

見るべきものは見て来たつもりの老兵ですが、あの時の遭遇戦は敵フリゲート艦を無力化したところから締めの対空戦闘まで、本当に目を見張るできでした。

我が回想記では特別に一章を充てたいところです」

タイラ航海長は、いかにも長年潮風と共に暮らしてきた男らしく屈託のない笑い声をあげた。

「いやー、タイラさんにそこまでほめられると照れちゃうな。

光栄であります!

それもこれも、クルーのみなさんあってのことですよ。

いつも変な思い付きをちゃんとした形にしてもらって、みんなにはホント感謝してます」

チェスターがぺこりと頭を下げると、タイラ航海長は困ったような表情を浮かべ、今度は軍人らしからぬ穏やかな調子で口を開いた。

「艦長はつくづく変わっていらっしゃいますな」

 帆は真っ当な水兵が満足するに足る理想的な風をはらみ、艦は軽快に水を切って巡航を続けていた。

そして、誰も気付くことはなかったものの、その時レベッカはあろうことか慈母の如き優しげな笑みを浮かべて、タイラ航海長と遣り取りをするチェスターを見つめていたのだった。


 通常、帆船同士の戦いは、大方は風任せの会敵後、ほぼ敵の顔が見える近距離での砲撃戦で始まることが多かった。

砲撃戦で決着が付かなければ船縁(ふなべり)を接した後、互いに相手の艦上に乗り移って、最後は白兵戦に終わるということが稀ではなかった。

木造の軍艦は火でもかけられない限り、実体弾で船体を穴ぼこだらけにされてもそう簡単に沈むことはなかった。

まだ信管の再発明はならず、火薬を仕込んだ炸裂弾は実用化されていなかった。

 加えて戦時下や合法的な戦闘下であれば相手を拿捕すると、その船の積み荷や艤装、船体自体の価値に応じて勘定方から報奨金が降りるという事情があった。

そのこともあって、ある意味戦いは敵の撃沈よりいかに相手の船の価値を損なわずに決着をつけるかが、艦長の腕となった。

捕虜についても、その人数と重要度に応じて懸賞金や身代金の対象となった。

敵の命と言えども値段がつく以上、あたら疎かにはできなかった。

いかに味方に被害を出さず、同時に敵兵も殺さず、可及的速やかに敵艦を降伏させることができるか。

それが戦闘を行う上で、最も重要な勝利条件だった。

殲滅戦なぞ愚の骨頂。

敵艦と敵兵を損なわずに勝利する力量を持つ艦長こそが、クルーに富をもたらす良い艦長だったのだ。

 先の大戦時には初戦から続くしがらみ故、両者とも採算度外視の殲滅戦にエスカレートしてしまうことも多かった。

双方海戦の作法を無視する仕儀に及びがちだった訳だ。

このことは双方戦後まで持ち越された遺恨の一つにもなった。

 蛇足ながら付け加えると、クルーの経済的幸福度はいつに、スマートに勝ち続ける艦に乗艦しているかどうかに掛かっている。

今が戦時であったとしよう。

貧乏性であるがゆえに、人的物的被害が極大になる殲滅戦を、頭から否定してはばかること無いチェスターではある。

彼が率いる艦に乗っていれば、クルーの皆はそれこそ士官から一兵卒に至るまで、ひと財産もふた財産も築けたことだろう。

 事実、フリゲート艦の任務は単艦行動による通商破壊に重きが置かれていた。

チェスターが戦時に艦長であったなら軽武装の商船が主な相手となる。

重武装の軍艦や私掠船に比べれば、商船などネギをしょった鴨みたいなものだろう。

 無傷で拿捕した商船のお値打ちに、積み荷の値段を加算すれば結構な利益が望める。

勘定方に上納分を持っていかれ、木っ端役人に多少ピンハネされたところで、ほぞを噛む程のことはない。

私掠船の拿捕や商船の救出とは、比較にならないほど沢山の報奨金を稼ぎだせることは確実だったろう。

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