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ロージナの風:武装行儀見習いアリアズナの冒険 #27

第二章 航過:15

帆船は風上に対してもヤードをいっぱいに回したつめ開きの状態にすれば、船の性能にもよるらしいけれど、正面からの向かい風に対して最大四十五度くらいの角度で切りあがって行く(風上に進む)ことができるらしい。
いつか見せられたディアナのバイブル、”武装行儀見習いの為の帆船生活巻の壱”にそう書いてあった。
 けれどもそうなると風上に対して斜めに航走することになるわけだから、ずっと同じ開き(帆に風をうけること)だと目的地点からずれた進路が続くことになる。
そのまま明後日の方向に行くわけにはいかないので、時々帆の開きを真逆にして進行方向を変えてやる必要がでてくる。
向かい風に逆らって目的地点まで行くため、舳先を時々左右に振って進路を変えジグザグに航進して行くのだ。
 この進路を変えるために行う帆の開きの変更には上手回しと下手回しがある。
上手回しのほうが素早く無駄なく進路が変わるものの、タイミングの取り方がとても難しい。
下手回しより人手もたくさん必要で、全員の息がぴったりと合っていないと駄目。
タイミングを誤ると、ヤードを回す過程で帆が向かい風をもろに受け、船が停止してしまうことも有るのだ。
これを”裏帆を打つ”というのだが、船を急に止めたいときなどはわざと裏帆を打たせることもある。
艦隊行動を取っている時に下手糞な艦長が裏帆を打とうものなら即解任と言うから、帆船の操艦は職人芸みたいなところがある。
ちなみに、現在の第七音羽丸は人手が全然足りていないし、乗員の五人に一人は武装行儀見習いだから逆立ちしたって上手回しはできない相談だ。
 「のろのろと風上へ切り上がって、インディアナポリス号に追いつくまであと二千メートルというところだったかしら。
お腹の底から揺さぶられるような砲撃音がしたの。
先制砲撃は、やる気満々で突撃していったブラックパール号の艦首追撃砲から放たれたものだったわ。
定められていた交戦規則通りなら、絶対に当てちゃいけない威嚇射撃だったはず。
『当てちゃダメでしょ〜』ってね。
仏頂面のブラウニング船長が後でぼやいてた。
 筋立てとしては、まずはインディアナポリス号の左舷前方から接近しつつ至近弾で威嚇して停船をうながす。
停戦を拒否したら左から右へと艦首を掠めざまに縦射して戦闘力を奪う。
『うまくいけばそのまま教科書に載りそうなスマートな型で極めようとしたのじゃないか。
そうして後日、法務部でさえ難癖付けようのない報告書をでっちあげるつもりだったのだろう』って副長が言ってたわ。
ところが、ブラックパール号のなんちゃって威嚇射撃は、ものの見事に初弾からインディアナポリス号のどてっぱらに命中しちゃったのよ」
ほんと馬鹿には付き合えないわとクララさんが怒りをあらわにした。
「わざと?」
パットさんが小首を傾げる。
みんなの胸の内がなんだかざわざわしているのが分かった。
「後甲板のお偉いさんが、初めから当てろって命令していたとは思えないけどさ。
まあ、たぶんそうでしょうね。
砲術長は当てる気で撃ったんでしょうね。
後でタコ殴りにしちゃえば、当ててはいけない威嚇射撃のことなんてどうにでもごまかせるってノリだったんじゃない?」
第七音羽丸の砲術長でもあるクララさんが浮かべた苦々しげな表情は、当時のピグレット号の乗員の気分を端的に表しているような気がした。
「本当なら停船を促す為の威嚇射撃を、あえて命中させることでインディアナポリス号を挑発する。
誘いに乗って反撃してきたら自衛戦闘のどさくさに紛れてそのまま葬り去ろうと考えた、ということですか?」
リンさんが、ずいぶんと行き当たりばったりですねと小首を傾げた。
「まあ、当たらずといえども遠からずかな?
上つ方と下つ方の阿吽の呼吸で放たれた威嚇射撃の砲弾が、表向き誤って命中してしまう。
敵艦が怒って反撃してくる。
不可抗力の誤射だったけど近接戦闘下では誤解を解いている暇はない。
やむを得ず応射して戦闘はエスカレート。
そうなったらもう誰にも止められないわ。
威嚇射撃は当てないから威嚇射撃なんだよ?
ブラックパール号の実力から考えれば、威嚇射撃をミスって相手のどてっぱらに風穴を開けるなんてちょっと考えられないからね」
確かに砲撃クラブの部活動でさんざん大砲の撃ち方のお稽古をしたけれど、砲撃は当てる方が圧倒的に難しいのは子供にだって分かることだ。
当てない射撃ならわたしが砲手だったとしても自信を持ってやれたことだろう」
「で、やっつけるつもりが逆にコテンパンにやられちゃったってことですか?」
「アリーてめえ、いってぇどっちの味方だ。
あっ?
ブラックパールの○○かすどもは○小○茎の糞野郎や下衆なごろつきばかりにちげぇねぇが身内だぞ。
この非国民の○女めが。
あとで血反吐が出るまでホルストベッセル歌わせちゃるから、うがいして待ってろカス!」
アキコさんがそれは気持ち良さそうに吼えた。
海千山千かも知れない年かさのお姉様すらドン引くのが分かった。
アキコさんったら、みんなが許容できる冗談のラインを越境してしまったかもしれない。
「アキちゃん。
むつきを当てている頃からの竹馬の友として、僭越ながらご意見させて戴けるのならですね。○○かすだの○小○茎の糞野郎だの、それがなんのことなのか、浅学なわたくしめの知るところではございません。
けれども厳格な小父様やいつもお優しい小母様がお聞きあそばされたらですね。
さぞやお嘆きになるに違いないと拝察いたします、ですよ?」
アキちゃんの幼馴染、音羽村のアリアズナとして脱力気味にツッコミを入れてみた。
「アリーの言うとおりだよ。
下品にもほどがある。
マリア様は言葉使いには厳しいお人だよ?
これまでは、お目溢しもあったと思うけどね。
今の言いざまがマリア様の耳に入ったら、さすがにあたしもあんたをかばいきれない」
クララさんがマアマアと、わたしの突っ込みに怒り狂い、沸騰する薬缶みたいにいきり立ったアキコさんをたしなめながら、しかめっつらをした。
アキコさんは『マリア様の耳に入ったら』というクララさんのその一言で、豪邸の居間に飾られる美麗ながら楚々としたビスクドールと化した。
アキコさんは、気品のある佇まいとなってからシステムダウンしたってこった。
 クララさんは何事もなかったように話を再開した。
「いやー、その後の始末ときたら敵ながら惚れ惚れする程見事な操艦と状況処理だったよ」
「アキちゃんお下劣!
エッ、状況処理?
戦闘じゃなかったんですか?」
リンさんが、清純そうな笑みを口の端に浮かべたまま固体化したアキコさんの頭を、拳固でぐりぐりしながらなぜなに顔で聞いた。
「あれを戦闘だなんて言ったらさ。
運動会で騎馬戦をやったことのある者なら誰にでも、メイド服着たワルキューレがもれなくヴァルハラの入場券を配ってくれるわ」
「太鼓腹のうすぎたねースケベ親父が場末のあいまい宿で腹上死したって、そいつが一戦ってことなら、ワルキューレが大喜びで迎えに来るってこってすね」
性懲りもなく再起動したアキコさんは、人も羨む美しいかんばせを崩さぬまま、薄桃色の形の良い唇から真っ白な歯を覗かせて、瞬時のアドリブを決めてみせた。
クララさんの大げさな例えを聞いて我慢できなかったのだろう。
リンさんがぐりぐりしていた拳固を振り上げ、アキコさんの頭頂を渾身の力で殴りつけた。
クララさんの目は雪ん子の不始末をなじる雪女のように冷ややかだったが、リンさんの状況処理には満足そうだった。
アキコさんも間髪を入れぬアドリブのできに、もう思い残すことはなかったのだろう。
ある意味幸せそうな片笑みを浮かべたまま瞑目した。    
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