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ロージナの風:武装行儀見習いアリアズナの冒険 #32

第三章 英雄:2

 傷みかけた内臓肉のブロックを食べ易くするためには、ニンニクと胡椒が大量に必要だった。

ものの道理としては、兵站部門にクレームを入れて、傷みかけた肉を本来の補給品と差し替えさせるのが本筋だろう。

しかしながら、新任の主計長は海千山千の補給部隊下士官と渡り合って道理を通すには、いささか役不足の感を否めない。

新任主計長の出鼻を挫かず、更には兵站と揉めずにこの難局を乗り切る解がニンニクと胡椒と言う訳だった。

ニンニクと胡椒の購入は、腐りかけた肉を何とか食べられる一品とするために是非とも入り用だったが、非正規のお買い物になる。

そこで艦内きっての便利屋でもある掌帆長に、例によって例のごとく“艦長のお願い事案”として頼むことに決めたのだった。

 インディアナポリス号はフリゲート艦として十全以上の実績を積んできたので、艦の金庫には賞金の内部留保分がかなり貯まっていた。

ニンニクと胡椒の購入費用はそこから当てれば良いと、少々得意気な気分も生じた。

お金があるのなら質の悪い官給糧秣など廃棄して一般市場から調達すれば良いだけの話だ。

しかしながら、妙なところで律儀かつ貧乏性なチェスターだった。


 チェスターの名前は海軍部内でそれなりに知られていた。

だから兵站の問題にはよその艦長達ほどの苦労はないはずだった。

チェスターのカリスマに加えて、人脈を通じたちょっとした情実がらみの褒美をちらつかせれば、兵站上層部のちまちました命令系統を操ることなど造作もなかったろう。

それがやり過ぎと言うなら、鞭と飴を使い分けて小狡く立ち回ればよかった。

現場の下士官兵を脅し煽てて言うことを聞かせれば、上からの命令をすっ飛ばして、兵站の物流チェーンに割り込むことも可能だった。

 そうしたいく通りかの不正の作法さえ心得ていれば、主計長の能力に多少の疑義があった所で問題はない。

他所の艦長が皆やっている不正でもある。

悪事とも言えぬ悪事に手を染めれば、補給部隊に規定を超える質と量の物資納入を無理強いできる。

そんなことくらいは、チェスターも承知していた。

併せて多少の鼻薬を使って警務隊の口利きを取り付ければ、注文書通りの品が中抜きされることなく搬入されることも分かってはいた。


『艦を任されている者なら誰でもやっていること』


頭で理解はしているがそれをできないのが、戦略的思考( ≒政治的思考)の不得手なチェスターという男だった。

 様々な人間や組織の誰彼何処其処との細かい貸し借りやらシガラミをうまく塩梅して捌いて行く。

そのことは、補給の問題に限らず自身の出世や優秀な部下の確保にも必要不可欠なことである。

チェスターにも自分がそうした政治的作為を不得手とすることは痛い程分かっていた。

しかし、チェスターには先まで見通した面倒な人間関係の貸借対照表を、順序立てて頭の中で作り上げることなど金輪際できない相談だった。

まして、そこからパズルの一片のような答えを探しだし、欠けた絵柄の中に根気よく当て嵌めていく作業をこなすなど、どうころんでも不可能だったろう。

 チェスターは、人間同士の貸し借りのバランス問題がうまく解けると、新鮮なフルーツコンテナを安定供給してもらえるという事は理解できた。

理解はできたが、例えば無能で惰弱な士官候補生を自艦に受け入れることで貸借の帳尻が合うと言う理屈には、誰が何と言おうとも納得がいくたちではなかったのだ。


 「ベッキー、君はどう思う?」

チェスターは今自分の頭の中に展開した補給に関する取りとめのない思いへの問を、ほとんど寝言のレベルでつい口にしてしまった。

彼の不意を突いたような問は、そばに控えていたレベッカ・シフ・バイロン副長をいつになく戸惑わせた。

「はっ?」

バイロン副長はチェスターの突然の問いかけに顔を上げ、ほんの一瞬だけ不思議そうな表情を作り微かに首を傾げた。

彼女は後部甲板の定位置、彼より半歩ほど左後ろよりに立っていた。

 バイロン副長は合切帳に目を落とし、午後直(アフタヌーン・ワッチ)の作業確認と追加事項の検討に集中していた。

それでついうっかり、チェスターへの注意を怠っていたのだった。

「あっ、いやいい」

バイロン副長の困惑した様子に気付き脳の内省モードが強制終了したのだろう。

チェスターの眠気はいきなり吹き飛んだ。

そして今しがた発した自分の言葉の訳の分からなさを改めて思いおこし、ひどく動揺した。

顔が熱く火照り背中が汗ばむのを感じた。

 常に自分の傍らにいるこの有能で気心の知れたバイロン副長に、いつのころからだろう。

チェスターは心理面で公私共に少々依存気味といえる状況に陥っていたのだった。

依存を引き起こすほどに並外れたバイロン副長の手厚い心遣いは、人間不信が深層心理に横たわるチェスターにとって、最早精神汚染と表現する他ない段階にまで浸食を進めていた。

心を無警戒に開きすぎるせいか勤務中や非番の時、しばし考え事に耽るうちふと前ふりなしで相槌や意見を求めてしまう。

そんなことが珍しくなかったのだ。

チェスターの心の中で紡がれた思考の先から出た独白に対して、あたかもそれまでずっと二人で対話していたかのように、バイロン副長はいつでも的確な答えを返す。

それは職場の上司と部下というより、長年連れ添った仲の良い老夫婦にも似た遣り取りだったかもしれない。

 最近では半ば当たり前となってきている彼女の当意即妙な受け答えを、チェスターはとても心地よく有り難いものと感じていた。

しかしチェスターのそうした内心は傍からはとても分かりにくいものだった。

いきおい周囲の者達が、バイロン副長の神業めいた補翼の裏にある報われぬ気苦労を想像してしまうのは、自然の成り行きと言えた。

 狭い後部甲板上のことである。

二人と顔を突き合わせて勤務している者達は、チェスターには副長への感謝の念も女心への配慮も全然足りていないと思っていた。

それもあり、意図せず耳に入る二人のやりとりを聞くに付け、何やら落ち着かない気持ちにさせられるのだった。

一見すると無感情で冷徹な面持ちのバイロン副長だった。

だがそんな副長が、職務を超えて一途な忠勤に励む動機は、後部甲板のクルーが見ていて気恥ずかしくなるほどに明白なものだったのだ。

 先程チェスターが見せた動揺は、間違いなくレベッカに対する彼の子供じみた依頼心から起きたことだった。

いつもの独り言に対して無意識の内に期待していた返事が返ってこなかった。

そこでチェスターは、少しく居た堪れない困惑、不安を感じてしまったのだ。

幼児期、例えば一人遊びをしているときにふと振り返ると自分を見守っているはずの母の姿が見当たらない。

そうした時に感じる遣る瀬無い不安とそれは同質だったかもしれない。

 チェスターはもういい年をした成人男性だつた。

だが、母親を知らないチェスターにとって、時折訪れるこうした不安の原因は全く自己分析できないものだった。

ましてその不安の引き金が副長として常時共に居るレベッカその人に在ろうとは、ほとんど想像の埒外だった。

チェスターが抱く母性愛への無意識的渇望プラスあれやこれやが拗ねこけた彼の人間不信をねじ伏せたのだろう。

チェスターにとりレベッカという女性は、インディアナポリス号の副長という立場を超えた何か大仰な存在となりつつあるということだった。

 思い返せば二人は兵学校時代からの長い付き合いになる。

だが、常に自分と付かず離れずの経歴を歩んできたレベッカの内面と実像について、チェスターは意外なほど無知だった。

それは自分が、レベッカに依存している現実にすら気が付いていないチェスターなればこその、ぼんくら振りと言えたかも知れない。

 しかし事実は小説より奇なりである。

レベッカはチェスターとは違って、長期的視野に立った思考が大の得意だったのだ。

ふたりの関係性の肝はそこにあった。

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