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垂直少年と水平少女の変奏曲〜加納円の大いなるお節介と後宮の魔女達~

第6話 とある少女は「責任とってね」と少年に囁いた 9

 スパルタの兵士がアマゾネスの夢を見たかどうかは知らない。

けれども毛利先輩のサディスティックな教練は、僕のねじくれた根性には大変良く効いた。

僕はますます女の人が怖くなったってこった。

引き換えのお陰様で、中間試験は自分史上最高な手ごたえと共に終幕を迎えたことは僥倖である。

これはあれだな。

定期試験の直前になったら先輩にお願いして、数日間鞭打たれながら調教してもらえば良いってことだ。

そうすりゃ普段から予習復習なんてかったるいことをしなくても、高得点クリヤーが見込めるんじゃね?

ここは思案のしどころだよ?

別に僕はマゾヒズムに目覚めた訳ではないけどね。

最短時間の我慢で最大限の学習効果を引き出せるんだぜ。

毛利ルーシー手ずからの耽美的教授法は、江戸っ子気質の僕には正直、癖になりそうさ。

 僕は短気なんだよね。

オーバーナイトのメモリーなんざ即消去が習い性になってる。

そんな根っからの一夜漬け派には、元より地道な努力は性に合わないんだよ。


 試験終了後いそいそと生物室に駆けつけて、僕は毛利先輩に深々と頭を下げた。

お礼の口上をひとくさり述べた後、そのことを滔々(とうとう)と語ったもんさ。

そうしたらそっと溜息をつかれて蔑みの視線を向けられた。

例のあれだ。

ロシアの画家イワン・クラムスコイの“忘れえぬ女”のあの目だ。

先輩お得意の「失せろ豚野郎!」という眼差しだ。

 「今日は生徒会からの呼び出しを受けています。

生物部が実質二人で運営されていることに対する弁明を求められたわ。

これから生物部顧問の加藤先生から一筆貰って、そのまま生徒会室に行ってきます。

どうも、加納君はとんでもない勘違いをしでかしている様ですね。

今この時から明日の放課後まで時間を差し上げます。

今のあなたの言葉で、わたしの善意は踏みにじられました。

わたしの傷ついた心を癒し、信頼と友情を取り戻させる何か気の利いた釈明を考えていらっしゃい。

よくって」

なにが『よくって』だよ。

こっちは先輩のお陰様様で試験を乗り切れた喜びを、一緒に分かち合おうとしただけなのに。

エスプリだよ、エスプリ。

ウイットに富んだジョークのつもりだったんだぜ。


 そうした訳で突然スケジュールに空きができた僕は、久しぶりに美術室へと足を運んだ。

数少ない友人の一人である上原浩伸を訪ねてみようと思ったのだ。

試験も終わった事だし上原は美術室でキャンバスに向かっているはずだ。

 美術室も生物室と同じように校舎の端に教員室とセットで配置されている。

引き戸を開けるとテレピン油の独特の香りが僕の嗅覚を優しく刺激する。

窓は開け放たれているのに、油画がまとう匂いは部屋そのものの属性であるかのように思える。

 部屋に染み付いた香気は、その場の在り方を『美術室はこうじゃなくてはね』と心地よく決めつけている。

そうして美術館へ絵を見に行く度にリセットされるのと同種の興奮が、ここでもまた僕に奇妙な嬉しさを感じさせてくれる。

 「加納か。

挨拶も抜きでいきなり深呼吸なんかして。

相も変わらず変な奴だな」

上原はキャンバスに向かったままこちらをチラリと見る。

「なんか好きなんだよこの匂い。

情念の高低差がなくなる様な気持ちよさ?」

「なんのこっちゃ」

 流しの回りや床だけではなく、壁の至る所に絵の具の跡がある。

画集や書籍の詰まった本棚や丈の低いニス塗りの戸棚の上には、お約束みたいに埃をかぶった石膏像が並んでいる。

立てかけられたり畳まれたイーゼルが、整理整頓と言うお題目とはいっさいお構いなしで広く場所を取っている。

色が載っているキャンバスが、置き忘れられたオブジェの様にあちらこちらで所在無げに佇んでいる。

美術室以外の教室では決して見ることのできない特異的な雑然さは、僕に取り最高に心休まるカオスだ。

 僕をチラ見した上原はそのままキャンバスに関心を戻し、一心にパレットナイフを使い始める。

僕は色を盛られつつあるキャンバスを眺められる位置に、椅子を一つ持ってくるとそこに腰を下ろす。

そしてバッグからハードカバーを取り出す。

小松左京の新刊だった。

 美術室の空気には、上原が立てるパレットナイフの音だけがある。

開け放たれた窓から飛び込んで来る音は、試験から解放された生徒の元気な喧騒だ。

喧騒は初夏の風に乗っている。

音を含んだ二つの大気が室内で軽やかに舞いポルカを踊った。

 毛利先輩と過ごす時間が多くなって活性化せざるを得なかった僕の意識的意識が、のんびりと弛緩していくのが分かる。

至福の時だった。

 二三時間もそうして過ごしたろうか。

美術部はお休みだったのだろう。

そのあいだに部員は一人も現れなかった。

僕は本を読みながら。

上原はパレットナイフを使いながら。

ふたりは時折、短い会話を交わし。

ゆったりと時間が流れて行った。

 陽の光に黄や赤が混ざり始め、西日のそれと分かるようになった頃、僕は上原に暇を告げた。

「じゃあまた」

「おう。

いつでも」

美術室で上原と過ごす時は、なぜかあまり言葉を必要としない。


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