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ロージナの風:武装行儀見習いアリアズナの冒険 #107

第八章 思惑:10

 元老院暫定統治機構に所属する行政地域以外の港や海で待ち受ける、表面的でよそよしい笑顔に慣れることは難しい。

その笑顔には、インディアナポリス号のクルーが、心からの好意を決して得ることのできない現実を映し込んでいる。

木で鼻をくくったような不愛想や冷ややかな敵意に、寂しく傷つき続ける辛さを、我が身に引き受けるのには時間が掛かる。

だが海外に出た元老院暫定統治機構の戦後世代船乗りにとって、そうしたことどもは甘んじて受けなければならない宿業と言えた。

 その業績とぼんくらチェスターの知名度から、陸では時に好意的な目を向けられ、何かと別格扱いされるインディアナポリス号ではあった。

それでも、元老院暫定統治機構海軍に艦籍がある限り、艦もクルーも業界では決して同じ海の仲間として親しく認められることはないだろう。

ガレオン船を追い越しその船影が水平線の下に消えた頃、インディアナポリス号は静かに通常の当直体制に戻った。


 「気圧がかなり低下してきています」

当直士官の報告を受けて、チェスターは鉛色に鈍く光る水平線を見やった。

昨日までの青空が嘘のように空は雲に覆われ、艦尾方向からの風が朝よりも勢いを増しているのは確かだった。

午前直(フォアヌーン・ワッチ)の八点鐘が鳴ったばかりだった。

だが、この空模様では三十分以内に太陽の南中を観測できる、と言う運びには成りそうも無かった。

必然的に士官や士官候補生が総出で行うお昼の恒例行事。

“六分儀を使った正午の天測と結果の答え合わせ”はお休みになる。

結果として艦の現在位置が不明瞭になることが少し心配になる。

昨日からの推定移動距離と方位を考えれば、幸いなことに海図の上では少なくとも五百キロメートル四方に島や既知の岩礁は無いと分かっている。

今日から明日にかけて大風に振り回されるのは確実としても、艦が座礁する可能性は限りなく低いだろう。

早めに縮帆してヒー・ブツー(一時停船)の命令を下せば良いのだ。

そうすれば乗組員を無駄な危険に晒さず嵐をやり過ごせるに違いない。

チェスターは風を孕んだコースをいつもより少し鋭い視線で見上げた。

続けて太古の飛行機械の様にプロペラを回し、風向きが変わる度忙しなく首を振る風向風速計に目を止めた。

雲と風と波と迫りくる嵐の気配で、チェスターの五感は連打される打楽器のように長くそして短く振動し続ける。

こうなるとさすがに、緊張した自分を意識せざるを得なかった。

甲板で天候の悪化と対峙していると、チェスターにははっきり蘇ってくる記憶があった。

それは、かつて新任海尉として臨んだ遠洋航海で、九死に一生を得た酷い時化の記憶だった。


 チェスターが士官学校に入学して間のない頃のことだった。

元老院暫定統治機構十人委員会は、外交やら政治の都合やら予算の問題やらで、戦後長らく見送っていた戦列艦の新造を決定した。

実に数十年ぶりに再開される主力艦の建造だった。

 新造の戦列艦が艤装を終え、めでたく艦隊編入というタイミングで、チェスターも兵学校の卒業を迎えた。

敗残の元老院暫定統治機構海軍が、戦列艦の艦隊復帰という戦後の一大転機に臨んだのだ。

水兵から提督に至るまで、海兵が大いに浮かれ沸き立つのも無理は無かった。

 学生だったチェスターも、戦列艦という言わば海軍の花形勤務先が、自分のキャリアの鼻先にぶら下がったことの意味。

それを、自身の乏しい野心の囁きを聞くまでもなく十分理解していた。

卒業後の配属を控え、戦列艦への乗り組みには誰が選抜されるのだろうか。

その話題で頭をいっぱいにした級友たちが浮足立つさまを見て、チェスターは内心大いに鼻白んだものだ。

寄ると触ると戦列艦の人事で盛り上がる同期生の興奮ぶりからは一歩も二歩も身を引いた。

そうしてひとり醒めた目で彼らがはしゃぐ様子を眺めていたチェスターだった。

 チェスターは可愛げも覇気がないのも承知の上で、戦列艦の勤務は如何なるものか。

そのマイナス面だけに注目して自分に問い掛け想像してみたのだ。

その結果、プライバシーのプの字も無かったすし詰め孤児院と学生時代の実習航海を思い出して、立ち所に気持ちが悪くなった。

惨めな子供時代や不潔で臭かったおんぼろスループ艦での実習経験を自分の心に投影すれば、答えは自ずと明らかになった。

何百人もの人間が狭い艦内でひしめき合う戦列艦での長期航海なぞ、人前でうっかり口にはできないものの、未来永劫願い下げだった。

 しかし小市民のささやかな望みなど、古来叶ったためしはない。

あろうことかチェスターは、いつの日か艦隊をその背に負って立つことを期待される少壮気鋭の海尉として、話題の新造戦列艦への乗組を命じられたのだった。

この辞令には、当局から将来を嘱望されている軍人であると、太鼓判を押されたも同然の意味があった。

キャリアをスタートしたばかりの海軍士官としては、本来胸を張り大いに誇ってしかるべきところだった。

 当たり前のことだが級友達からは羨ましがられ妬まれ嫉まれた。

人間万事塞翁が馬を標榜するチェスターとしては、卒業間際には恨みがましい気持ちまで芽生え少し鬱が入った。

そうして残された学生生活を、顔で笑って心で泣きながら過ごすチェスターの気持ちに、更に追い打ちが掛かった。

新造戦列艦の航洋は処女航海であるのにも関わらず、本格的な遠洋航海が計画されている。

そんな噂が聞こえて来たのだ。

チェスターとしては冒険の予感に胸が弾むより、まずは驚きと心配が先に立った。

禍福はあざなえる縄のごとしというではないか。

戦後初の戦列艦建造とそこへの新任配属は個人的に考えれば、確かにめでたいことかもしれない。

けれども

『みなさん少しウキウキしすぎてやしませんか?』

と言う懸念がチェスターの正直な心だった。

航海中事故でも起きた日には、それ見たことかと自分で自分自身を嘲笑ってしまいそうだった。

 士官から一般水兵に至るまでが事々不慣れなはずの、数十年ぶりの大型艦なのだ。

それにも関わらず、いきなりぶっつけ本番の遠洋航海が計画されているという。

これを剣吞と言わないのなら何と物申せば良いのか。

『本当に大丈夫なんだろうか』

いかな間延びしたチェスターといえども、鬱に加えて少しく恐怖を感じざるを得ない配置となりそうだった。

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