ロージナの風:武装行儀見習いアリアズナの冒険 #220 完
第十三章 終幕:28 最終回
あらためてケイコばあちゃんの占める立ち位置で、全体を俯瞰して考察してみればだよ。
わたしやヨーステンみたいな異能を持つ人間の存在が、未来のロージナにとって果たして吉となるのか凶となるのか。
それは本当に頭の痛い課題だ。
ケイコばあちゃんは能力者が引き起こす問題を、厄介事と断じた上で心底心配している。
卑近な例でいえば、インデックスとリーダーが揃うと、ブラリ―さんの懸念が杞憂では済まなくなるからね。
その他多数の未だ知られていない封印されし能力者については、これからおいおいケイコばあちゃんも話題に上げてくることだろう。
けれども、ヨーステンと直接対峙したわたしなればだよ。
この先彼ら彼女らの功罪については、むしろ建設的な方向で考えて行かなければならない。
ケイコばあちゃんには内緒だけど、わたしは密かにそう思ってる。
それがわたし自身の能力に求められる特別な要件に違いないってね。
そこんところはいつかケイコばあちゃん抜きで、こっそりブラリ―さんに相談してみなければならない事案だろう。
遠い未来、わたしが引退するケイコばあちゃんの後を襲って、桜楓会を仕切る。
そんなドツボに嵌まる日が、本当に来るとしたらだよ。
その日までには能力者の家系を管理する道筋を、あらかたつけておきたいものだ。
わたしはこれから数多の知らない人と出会い、言葉を交わすことになるだろう。
出会った彼や彼女の名前を知る度に、その人間の能力を探り記録する事になるだろう。
それは長い長い時間をかけて、アンの友人帳を作るということだ。
もちろん、ケイコばあちゃんには内緒でね。
ケイコばあちゃんと交わした、様々な悪巧みのあれこれについては、現時点では深く考えまい。
わたしはこれから高い教育を受けて現場で精進しなければならない。
頑張って努力して、いつかわたしがいっぱしの悪党に成り下がってしまった暁にはね。
今ある迷いもきれいさっぱり消え失せていることだろう。
それまでは、せいぜいケイコばあちゃんの理不尽な物言いや道理から外れた邪な計略に、正論を振りかざして立てついてやろうと思う。
ケイコばあちゃんだって姉さんを死なせてしまった事で人格の何かが壊れるまで。
孫娘の難事に我を忘れてオロオロする善良な職業婦人だったのだ。
ブラウニング船長は、ケイコばあちゃんが修羅場を潜り抜けてきた歴戦の海兵だなんて言っていた。
けれどもケイコばあちゃんは一度陸に上がれば、穏かで優しい女性だったのだろうと思う。
J・Dを見れば彼を育てた母親が、慈愛に満ちた賢い人間だったことがよく分かるもの。
少なくともケイコばあちゃんが子育てに勤しんだJ・Dの幼少期が、わたしが経験したような過酷なものでは無かったのは確かだ。
ニュートン画廊の夜会で幼少期の思い出話しをしたときのこと。
『祖母はとても厳格な人で躾はたいそう厳しかった。
子供の頃に楽しかった思い出なんか無い』
そんな風に愚痴ると、J・Dがなぜかとても悲し気な表情になった。
一緒にいたミズ・ロッシュが何か言いたそうにしたけれども、結局彼女は口をつぐんだままだった。
あの時点でのわたしは、ふたりが自分の両親だとは知らなかったし、話題はすぐに他のことに移った。
だからふたりの態度の意味を、深く考えることもしなかったのだ。
後からとくと考えてみればだよ。
J・Dは、自分の知っている母親とわたしが知っているケイコばあちゃんとのギャップがあまりに大きかった。
それでひどく驚いたのだろうと思う。
なによりも、かによりも。
自分の母親が孫娘を厳格に育てた理由。
それが手を取る様に分かってしまう。
息子として父として、そのことが辛くて堪らなくなってしまったのだろう。
J・Dは、どうして優しい母親が厳しい祖母になってしまったのかを理解できる。
数少ない身内のひとりだったからね。
ケイコばあちゃんはかつてその善良で愛情豊かな人間性の上に。
一度海に出れば、賢明で勇敢な揺るぎ無き軍人という非凡な人間像を構築していたのだ。
彼女は生まれついてのマキャベリストでも、優雅な冷酷で世界を断じるチェーザレ・ボルジアでもなかったのだ。
わたしのやり方いかんでは、ケイコばあちゃんをもう一度真人間に戻すことだってできるに違いない。
願わくばこの先わたしが変わり果ててしまう前に、ケイコばあちゃんを啓蒙できれば幸いだ。
矢傷は痛いままだし。
世界の見え方が今までとは全く違ってしまうし。
泣き過ぎて目は腫れるし。
何だか色々疲れ果てて、わたしは泥のように眠った。
目が覚めたのは翌日、午後直の七点鐘頃か。
ケイコばあちゃんが遅い昼食を手配し珈琲を入れてくれた。
食事を摂りながら、禁則事項がらみの謀略や密謀の話題抜きで、とりとめのない会話を交わした。
二度珈琲のお代わりをしたタイミングで、あの隻腕のポストマンが部屋に入って来た。
ケイコばあちゃんは柄にもなく、チョッと頬を染めて、珈琲と焼き菓子で彼をもてなした。
気の利いた言葉の遣り取りに暖かな笑いで、わたしはそこが航空郵便船の居室であることを暫し忘れた。
そして例によって例の如く、またもや驚きの真実が明らかになった。
今回は柔らかな口調でさりげなく衝撃の事実を告げられた。
隻腕のポストマンはケイコばあちゃんの連れ合いで、J・Dの父ちゃんなんだとさ。
要するにわたしの祖父ってことだね。
祖父が存命だったなんて今の今まで全く知らなかった。
このことはなぜか、ミズ・ロッシュであるところの母も教えてはくれなかった。
恐らくS級の禁則事項だったのだろう。
いったい姉やわたしの忌まわしい能力のせいで、どれだけ多くの人が人生を狂わされたのだろう。
ただ、涙しか出なかった。
ひとり甲板にさまよい出ると、いつしか奇麗な夕焼け空が広がっていた。
フィールド上としては珍しく、風が凪いで帆が垂れ下がっていた。
無風の甲板で手摺に寄りかかり物思いに耽っていると、ライムの微かな香りがした。
シャーロットさんだった。
酷く疲れているような印象を受けた。
けれども軍装を解いたせいか。
女のわたしでもうっとりするような美貌が夕日に映えた。
「成すところもなく日は暮れる・・・か」
わたしのすぐ隣で手摺にもたれながら、ぼんやりとした表情でシャーロットさんが呟いた。
その刹那、夕凪に風が立った。
澄んだ夕暮れのひんやりとした風が頬を打ち、帆がばたついた。
「シャーロットさん!
風が吹きましたよ!」
すると脊髄反射の様に、身体の奥底から武装行儀見習いの了見が立ち上がってくるのが分かった。
心の中で号笛が鋭く響く。
風が見える。
わたしは、シュラウドを駆け上がってヤードにとりつき、帆の世話をしなければならない
「いーえ!
何もできないまま日が暮れる訳じゃありません。
今日できなかったのなら明日できればいいんです。
成すところを考える暇はたっぷりあります。
新しいお日様が東の空に顔を出すまでに、八点鍾三回分の時間があるんですよ?」
解いたふたりの髪とスカートが、同じ角度同じ方向に流れて揺れる。
「ロージナの風はこんなに爽やかで気持ちいいんですもの。
風立ちぬ。
いざ生きめやも。*ヴァレリー、堀辰雄
ですよ!
シャーロットさん!」
握りしめた手摺から夕焼け空に向かってぐいっと身を乗り出したわたしは、思いっきりの笑顔だ。
すこし驚いた様子のシャーロットさんが大きな目を見開いて、やがてクスクス笑い出す。
「そうだな・・・アン。
総帆展帆だ!」
「アイアイ、マム!」
いつの間にやら足元にはスキッパーがいて、わたしを見上げて嬉しそうに吠えている。
さあ、風の吹くまま、明日は何処へ行こう。
完
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