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7. 同時代性が喪われたあとに残るもの

 同時代性の持つ共感の羽衣が剥ぎ取られたとき、そこに残るのは冷徹な事実だけである。時を経て歴史に審判が下されるとき、我々に出来るのは残された事実と厳粛に向かい合うことだけだろう。例えばイギリス首相であったネヴィル・チェンバレン氏は、ミュンヘン会談当時、宥和政策により戦争を回避したことで称賛された。だが現代においては、宥和政策自体が第二次世界大戦の要因と考えられるようになった。その後、イギリス首相を引き継いだウィンストン・チャーチル氏の功績もあり、第二次世界大戦はなんとか世界にファシズムが蔓延せずに済んだ戦いとなった。

 さて、イランでは8/3の段階で、7分に1人がCOVID-19によりご逝去されているのではないか、という。しかもこれはあくまでかの国の国営テレビの報道に基づく数で、実際はもっと多くの感染者と、それに引き続く死者たちがその背後に隠れているのではないか、と一部の専門家の言としてロイター通信は報じた。

 日本においても、東京で7/31に初の1日400人台を突破したように、各地で連日SARS-CoV-2に対するPCR陽性例が増えつつあるようだ。東京のみならず、日本で唯一PCR陽性者が同定されていなかった岩手県でもついに陽性者が特定され、感染は全国へと波及しつつあるのは明白だ。

 若年者は重篤しない、だから大丈夫なんだ、と気が緩むのは、イランの実例を見ていてもいささか早計ではないだろうか。第二波の当初は繁華街を中心とした流行だったのが、下記報道にあるように、7月末頃より家庭内感染が感染拡大の温床になっている実態が浮き彫りとなってきた。そして同時に会食や、職場関係をきっかけとした感染も拡大している。もはや若年者の間に留まらず、各世代を跨るようにウイルスは拡散しているといっても過言ではないだろう。

 そもそもCOVID-19は、2019年末より初めて感染が取り沙汰された疾患である。確かに高齢者や持病を有する人において致命率が高い反面、若年者においては重症化しにくいことが、ある程度分かってきた。そして世代を超えた感染を来した現状においては、重症者の増大が予測され、今後地域によっては再度医療事情が逼迫しかねないことが予想される。だが一方で、このウイルスに感染して生き残ったとしても、感染したことによって長期にわたってどのような影響が人に及ぼされるのかは、誰も知らない。そんな恐怖が、この初期段階には常々付いて回る。

 感染後に長期的な影響を被るウイルス性疾患の代表例としては、麻疹が挙げられる。麻疹といえばワクチンが奏功し、2015年には海外からの持ち込みを除いて日本からウイルスが排除された、とWHOから認定された疾患である。麻疹は風邪症状とそれに引き続く発疹が特徴的だが、脳炎や肺炎に至って亡くなる方々もいるような疾患だ。極めて強い伝染性を発揮する疾患であり、公衆衛生上、ワクチンにより集団免疫を獲得することが有益とされる。

 麻疹をやり過ごした方のごく一部はあるが、罹患後数年~数十年後に性格変化など知的・精神的活動が進行性に低下し、手に微細な震え、そして運動障害も生じて遂には寝たきりとなるような方がいる。これを「亜急性全能性硬化症」と言い、厚生労働省による難病指定を受けるような疾患である。つまりは有効な治療薬が無いため完全な治癒は現時点で期待できず、できても進行を遅らすくらいが関の山だ。

 さて、COVID-19においてはどうだろうか。第5回で提示したように、SARS-CoV-2の感染者のうち35%程度の人たちにおいては、数週経っても何らかの症状が遷延しているというアメリカのCDCの報告がある。このウイルスに関しては、後遺症の問題が世界で着目を浴びていることがわかる。

 日本における後遺症の頻度や典型的な経過、年齢ごとの重症化される人の割合などは、感染症内科医である忽那 賢志先生の記事に詳しい。それによると、日本でも感染後になんらかの症状により4割の方々が生活の質にダメージを受けたと実感されており、この疾患は長期的な対応を要することになるのではなかろうか。

 現状の論文的知識では、心筋に対する長期的な影響が危惧されることが、山中伸弥先生の共有からも明らかだ。もちろん人類は、この疾患の全貌をいまだ把握できておらず、今後の知識のアップデート次第では、こうした事象はレアケースに分類される運命にあるのかもしれない。しかしながら未来の事情はともかく、未知のウイルスに対する恐れを、今現在、失ってよいことにはならないと感じている。未知のものは未知のものと、ある程度構えるのも必要な態度だと、僕は信じている。

 お盆休みを前に、帰省に伴う高齢者への感染拡大を危惧したメッセージが西村 康稔経済再生相から発信されたという。ただ「Go to キャンペーン」の促進自体は変わらず、政府が経済活動を重視し、移動制限によるCOVID-19拡大封じ込めを行うことに反対する立場は、そうそう変化しないようだ。

 こうした事案の背景にある権力とは、いったいなんなのだろうか。『社会学の考え方〔第2版〕』(ちくま学芸文庫)では、

問題に対する解決策を立案し、実施する際に考慮に入れられる要因の数は、その問題を最初に生み出した状況に影響を及ぼす(あるいは、その状況に依存する)要因の総数よりもつねに少ない。権力——秩序を構想し、強制し、支配し、維持する能力——は、これらの要因を無視し、放置し、棄却する能力からなると言ってもよい(よしんば、これらの要因が議論の主題や行為の対象となっても、秩序は成り立たないであろうが)。権力を持つことは、何よりもまず「何が重要であるか」「何が関心ごとであるべきか」を決定できることを意味する。しかし、その報いとして、権力は自らが「無関係」と切り捨てた要因を呼び戻すことはできない。

と解説される。


  経済活動が滞ることによる被害が甚大であることは承知しながら、イランの実例を見ていると、この移動の自由を奨励するという選択が未来においてどのように評価されるのか、という不安は尽きない。少なくとも直近の課題は、負担の増大が懸念される医療機関に対し、順当な支援が行われるか否かにある。既にCOVID-19に対する対応や、それに伴う患者さんの受け入れ制限により、医療機関は深刻な経営基盤へのダメージを負っており、さらなる負荷を受け入れることは容易ではないだろう。

 どこまでが杞憂に伴う過剰対応なのか、現時点では判断が付きかねるところもあるだろう。後世からすると、今のアレルジックにバタつく社会状況自体が、嘲笑の対象となるのかもしれない。しかし高齢者や持病を持つ人々にとって、このウイルスが致命的な影響を及ぼすのは事実であり、また後遺症の問題も詰め切れていない現時点では、ある程度警戒閾値を上げることに、妥当性があるのではないだろうか。

 権力はあくまで「自らが『無関係』と切り捨てた要因を呼び戻すことはできない」という。我々は本当に切り捨てられたものに重大な価値が無かったのか、常々権力と論議しながら、その真価を取り戻す必要性を考える必要があるだろう。この今の時世が「歴史」と化すとき、同時代性の持つ共感の羽衣が剥ぎ取られたとき、どういった評価が下されるのか。朧げな不安を抱きながら、COVID-19により変わり続ける日常と過ごす日々。

第1話:「1. COVID-19:第二波が高まる最中に」はこちら
次回:「8. 知識伝承と部族社会」はこちら

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