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3. マスクとマクロ構造的状況の変化

 トランプ大統領が公の場でマスクをする:たったそれだけのことが事件として扱われるなんて、因果な世の中に生きているものだ。ほんの数か月前まで大半のマスクは、風邪なり花粉症なりといった健康を害する疾患を抱えていることを意味していた。たとえ医療関係者や一部の清潔観念が強い人のみが、予防的に着用することはあったとしても。

 今やマスクは健康を守るための障壁であり、それをしていないことがむしろ周囲の健康を害する心配を与えかねない存在となった。込み合った公共交通機関なんかだと、マスクをしていなければ、どこか冷ややかな視線を捧げられてしまうような風潮に、都市圏では感じられる。また報道機関はPCR陽性者の動向を報道する際に、これ見よがしにマスク着用を怠った、きちんと着用していた云々を、伝えずにはいられないようだ。

 ただ日本では花粉症で使用することをはじめ、まだマスクに抵抗感のない文化が築かれていた分、まだマスク自体への否定的な感情は少ないように感じる。しかし欧米諸国などの他国では当初WHOがマスクの予防効果に対し否定的に対応していたように、文化的にもマスクを受け入れる土壌は無かったように思われる。

 例えば医学の世界では「New England Journal of medicine」という雑誌が最も権威のある雑誌のひとつとして扱われるのだが、2020年5月段階に掲載された論文に着目したい(N Engl J Med 2020; 382:2061-2063.)。「Stay healthy」と叫ぶ人の唾が、マスク着用前には多数飛び交っていたのに対し、着用後にはその飛散量が明らかに減ったことを、動画で視覚的に明示している。

 逆に言えば、たったこれだけの論文が医学界屈指の雑誌に掲載されるくらい、世界的にマスクへの信頼性が無かったということの証左ではないだろうか。その後、引き続く研究の成果もあり、マスクによりある程度の予防効果があるのでは、という可能性が示唆されたため、ソーシャルディスタンスが保てない時のマスクは、世界各国で受け入れられるようになった。それこそアメリカ大統領の着用の有無が、世界的なニュースになるくらいに。

 こうして今やマスクは、手洗いやソーシャルディスタンスと共に感染予防に欠かせないものとなった。これら種々の感染対策の中で、マスクは装着していることが明らかだという点で、周囲への視覚的効果が付随する。よって、このマスク姿の人々が季節に関係なく闊歩するという新たな文化は、以前の社会に戻れないという線引きを明示する、ある種の「境界線」としての働きもあるのではないだろうか。裏返せば、それは全世界でワクチンが奏功したなら、マスク生活からの脱却こそが、元の生活を取り戻す象徴になり得ることを意味するのかもしれない。尤も、マスクへの信頼感が社会的に構築されてしまえば、たとえワクチンが出来たとしても、他の感染症も怖いと言ってマスクを手放せない人たちが出てきてもおかしくない気もするのだが。

 社会を支える根幹が揺るがされるような事態。それに伴い、慣れ親しんだ社会が暗黙の裡に共有していた規範が役立たなくなり、そこから強制的に離脱させられ、個々人が社会との関りを再構築させられるような現状。こうした社会の変化こそ、社会学者が「マクロ構造的状況」の変化と呼ぶ対象として相応しい。

 個人が制御しえない状況、例えば「突然の経済不況、大量失業の襲来、戦争の勃発、猛烈なインフレーションによって老後の蓄えが紙くずになること、生活保護受給権の取り消しによって安心が喪われること」などがマクロ構造的状況の変化における具体的事例だが、「これらの変化は、社会化のパターンの獲得を不確かなものにし、ひいては、それを妨げる可能性をもつので、わたしたちは、自分の行為や行為を方向づける規範を抜本的に再構築する必要性に迫られる」と、ジグムント・バウマン氏、ティム・メイ氏の共著『社会学の考え方〔第2版〕』(ちくま学芸文庫)は示している。

 ここでいう「社会化」とは、「わたしたちの自己が形成される過程」のことを指し、「わたしたちは、社会的圧力の内面化によって、社会化される——社会の中で生存できる存在に変容する——」のである。こうした社会化は「一生涯を通じて終わることのない過程」とされ、人間は所属する社会との交流を通じてその社会での生き方修正しながら身につけていく。

 特定のくつろげる集団・社会に所属しその規範に従うことは、集団内部における自分自身の自由を保障するための手段に等しい。だが一方でその規範によって、集団の外に向かう自由を制限されることにも繋がってしまうのではないか。つまり所属する集団よって「わたしたちは、日々自由を行使するなかで、行為を許可されると同時に制限されている」のであり、「その期待の外に出て、別の願望が奨励される環境に身をおくとき、それまで利点であったものが、一転、障害となる」のである。

 しかし社会そのものが劇的に変化を遂げるとき、つまり今まで慣れ親しんだ集団が内部ではなく外部の影響で変わらざるを得なくなるときは、集団自体も変質を余儀なくされる。つまり集団の成員にとってみると、意図せずいきなり「別の願望が奨励される環境」に身を投げられるようなものだ。しかも急激な変化の只中にあると、社会的規範自体が確定しえない朧げなものになり、より不安定さが際立つ。そんな社会状況の中で、再び人々は社会との向き合い方を試行錯誤せざるを得ない。これこそがマクロ構造的状況の変化である。

 この不安定さが支配する社会では、前時代の規範がことごとく疑われる対象となりうる。そもそもグローバル化の進行が著しい時から、この社会構造変化というのは問題になっていたのだが、ウイルスの進行による月単位での社会構造変化ほど激しくはなかっただろう。

 急激な社会構造変化にどう対応するのか、という課題は個人のみならず、社会集団の方向性を決める立場の行政にもその対応が求められる。むしろ行政により社会環境変化が少しでも緩和されたなら、個人の生き方も若干は楽になるのかもしれない。

 その意味で、現下の「Go to キャンペーン」の右往左往ぶりは、現行の社会体制が揺るがされる歪みが結晶化した事象のようにも思える。つい先日までインバウンド需要で盛況を博していたところも多い観光業だが、この社会状況において人々の移動が制限されることにより、かつてない苦境に立たされている。ただその支援を行政が行うことは、一方で人々の移動を奨励することになり、この第2波が訪れているといっても過言ではない状況下に行うべきことかは、大きな議論の的として取り扱われていることは周知の通りだろう。

 結末は、キャンペーン自体の実施をどう取り扱うかの行政府の案内に譲る。だが最後に先の書籍:『社会学の考え方〔第2版〕』(ちくま学芸文庫)からの引用を付け加えたいと思う。

 ある意見を妥当とすることは、不可避的に別の意見をさほど重要でないとか妥当でないと判断することを意味する。このリスクは、それ自体、わたしたちの生活環境が不均質であればあるほど、すなわち意見や価値や利害が多様であればあるほど高まる。


第1話:「1. COVID-19:第二波が高まる最中に」はこちら
次の第4話:「4. Go to キャンペーンの波間において」はこちら

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