4. Go to キャンペーンの波間において

 第一波において外出を控えるように勧告が出ていた頃は、飲食店がむしろ自主的に休業されていた。そのせいか都道府県間の往来が解除され、徐々に街中のお店に明かりが戻ってきても、一時期は外食すること自体、なにかしら後ろめたさを覚えるほどだった。

 とはいえ、今や東京では連日200-300人を超える陽性者が検出されるようになり、正直すでに第一波を上回る勢いでCOVID-19が猛威を振るっている。その他地域でも陽性者が増えてきたが飲食店の休業どころか、かたや政府が結局「Go to キャンペーン」を7月22日から走らせ、移動の制限なんて言葉はどこにも掲げられなくなった。

 前回提示した引用文を再掲すると、

 ある意見を妥当とすることは、不可避的に別の意見をさほど重要でないとか妥当でないと判断することを意味する。このリスクは、それ自体、わたしたちの生活環境が不均質であればあるほど、すなわち意見や価値や利害が多様であればあるほど高まる

 と『社会学の考え方〔第2版〕』(ちくま学芸文庫)は提示している。この「Go to キャンペーン」は、国内どころかインバウンド需要も望めず死に体の観光業、ならびにまだまだか弱い外食需要を喚起するための呼び水となりうる。よってこうした業界にとっては死活問題だが、多くの国民からすると移動の自由を謳歌することを国として推奨することで、流行地からのウイルス拡散が惹起されることの方が、より危機感を覚えるはずだ。

 東京が対象地域から除外されるドタバタ劇を経て開始されたこのキャンペーンは、結局のところ日本全体にCOVID-19を流布するのを促進する可能性があることを、誰も否定しえないものだ。そんな懸念が本当に生じるのではないのか、という不安が単なる疑念に終わらないことを、鹿児島の南日本新聞が報じた離島でのクラスター形成事案が明らかにしてくれた。

 与論島という鹿児島県の南端にある小さな島で、県外の人との会食に端を発し形成されたクラスターが、この医療体制が脆弱かつ高齢化が進む島に襲い掛かった。島内で唯一、入院対応が可能な徳洲会病院で院内感染が生じてしまったこともあり、脆弱な島内の医療環境に耐えられない負荷がかかってしまった。そんな中で島外へと感染者を輸送する方々には頭が下がる思いだ。

 観光業が発達した地域の中には、その地域の医療体制が不十分なところも多い。離島のみならずそうした医療過疎地帯での感染が拡大してくるようであれば、感染を鎮圧するために大規模な政策の介入を要するのではないか、と危惧している。一過性に当地の医療機関への負担が増大し、地域医療が破綻しかねない日も、間近に迫っているのかもしれない。

 そんな状況下、第一波の頃と違って開いている飲食店も多いとはいえ、飲食業界には申し訳ないが自炊が捗るのはやむを得ないことだろう。与論島もそうだが、飲み会を契機としたクラスター形成が頻発していることからも、感染対策が不徹底な場所の会食に伴うリスクはどうしても生じてしまうのだから。もちろん個々人がソーシャルディスタンス、マスクの着用、手洗いの徹底などに気を付けることが必要とはいえ、そもそも対策以前に感染が生じる機会を無くすことができれば一番よいことは否定できない。

 さて、自炊におけるレシピを考える味方といえば、昨今、クックパッドなどの料理サイトが華々しい。しかし料理の基礎から学ぼうと思うと、料理業界で研鑽を積んだ人の料理本というのは、いまだ有用な選択肢ではないだろうか。昔、自炊を始めるにあたり頼りにしたのは、京都に名立たる菊乃井の主人:村田 吉弘氏の料理本だった。

 そんな兼ね合いで、村田 吉弘氏関係の本は度々目を通すようにしている。『ホントは知らない 日本料理の常識・非常識』(柴田書店)も、そんな中で見つけた一冊だ。器や掛け軸のことなど、日本料理店にまつわる様々な話題を快活な京都弁で書き上げる一方で、『ネットの書き込みにモノ申す——その人の人生に対して、責任とれるんですか?』と題したコラムも書いてらっしゃる。そこからの引用になるが、

 だいたい匿名ってフェアじゃない。フェアやないからネットの書き込みは嫌いや。そういうやつに限って「子供のいじめはあかん」とか語ってたりする。あんたね、自分のやっていること、一緒ですよ。立派ないじめですよ。メチャメチャ陰湿ないじめですよ。その人の人生にそんだけのダメージを与えることをやっといて、しかも匿名で、最悪や。みんないっぺん、よーお胸に手を当てて考えてみなあかんね

という記載があった。恐らく感染者が出た飲食店には、そしてもしかすると通常営業しているだけのお店だとしても、このCOVID-19の情勢下では心無い匿名の投稿がのしかかっているのではないか、と危惧している。

 正直なところ、人々の往来そのものを制限しないことには、人に付随してウイルスも移動していく以上、感染拡大を防止することなんてできないはずだ。そんな中で感染対策をどれほど積んだとしても、飲食店で感染が生じる可能性はどうしてもゼロにはできないだろう。そしてたまたま感染者が出たからということを口実にその店を非難することは、明日自分が感染者となって誰かにCOVID-19をうつしていたときに、自分が非難されて然るべきと表明しているようにも見えて仕方がない。

 飲食店や観光施設が営業を自粛し、感染する可能性を最初から生み出さなければよいのかもしれないが、それこそ休業補償とセットで考える政治的な問題だろう。生活するために営む生業を自主的に止めろ、というのは、野垂れ死ぬことを強要する暴論にも等しいのではないだろうか。

 都市生活そのものが、人間から道徳性を奪っている。改めて『社会学の考え方〔第2版〕』(ちくま学芸文庫)によると、

 人間関係は、わたしたちの間で「他者」の幸福や安寧への責任感が生じるときには、道徳的である。(中略)都市生活においては、身体的近接から、この道徳的側面がすっかり抜け落ちる。互いに近くで生活し、互いの状況や幸福に影響を及ぼし合う人々が、道徳的近接を経験しない。かれらは、自分の行為の道徳的意義を気にも留めない

という。便利な都市生活には「儀礼的無関心」:つまりお互いがお互いの存在を意識しないふりをしながらも、油断なく生活するという態度が必要となる。そして道徳的なつながりが無くなってしまうという代償も、一緒に伴うのであった。飲食店への心無い投稿も、道徳性の欠如が為し得る技と言ってしまえるのではないだろうか。

 COVID-19によって社会にもたらされつつあるマクロ構造的状況の変化により、都市での社会生活がどのように変化していくのかは、あまり想像がつかない。Web会議ツールを介したFace to Faceの会談により、自宅の中でも社会的なつながりが構築できるようになった一方で、移動自体が憚られるなかではより直接会うことの価値が増しているようにも思える。とはいえ、儚く散った三浦 春馬氏のように、このCOVID-19により追い詰められた人々がいるのも事実であり、その冥福を祈りながら、少しでも道徳性のある社会が、そしてCOVID-19が治まる社会が、来ればいいな、と願うばかりだ。

第1話:「1. COVID-19:第二波が高まる最中に」はこちら
第5話:「5. 比喩から推論へ」はこちら

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