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いつかどこかへ辿り着く

温泉に浸かって、ぼうっとしていた。一様に切り取られたように垂れた稲穂は整然として、うつくしいほどに見事な列を成している。遠くには川と緑に囲まれた街が覗き、青い空とのコントラストのなかに消えていく。

隣ではご老人の他愛のない会話が聞こえ、まだ季節の盛りであると言わんばかりのセミの声が鳴っている。ぬるま湯に浸りながら、僕はぼうっとしていた。それら全ての情報は、僕のなかへ勝手に飛び込んできて、僕のなかで蓄積されずに通り抜けていく。漠然としたその景色は解釈されることなく、漠然としたままでいた。

そういう状況が、僕は好きなのかもしれない。公共の場に晒されながらも意識を正すことなく、ただじっとしていればいいような、そんな状況を。例えば電車のなかでも、飛び込んでくる情報は僕のなかには何も残らない。

そこがどこであるのか、そこがどういう風景であるのか。そうした情報を抜きにして、ただそこに身を置いていることに安堵を覚えるのだ。流れてくる情報はおおよそどんなものだって構わないが、流れているということが必要なのだろう。

山梨に移ってから、いま住んでいる周辺の温泉をすでに3件ほど巡ってみたが、どの水質も同じようなものだった。どれもアルカリ性であり、温泉地ならではの硫黄の匂いが漂い、浸かると皮膚が溶けてぬるぬるする。

城崎の温泉はからっとしており、懐かしい海の匂いがして少ししょっぱかったから、きっとあれは塩化物を含んだものなのだろう。全く性質の異なるその温泉を、いまとなってとても恋しく思う。冬の寒さが厳しい日には、雪景色のなか湯気で一面が真っ白になるあの景色を。

今年の夏は海に出かけることもなかったので、次に晴れた休日には湖にでかけることにしよう。とびきりおいしいコーヒーを淹れて、ポケットには本を忍ばせて、日向ぼっこをしよう。少し遠出をして、気分をリフレッシュさせるのもいいかもしれない。

先日からやる気のでない日が続いていて、長い間、坂道をごろごろと転がり続けていた。水の勢いに反発することなく、流れに身を任せているとどんどん下流へと流されていき、いつのまにか途方もなく広がる海へと放り出されていた。

いまはもう流れることもなく、広大な海にぽかんと浮いて漂っている。いつかどこかへ辿り着くだろう。そんな他人事のような期待を持って、とりあえずぽかんと浮いているのだ。

やる気の出ない日は続くけれど、そろそろ動き出さないといけない時期にまで来ているので、きちんとやるべきことはやらねばならぬと思っている。文章を書くことも面倒に思えたが、なんとかここまで書くこともできた。海にぽかんと浮いている間に、20代も残りあとわずかとなってしまったので、そろそろ人生に句読点を打つ準備をはじめたいとも思う。

生まれてきて30年という日々に、「、」を打ちたい。そして、これからも続く人生について考えよう。晩年のヘッセの詩を読んでいると、生からの解放についてよく考えることがあるので、またどこかの機会に書けるといい。

最後に少し告知だけさせて欲しい。9月18日(日)に甲府の一箱古本市に出店することが決まった。山梨に来てはじめてのイベントなので楽しみでもあり、ちょうどそのイベントをきっかけにやる気スイッチが入ればいいな。もしお近くの方がいらっしゃれば、ぜひ遊びに来てください。お家にある、古本と珈琲をたくさん持って行こうと思います。



ここまで読んでくださってありがとうございます。 楽しんでいただけたなら、とても嬉しいです。