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7/30 村上春樹の「他人の不在」後編

村上春樹の小説には他人がいない。だから好き嫌いが別れる。小説、ひいては物語というのは、多種多様な人間模様の織りなす繋がりや衝突だ。なのに、彼の小説には同じような趣味と価値観の人間ばかりが出てくる。この不自然かつ閉鎖的な空気が読む者にとってはどうにも鼻に着く。


前回はここまで書いたが、それだけではこの作家がどうして世界的人気を誇るようになったのか、その説明がつかない。じゃあ、好きな人は一体何が好きなのか。今回はそれについて書いていこうと思う。


ちなみに僕の村上春樹歴で言うと、高校の時に「海辺のカフカ」と「ねじまき鳥クロニクル」にハマり、大人になってからは「1972年のピンボール」のような初期の作品を好むようになった。エッセイも全ては読めていないが、「走ることについて語るときに僕の語ること」は今でも愛読している。有名な「ノルウェイの森」は普通。「1Q84」は苦手、といった具合だ。一通りの作品を読んできて、ここ最近、彼についてこう思うようになってきた。

 
村上春樹は哲学書として読むものだ。


僕の敬愛する養老孟司や岸田秀も、数多くの著書を出しているがその内容がバラエティに富んでいるわけではない。自分の軸になる考え方を、あらゆる例を通して何度も伝えようとしているだけだ。村上春樹も同じだ。彼は物語というフィルターを通して、一定かつ確立した「世界に対する向き合い方」を読者に伝えようとしている。要約するとそれは「タフになれ」ということだ。


村上春樹の小説に登場するキャラクターは、「村上春樹の分身」と「理不尽な悪意やシステムの擬人化」の二種類と言った。この「理不尽な悪意やシステム」という概念に、心当たりのない人はおそらくいないだろう。通り魔殺人のような理解に苦しむ悪意。個人のことなど眼中にない規則や法律。時には悪意すら超えた自然災害などに巻き込まれ、己の無力と世の中の不公平さを呪う。大袈裟な例をあげなくても、ムカつくクレーマーやめんどくさい役所の手続きなど、日常の至るところに不条理は潜んでいる。


そのような避けがたい不条理に対し、彼は明確な基準を自分の中に打ち立て、それを守るように徹底することで、己の規則をもってして不条理に立ち向かう術をとった。それは読書や音楽だけでなく、食べるもの、着るもの、身の回りの家具へのこだわり。掃除やアイロンかけなどの地道な作業も怠らず、毎日ランニングをして体を鍛えることにも念を抜かない。そうした基準を的確に守り、自分という存在に確かな実感を付与していく。その繰り返しが、ちょっとやそっとで揺らがない「タフさ」を己の中に育てていく。それが彼の小説内に常に滲み出ている、揺るがない彼の哲学だ。


「それは自分だけが裁量できる世界に逃げ込んでいるだけだ」と言う人もいるだろう。その通りだと思う。どれだけ自分ルールを守ろうが、体を鍛えようが突如襲いかかる理不尽にはどうしようもなく翻弄される。その様子は作中にも何度も描かれている。しかし主人公たち、ひいては村上春樹はそれで決して折れることはなく、己の秩序を守るために、負けるのを覚悟で理不尽に立ち向かおうとする。彼の言うタフさとは、この自分ルールを必ず守ろうとするためのタフさだ。彼の有名なスピーチである「卵と壁」にも、その傾向は現れている。


この構図は世界中の人間にとって普遍的なものだ。誰もが大なり小なりの、自分ルールを持っている。だからこそ、この己のルールのみをストイックに追い求める姿勢が、理不尽な悪意やシステムに翻弄されるがままの世界中の読者の心をうがつのだと思う。内田樹が村上春樹のことを「あらゆるものへの信頼、つまり自分を守る「天蓋」を失った人々の心に彼の小説は刺さる」と語っていた。僕が付け加えるとすれば、村上春樹は徹底した自分ルールを貫こうとする姿を描くことで、「天蓋」なき人々の「天蓋」になったのだ。 


僕が村上春樹を手に取る時、それは何かを成し遂げようとやる気に溢れている時、もしくは他人と関わることの煩わしさから逃げ出したい時が多い。一度その本を取って読み出すと、巧みな文章のリズム感に乗せられ、一気に最後まで連れていかれ「よし、作中に出てきた音楽でも聴いて頑張るか 」というような気持ちになる。流石に彼ほどのストイックな姿勢は持ち合わせていないが、僕もまた僕のルールに従って、黙々とやるべきことをこなすだけだ、ということを再認識する。様々なキャラクターたちの物語を楽しむためではなく、彼のその哲学に触れるため、村上春樹の物語はそこにある。

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