見出し画像

7/20 村上春樹の「他人の不在」前編

圧倒的知名度かつ人気にも関わらず、好き嫌いがばっさりと別れてしまう作家がいる。僕の中では、太宰治と村上春樹がその二代巨頭だ。


太宰治の好き嫌いが別れる理由は、岸田秀が書いた「続ものぐさ精神分析」に彼なりの考えを書いている。その他の文豪についての分析も載ってあり、非常に読み応えのある名著だ。村上春樹に関しては、僕なりの考えを書いていこうと思う。


結論から言うと、村上春樹の小説には他人がいない。だから好き嫌いが別れる。それが僕の意見だ。


要するに村上春樹の小説に出てくる全てのキャラクターは、「村上春樹本人の分身」だということだ。一人の人間が書いているのだから当たり前だと思うかもしれない。確かにどんな作品であろうと、製作者の人間性や哲学が各キャラに滲み出るのは当然だ。それがないと「作家性」なんて言葉が生まれるはずもない。


しかし村上春樹の場合、男も女も子供も全員が「同じような価値観」と「同じような趣味」を持ち「同じような喋り方」をする。体制には反抗的。己の定めたルールを黙々とこなす。洋楽やジャズやクラシック好む。服にはシワひとつなく、食べ物や酒にも独自のこだわりを持つ。死や霊的なものに興味を示す。喪失感を常に抱えている。ガワや設定が変わっても、ほぼ全てのキャラクターがこのような傾向を持っている。作家性が滲み出るという言葉では足りない、本人そのものがキャラクターの仮面を被って喋っていると言ってもいいほどの徹底ぶりだ。


なので彼の小説では、13歳の女の子がローリングストーンズを聴いたり、トラックの運ちゃんがベートーヴェンに興味を持ったり、30代の営業マンがエルヴィスプレスリーの曲を「幸運のお守り」と着メロにしたりしている。世間の目からすれば「ねーよ」と言いたくなるようなキャラが溢れ、誰もそれを不思議とは思わない。それも彼ら全員が、真の意味での作者の分身だからだ。


そのようなキャラ達を真っ向から否定し、彼らの前に立ちはだかるキャラクターも確かに存在する(ねじまき鳥クロニクルのワタヤノボルなど)。しかしそのようなキャラは、違う人間、というより彼らを追い詰めるために存在している、実際に世界に存在する「理不尽な悪意」や「個人を圧殺するシステム」のようなものが、たまたま人の形をとって現れたというような者が多い。そのようなキャラ達の思想は掴みどころがなく、事務的に与えられた役割をこなすだけの、無機質な要素の集合体のように描かれている。これを「他人」と呼ぶには余りにもさみしい。


つまり村上春樹の小説には2種類のキャラしかいない。「村上春樹の分身」と「理不尽な悪意やシステムの擬人化」だ。そのような不条理が、己の秩序を守ろうとする主人公たちに襲いかかり、彼らは翻弄されながらそれと戦う。村上春樹の小説の根幹にあるのは常にこの構造だ。だから、彼の小説には他人はいない。彼らと違う視点や哲学を持ったキャラクターがいないからだ。本人も言っていたが、村上春樹は極めて自分のことしか語らない「個人的な作家」だ。


この閉鎖的に描かれている世界には、辟易する読者もいるだろう。十人いれば十人の視点や考え方が見えてくるのが、人間というものだ。十人とも同じような視点しかないというのは余りにも不自然だし、人工的で嫌味な感じがする。爆笑問題の太田光は村上春樹の小説のことを「人間を描けていない」と評していたが、僕は人間を描けていないというより、「人間として描かれているキャラが一種類しかいない」という方が正しいと思う。その一種類とは、もちろん作者本人のことだ。


でも、だからこそ、他人のいない世界を書き続けたこの個人的な作家は、世界に名を轟かす偉大な文豪になれたのだと思っている。それについてはまた後編に書こう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?