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【自己紹介】現在までの生い立ち


初めまして、
株式会社Atllon(アトロン)の西本 駿と申します。
こちらのnote記事では、自己紹介とともにこれまでの私の人生とこれからの展望、私の価値観について書いています。
自分自身の人生を振り返り、出来事と思考の整理とともに皆さまに少しでも私について知っていただき、ご興味をいただいていただけたら幸いです。
また、読んでいただいた方に何かしら今後の行動や考え方が変わるきっかけになればと思っています。

簡単なプロフィール

名前:西本 駿(にしもと しゅん)
生年月日:1997年4月8日
出身地:広島県東広島市
趣味:サッカー観戦、海外旅行、サウナ
X(旧Twitter):https://x.com/nsmtshun
Instagram:https://www.instagram.com/nsmtshun/
Facebook:https://www.facebook.com/ns19970408
Linkedin:https://www.linkedin.com/in/19970408ns/
株式会社Atllon:https://atllon.com/

幼少期


私は、広島県東広島市という広島の中では広島市・福山市・呉市に次ぐ第4の都市(広島市のベッドタウン)に生まれました。東広島市の中でも西条は日本酒で有名で毎年秋になると酒祭りという街全体が盛り上がる祭りがあり、小さな時から日本酒に関する催し物をさせられたりしていました。

サッカーとの出会い

私は東広島という生活するには不便もなく、自然も豊かで遊ぶには思いっきり遊べる地で幼いときに兄の影響で4歳くらいからサッカーを始めました。最初は同じアパートの友達と遊ぶのが楽しく、みんながサッカーをすれば一緒にサッカーをするし、鬼ごなら鬼ご、砂遊びなら砂遊びと、年上のお兄ちゃんたちと一緒に遊ぶことが楽しく毎日を過ごしていました。

そんな中、兄がサッカークラブに通い始めると、自分も習い事をしてみたくなり、同じアパートの友達と一緒に幼稚園向けのサッカースクールに通うことになりました。その時の記憶はほとんどありませんが、1つだけ覚えていることとすれば、野球のバックネットを越えるようにボールを蹴り続けていたことだけは覚えています。(おそらく、幼稚園の間に越えることはできなかったと思います…)幼稚園でも活発で遊びまくっていたことは何となく覚えていて、自分が人よりも得意なこと(当時はサッカー・鬼ごっこ・けん玉)は、優越感に浸りたいのか率先して仲間を集めて遊んでいました。当時からダサいことが嫌いで何事も1番じゃないと!という思いが強く、かけっこで転けて1位を取れなかった時は大泣きしていた記憶があります笑

典型的な田舎者の少年

また、自然豊かな場所だったので、虫取りにもハマりいろんな虫を見つけては家で飼っていました。家の近くの河川敷に秘密基地を作ったり、大きな木に餌を仕掛けてカブトムシを捕まえたり、父親と釣りに行ったりして自然界にも普通に馴染んでいました。当時、確かムシキングというゲームセンターのカードゲームにもハマったこともあるくらい生き物が好きで、実際自分の目で見てみたいという好奇心旺盛状態でした。最初はアリみたいな小さな生き物を捕まえていた少年もバッタを捕まえれるようにあり、カマキリやトカゲを捕まえれるように、そしてヘビまでも捕まえることができるようになっていました笑 そんなお遊び活発小僧も時間が経てば小学生になってました。

小学生期


後列の右から2番目が私

カッコつけ少年男子

小学生に上がると一学年で150人くらいいる状態で、一気に周りにいる子供の数が増えました。低学年の時の記憶はほとんどありませんが、ただこの時も何となくですが、発表する時も自分に自信がある時しか手を挙げない、失敗するのが嫌、でも1番を目指してダサい自分を見せないようにしようというのはあったと思います。あとは3年生くらいから目が悪くなってメガネをかけないと黒板の字がボヤける状態だったにも関わらず、メガネをかけている自分がダサい(メガネ男子が嫌いだった)と思い込んで必死に目を凝らして授業を受けていた記憶はあります(モテたかったんでしょう笑)

あとは小学生あるあるでモテる男の子は「声がでかい」「足が速い」「頭がいい」「面白い」のどれかの要素が入っている、いわゆる陽キャ。私も一学年150人に埋もれないように、おそらくそこは男としてのDNA本能が働き、周りとの違いを誤ったやり方でしていた痛い男の子でした。授業中はふざけ合っているけどテストではいい点を取る、何か行事の本番までは本気を出さないけど本番になれば本気を出して結果を出すみたいな、よくわからないこともしていました笑(反抗期もあったのかもしれませんが…)

自分の中のサッカー人生ピーク

記憶が割と鮮明なのは小学生高学年からで、ほとんどの記憶はサッカーで埋まっています。同じアパートの友達と遊びでやっていたサッカーですが、どうしても学年が上の兄や友達に負けてばかり。でも同じ学年とやるとまぁまぁできるという状況が続き、サッカーには学年は関係ないというのをコーチに教わってから、どうすれば年上の兄や友達に勝てるのか頭をフル回転させていました。そこでのトライ&エラーと小さな成功体験が僕の大きな成長に繋がったと言っても過言ではないと思っています。

また、私は人前で努力する姿を見せるのがあまり好きではないというか、努力していることが周りにバレて周りが努力すると自分が勝てないのが嫌だったので陰で頑張るタイプでした。当時はランドセルに10kgの重りを入れて登下校したり、下校は早く帰りたいと友達には言うものの本当は体力をつけるためのトレーニングとしてダッシュで帰ったり、試合が早く終わった日も日が暮れるまでボールを蹴り続けるなどしていました。

小学6年生になってからはチームのキャプテンにも選出され、より一層自分が一番頑張らないといけないという使命感を抱き、毎日を過ごしていました。この時の自分が「圧倒的当事者意識」という言葉にふさわしかったと自負しています。自分とチームは一身一体くらいの感じで、自分がやらないとチームが負ける、チームの責任は全部自分が背負う、だけどチームの勝利はみんなのおかげというマインドで、骨折でプレーできない時ですらチームのために何かできることを探していました。当時のチームは非常に個性溢れるメンバーばかりでまとめるのは大変でしたが、誰よりもチームのために動く姿勢は仲間にも伝わり、一緒について来てくれたのかなと振り返っています。

また、当時は同年代の誰よりも努力の仕方は効果的かどうかわかりませんが、行動量はずば抜けていたと思います。長期休暇の時は朝から晩までサッカー、旅行すら行きたくない、やべっちFCで上手い選手のプレーを観て再現できるかチャレンジ、誰よりも多くボールを触っていた気がします。(よくビジネスでも、野球で例えられますが成功(ホームラン)するためには、誰よりも多くバッターボックスに立ってバットを振らないと(行動)いけないと一緒やな〜と)

この時の陰で淡々とやることをやる、チームのために先頭に立って動くことなどが自分にとって非常に充実しており心地よく感じられていました。当時の生き方やマインドで成功体験を得たこともあり、これが今の自分の価値観というか人生観になっているのかなーとも思っています。

思い描いていた未来図❶

そしてこれが当時描いていた私の人生はです。

全日本少年サッカー大会で全国出場▶︎サンフレッチェ広島ジュニアユースに合格▶︎サンフレッチェ広島ユースに昇格▶︎サンフレッチェ広島トップチームへ昇格▶︎日本代表に選出&海外移籍▶︎ヨーロッパのビッグクラブでプレー▶︎引退

こんな人生を描き、プロの世界に行くためのルートはとにかく強いチームへ行くこと、全国大会に出ることだけが本当の道だと信じていました。また、海外移籍は年齢が若い方が評価されやすいというのも知っていたので、高卒でプロになることにこだわり、早くJリーグで活躍して海外いくという道しか見ていませんでした。(当時の自分に言ってやりたい、プロに行く道は一つじゃないよ、そして一直線じゃなくてグネグネすることもあるよ!って)


小学生期の主な成績

・全日本少年サッカー大会広島県大会ベスト16
・JFAナショナルトレーニングセンターU-12中国 2009
・サッカーサンクスフェスタ(HIFA AWARDS)2010


中学生期


最前列の右から4番目が私

上記でご紹介した描いていた人生の中の小学生→中学生に上がるタイミングの一つのマイルストーンである「サンフレッチェ広島ジュニアユースに合格」というのを達成し、自分の中で一歩進んだ気になっていました。
ここにはもちろん、全員が全員いけるチームではなく、倍率0.04倍くらいの門を潜らないといけず、私の学年の東広島市ではオンリーワンの存在になっていました。

青年天狗の鼻もポッキリ

しかし、今まで井の中の蛙状態&田舎のお山の大将だったこともあり、県内トップの選手たち集団の中で思ったようなプレーが発揮できません。さらに追い討ちをかけるかのごとく私は完全に早熟タイプの選手で、体の成長がピッタっと止まってしまい、次々に周りの選手に身長は抜かされ、スピードでも振り切られる、自信のあったパワーでも当たり負けもするようになってきました。

1年生の時は何とか今までの身体的なアドバンテージがあったこともあり、試合にフルで絡むことができていましたが、周りでは上の学年と混ざってプレーする選手や世代別の選抜活動に行く選手などが出てきて、焦りしかありませんでした。週4の練習、土日は試合、月曜日は塾と1週間を同じようなサイクルで過ごしましたが、練習や試合で思ったパフォーマンスが発揮できない自分に焦り苦しみ、心身が全く休まらない状況が卒団するまで続きました。

週明けにあるタイム走でも、身体が緊張して足が思うように動かずタイムに入れない、プレーでも消極的なプレーで仲間に迷惑をかけるなど、正直何をやったらいいのかわからない状態がずっと続いていて、、、だけど立ち止まったらどんどん差が広がっていくと思って、練習前に走ったり…
いわゆるゴールが見えない暗闇マラソン状態…
(恐らく私は、物事を複雑に考えすぎたり、一度立ち止まってメタ認知して物事を整理してアクションプランを考えるのが苦手なんだと思います)

そんなこんなで時間は待ってくれません。次のマイルストーンである「サンフレッチェユースに昇格」するためのセレクションがあっという間に訪れ、結果は落選。当然と言えば当然の結果で、ユースへ昇格できる選手は毎年スタメンで出場している選手の中の一握りの選手しか昇格できず、毎年の傾向からして自分はすでに当てはまらないだろうと思っていたからです。

この落選が大きな挫折の出来事ではなく、すでに予測がついていた結果だったので、すぐに高校サッカーでもう一度プロを目指してやる!という気持ちの整理はできていました。(当時、人生のプロセスを下記のように変更しました)

思い描いていた未来図❷

実はこの当時、中学生最後の全国大会が冬にあったこともあり、進路のことを真剣に考えていない状況でした。今思えば、日本全国にサッカー強豪高校はたくさんあり、なんならユースチームよりもプロを多く輩出している高校もあるくらいなのに、当時の私はなにをのん気にしていたのか進路に関してすごく狭い視野の選択肢で高校選びをしていました。おそらく、ユースへ昇格できなかったことで、プロへの道がより雲の上の存在になってしまい、若干諦めていたため本気で自分の進路と向き合わなかっただけだと思います。

夢が遠い存在に感じていた

人間、本気で叶えたい目標や夢があればそこへいくための手段を本気で模索するはずです。例えば、海で溺れてしまったら『なんとかして(手段)』生きよう!(目的)とします。しかし、本気度が落ちてしまった自分はさまざまな手段を考えることを放棄し、気がつけば自分の進路を決断しないといけない時期に…

(大事だと思うのでもう一度過去の自分に言います、「プロに行く道は一つじゃないよ、そして一直線じゃなくてグネグネすることもあるよ!もっと柔軟に考えて、いろんな選択肢の中から自分の価値観や判断軸で決断して突き進めよ!」って

中学生期の主な成績

・JFAプレミアカップ2012 全国出場
・第27回クラブユースサッカー選手権(U-15)大会 全国出場
・高円宮杯第24回全日本ユース(U-15)サッカー選手権大会 全国出場
(ほぼ全ての大会でベンチスタート)

高校生期


前列中央が私

高校進学の軸は実は2つだけでした。
1つ目は『親に経済的負担をかけないこと
2つ目は『プロサッカー選手を目指せる高校

それぞれを少し深堀すると、まず1つ目の『親に経済的負担をかけないこと』に関しては、私の家庭は決して裕福でも貧乏でもない普通の家庭でした。ただ幼いときからサッカーができることが当たり前ではなく親には感謝しないといけないという教えが染み付いていること、これまで自分のサッカーのためにいろんな負担(サッカー用具の購入・月謝・送迎などなど)をかけてきたからこそ、少しでもその負担が小さくなればと思いからこの軸が生まれたと思っています。2つ目の『プロサッカー選手を目指せる高校』はもちろん、まだプロになる夢を諦めきれていませんでしたので、まずはインターハイや高校サッカー選手権など全国大会の出場が目指せる学校に進学し、スカウトをもらってプロに行こうと思っていたからです。

上記の2つの軸に当てはまっていた高校は日本全国探せばたくさんあります。しかし高校進学を舐めていたため、私の選択肢は少なかったのですが、なんとか推薦+特待生をいただき、全国を目指せそうな瀬戸内高校へ進学することにしました。

地獄の高校生活

高校生活は慣れないことばかりでした。
最初の1年間は寮に入らず様子を見ましたが、さすがに睡眠時間の短さや移動時間の無駄を考え、2年目から寮生活へ切り替えました。
[1年生時の平日生活サイクル]
朝4:30起き▶︎始発乗車▶︎朝練▶︎授業▶︎午後練▶︎自主練▶︎11:30就寝
[寮生活での生活サイクル]
朝5:30起き&点呼▶︎朝食▶︎朝練▶︎授業▶︎午後練▶︎自主練▶︎11:30就寝

また、慣れないことは生活だけではなくサッカーにも慣れるのが大変でした。今までは自陣からビルドアップでボールを全員で握りながらゴールを目指すスタイルでやっていたものが、高校から自陣でのリスクを負うプレーはなるべく避け、相手の嫌がる背後を徹底してボールを配給することが多く、とにかく上下に走ることが増えました。

もちろん状況によってはリスクを追わない時もありますが、基本的に多くのプロサッカークラブはボールを握り、ゲームをコントロールするスタイルで私はそこを目指していたので、チームが求めているプレーと私がやっているプレーや目指していたプレーが異なりうまく馴染むことができませんでした。当たり前の話ですが、監督・スタッフが求めているプレーを体現できない選手は起用されません。私はこんなサッカーして勝てるわけない、プロになれるわけない、スタッフは何を考えているんだろうなどモヤモヤした気分でいつもプレーしていました。

モヤモヤしている気持ちを選手には相談できても、チーム方針にそぐわない反抗とみなされカテゴリーを落とされる、罰走になるのにビビって結局、スタッフには相談すらできず高校サッカーに幕を閉じてしましました。悪い想定だけして結局何も行動せず、現状を変えれなかったのは今となってはダサいなと思っています。

今の自分から当時の自分にアドバイスするなら
「自分の考えを伝えることもできない選手がプロになれるか!?相手が先生で年上だからとか関係なくて、本当に自分の将来とかチームのためだと思うならまずは行動(相談)しろよ!相談した結果、よくわからんけどカテゴリー落とされたらまた這い上がればいいじゃん!逆に相談して自分の考えを理解してもらってチームや自分がプラスになるなら最高じゃん!クヨクヨするなよ〜!」


思い描いていた未来図❸


ここで改めて、私のキャリアプランは年齢が大きく関係する海外移籍を考え、高卒でJリーガーになり活躍することだったのですが、なかなかうまくいかない現状や周りでプロの練習参加をしていた選手などと比較するといろんな部分で劣る自分に限界を勝手に作ってしまい、結局、主役の代である高校3年生のインターハイ後、自らプロサッカー選手への道を閉ざしてしまいました。私は受験勉強に切り替えるという道を使ってきつい練習から逃げるかの如く、約15年くらいの選手生活をダサい終わり方で終止符を打ちました。

新たな夢を見つける

そんな私はプロサッカーへの未練があったせいか、どうしてもサッカーに関わる仕事がしたい!と思っていました。なぜプロの業界にこだわっていたかというと、中学の時にサンフレッチェがJ1を連覇したあの瞬間を私はスタジアムで経験し、あの体験を作り出したい!という想いと、あとは「プロサッカー業界」と聞くだけで周りから一目置かれる感じがいいな〜と思っていたからです。選手がダメならフロントやトレーナーとしてでもいいからとにかくサッカーに関わり、できるならヨーロッパのトップチームで働けたら幸せだなと考えていました。そしてもともとスーパー早熟タイプで体に悩んでいたこともあり、身体とパフォーマンスの関係へ興味があり、中学時代に出会いお世話になったアスレティックトレーナー(以下「AT」とする)という職を目指すようになりました。また、ATになる過程で英語取得は必須となり、なんとなく英語ができればトレーナーになれなくても職には困らないだろうとも考えていました。

そこでATを目指せる大学を探し、ひとまず現役合格が狙えそうな立命館大学のスポーツ健康科学部を目指しました。そんな感じで高校サッカー引退後の描いていた人生はこんなんです。

高校生活の約2年間をサッカーに全振りしていたことで全く受験というものを意識していなかったツケが回ってきて、サッカー引退後の半年間受験勉強に打ち込みましたが、到底現役合格は叶わず…大学では部活でサッカーをするつもりはなくATを目指す一心だったので、親に申し訳なく浪人という選択をしました。

高校生期の主な成績

・2013 NIKE LIGA NOVA U-16 準優勝
・第68回広島県高等学校総合体育大会 サッカー男子の部 ベスト8(ベンチ外)
・第94回全国高校サッカー選手権大会広島県大会 ベスト4(すでに引退)

浪人生期


ありがとう、当時の浪人仲間

第一志望校再戦

夢のために第一志望校を譲れなかった私は一度他の大学でもATを目指せるか探してみました。(いろんな選択肢を探し出すことはちょっとできるようになったのかもしれません。)当時の私の志望校の選択の軸は下記の通りでした。

1つ目:「ATを目指せる大学」
2つ目:「ある程度偏差値の高い大学」
3つ目:「親への経済的負担が大きくならない大学」

それぞれを少しだけ深掘ると、1つ目のは夢があったので当たり前かなと思います。夢を叶えるための勉強をしないと意味がないので。2つ目の「ある程度偏差値の高い大学」に関しては、浪人するなら現役で合格できるような大学ではなく、きちんと1年間勉強に打ち込んで届くような大学に行くのが筋が通っていると思ったからです。3つ目の「親への経済的負担が大きくならない大学」は前の高校進学の際の判断軸でも出てきましたが、私は親へ迷惑をかけたくない人間だと改めて思いました。

そんな感じで大学を見ていき、国公立は数学などの理系科目が致命的にできなかったので、必然的に選択肢から消え、私立の中で立命館・早稲田・法政・関大あたりが候補になってきました。関東と関西では生活レベルが異なることもなんとなくわかっていたし、何より各大学のカリキュラムやプログラムなどを拝見した中で立命館大学の中にATを目指すプログラムがあり、アメリカの大学へ編入できれば資格取得が通常の1年半早くできることでトータルコストも抑えられる部分に惹かれ、やはり立命館大学を第一志望校へ定めました。

浪人生活当初は新学校でもなかった高校から予備校へ通うことに勝手に引き目を感じたと同時に全員見返してやろう、とよくわからない下剋上精神で勉強に打ち込みました。

0→80/80→100の大変さ

当時の勉強をしていて気づいたことがあります。
それは「0を80にするのは割とラクでも、80を100にするのは相当しんどい」ということです。
私は受験科目が3科目だったので、1科目あたりに費やすことができる時間は他の国立大学を目指す人より多く、極めようと思えばいくらでもできる状態でした。最初は全く勉強ができなかった私ですが、徐々に点数が取れるようになってきて、気づきました。8割くらいの点数を取るまではある程度やればできるけど、10割を目指すには細かいところまで暗記して抜け目なくしないと無理でオタクにならないといけないことに。

この教訓が今の何に通じているかわかりませんが、ただ明らかなのは「ある程度形にすることは誰でもできるけど、本物で極めたものにしようと思ったら相当頑張らないといけないぞ!」ということです。

親に迷惑かけたくない、私立で2浪はダサいという思い、下剋上精神で1年間缶詰状態で予備校に通い続け、念願の立命館大学に進学することが決まりました。当時、何かとご迷惑をおかけしたチューターの先生方や勤勉な生徒さんたちにはこの場を借りて謝罪します。申し訳ございませんでした。

大学生期

みなさん元気してます?最前列左端が私。

想像の何倍も違ったATプログラム

ATを目指して無事第一志望校に進学することができ、早速ATの資格取得を目指すプログラムに参加しました。そこで待ち受けていたのは思っていた数十倍地味で大変なプログラムでした。パンフレットで見たようなキラキラしたインターンシップをしている光景ではなく、現役ATの活動を観察(合計時間:50時間くらい)や長期休暇の間は筋肉・骨の名称を英語で覚えながら、各名称がどんな機能をしているのか全て学習することでした。

日本語の授業でも骨や筋肉、腱などの名称を全て覚えることはありましたが、それを英語で行う。さらにATの仕事範囲は医療分野も関わってくるので医学的な知識も必要となり、英語ができればOKとかの問題ではありませんでした。もちろん私は帰国子女でもなく英語が堪能ではなく、ただATとしてプロサッカー業界に関わりたかった人間なので、現状とATになるまでのギャップが凄すぎて挫折してしまいます。

ここからわかる私の特性は『現状と未来へのギャップが大きなり、未来が見えにくくなればなるほど、その間のプロセスを整理することなく漠然と大変そうというイメージで諦めてしまう。ただ少しでも未来の霧が晴れてチラつけば走り出す!』こんな感じだと認識しています。

私が頑張れる時や調子がいいとき

小学生の時の自分はまさに調子がときで井の中の蛙状態だったこともありゴールがはっきり見えている酔いしれていた感じでした。もちろん、誰しも10m先にゴールテープがあれば頑張れると思います。そうではなく私は100km先に僅かに見えるゴールテープがあり、その過程にはさまざまな困難がある状況でもマイルストーンを整理していれば乗り越えていける自負があります。

私が挫折するとき・何かを諦めるとき

少し余談ですが、これからの人生では先行き不透明なことばかりで掲げたゴールが霞んでしまうことばかりだと思っています。その時にやはり諦めて下山するのではなく、別の角度から見上げてみたり、何か道具を使ってゴールを照らしてみたり、仲間と一緒にゴールを探したり少しでも行動することが大事になると思います。例えば別角度から見上げたけど見えなかったら、また別の角度から見上げたらいいし、最初にいた仲間が別道に行ってしまうこともあるかもしれないけど、また別の新たな出会いから仲間が増えることもあるだろうし、とにかくまず行動して早めに修正することがこれからは大事になってくると私は考えています。

紆余曲折の夢

それから私はATという職を目指すのを諦めましたが、頂上の「プロサッカー業界で働く」というところはどうしても拭いきれず、別の関わり方を模索した結果、フロントスタッフとしてサッカークラブで働くことを考えました。私がなぜ「プロサッカー業界で働く」ことが拭いきれなかったのか振り返ると、やっぱり昔から目指してきたところがプロサッカーの世界だったこと、一度は自分もあの舞台に立ちたいという憧れがあったからだと思います。しかし、なんでプロサッカーの舞台を幼い時から目指していたのか?ともう一つ解像度を上げると、『自分の活躍で関わる人の心を動かすのが好き』だったり『周りからこいつはすげーと称賛されている自分が好き』だったり『お金を稼げれば親孝行できる』というところが一番上にあるのだと思っています。後付けの理由にはなりますが、多くの人を喜ばすことができる可能性があるのはトレーナーよりもフロントスタッフの方があるから、フロントを目指したというものあります。トレーナーだとひとりの選手、もしくはチームメンバーに働きかけて、その選手の活躍で多くの人に喜んでもらうのに対して、フロントだと自分とスポンサー企業様が企画したアクティベーションを通じて多くの人が喜んだり、GM的な働きだとチーム強化と経営の部分に直接関わることで多くの人喜ばす可能性があると当時は考えていました。

とにかく自ら学びにいくスタイル

そこからの私は大学内のコースでスポーツマネジメントコースを選択し、スポーツビジネスに関することを学びました。また、在学中に過去に作ったサッカー界の繋がりを探ってプロサッカークラブのインターンをお願いし、インターンの経験をさせていただいたり、学外での学びを深めるためにスポーツビジネスに関する本を読んだり、セミナーやオンラインサロンに参加しました。さらにスポーツビジネスの本場であるアメリカにも半年間留学をし、さまざまな経験をしてきました。

<オンラインスクール>
MSBS(ミッションスポーツビジネススクール)

<オンラインサロン>
LYDオンラインサロン

<インターンシップ>
・サンフレッチェ広島インターンシップ

<代表的な本>
スポーツマーケティング改訂版
プロスポーツビジネス 私たちの成功事例
サッカーとビジネスのプロが明かす育成の本質 才能が開花する環境のつくり方
ゼロに飛びこんでイチをつくる―― FCバルセロナとのビジネスから学んだ未来の開き方

スポーツビジネスを学んでいく中で、ビジネスサイドでサッカーに関わっていくことを常に考えるようになり、留学から帰国した3回生の春からアルバイトとしてサッカーコーチを始めながら、就職活動もちょっとずつ考えるようになりました。

当時はとにかくビジネスサイドでサッカーに関わり、自分もビジネスの力を付けつつサッカー業界に貢献できる人になりたい一心でした。
そのため当時の就職活動の軸は1本!
ビジネスサイドでサッカーに関わる!』でした。

「柔軟にものごとを考え、対応することができない」という私の思考のクセがあり、今ならまずは世の中のビジネスの仕組みを学び、自分のビジネススキルを高めてからサッカー界に踏み入れる方が貢献できるなど考えることができますが、当時の私にはできませんでした。大学の先生からも一旦一般企業で働いてみていろんな経験を積みながらサッカー界への貢献の仕方を模索してみる方が経験値を積んだ状態で関われるからよりインパクトのある貢献ができるのでは?という感じのアドバイスをいただいた記憶があります。

いざ、就職活動!

私はすでにプロサッカークラブのスポンサーとして入っている企業様を中心に、これからスポンサーとして入れそうな企業様に絞り就活をしましたが、全て落選。当然といえば当然で、スポンサー企業様には本業があり、本業との相乗効果を狙ってスポンサーになっていることがほとんどなので、私がいくらサッカーでこんなことしたい!あんなこともできると思います!って熱く語っても企業側からしたらそこのポジションは空いていないし、そこは求めていないので人材のミスマッチでしかないのです。

そんなこんなでコロナが猛威を振るうなど行先がどんどん雲に覆われる感じの中、サッカーコーチのアルバイトで関わらせていただいた企業からこれまでの姿勢を評価していただき、正社員登用の打診がありました。多分自分は就活を続けても企業側が求めている人材とは合わず、また自分に嘘をついて企業に合わせた就活をしてもその後の人生が企業に振り回される人生になりそうだと考え、まずはサッカー業界のど真ん中に入ってみて自分に何ができるのかチャレンジしてみようと思い、思い切ってサッカー業界に踏み入れてみました。


実はサークルでサッカーはやってました

社会人1年目


新卒1年目でいきなり監督就任

私の社会人1年目はいわゆる一般的なサラリーマン新入社員1年目の感じではなく、いきなり大きなポジションから始まりました。それはサッカークラブの『監督』というポジション。私が就職した会社は(お給料は株式会社からいただいておりましたが)NPO法人としてさまざまな活動をしており、その中に中学生のサッカークラブチームと小学生のサッカークラブチームがあり、私はその中の小学生のサッカークラブチームの監督を任されました。社会人1年目にこんな重要なポジションを任されるのはなかなかないことで、逆に人と違うことが嬉しくチャンスやな〜と。だけどチームの責任はもちろん、選手の成長のために誰よりも学び、還元しないといけない覚悟は今まで以上に持つようになりました。

当時は掛け持ちで別のサッカースクールのアシスタントコーチもしていたので週休0で働きました。1年中ほとんど外での仕事で大変な部分もありましたが、それでも続けられたのは選手たちの未来に関わっているという責任とシンプルにサッカーの奥深さにもっと知りたいという探究心があったからです。また、20代前半の若造監督が一回り二回りも経験豊富な相手監督と対戦して勝つことへのワクワク感、ビジネス面でもどれだけクラブにお金を引っ張って来れるかなど常に挑戦できる環境は私にとっていいものでした。

実はサッカーコーチというのは思っている以上に頭を使う仕事でビジネスにも共通している部分も多くあります。

例えば
・選手やチームの現状と目標のギャップを練習で計画的に進める
・今あるリソース(選手たち)で最高のパフォーマンスを出せるか考える
・最高のパフォーマンスを出すために最大限の準備をする
・試合に勝つ(目的)のために最適な選択肢(手段)を決断する
・相手の特徴を掴み、戦略的に戦う
など

考えればまだまだたくさん見つかりそうですが、サッカーから学べることも多くあり、無意識のうちに今に役立っていることもあるかもしれません。さらに私の場合は親御様との関わり方も学ばさせていただくことが多く、親御様がどんなことに悩んでいるのか、何をこのクラブに、私に求めているのか普段の言動や関わりの中で発見し、サポートできる部分はサポートさせていただきました。

気づいてしまったサッカークラブの収益構造

そんな他の社会人1年目の方が学ぶことができないようなことを経験していた中であることに気がつきました。それはサッカークラブのビジネスモデルです。私は就職してからこのクラブがどこでお金を生み出し、どうやって運営され、給料がどのお金で支給されているのか考えることなく、このクラブが提供できる価値を広げていくために選手の入会数を増やす施策ばかり考えていました。しかし、指導者ライセンスの際に「1人の指導者が質を担保して選手に指導できるのは15〜20人くらい」ということを学んでから、仮に40人の選手になるとコーチは2名必要ということに気づきました。つまり、選手の数を増やして売上が増えたかと思えても、その分指導者の数が必要となり人件費がかかるという損益分岐点が大きく変わらないのです。単純に「選手の数」×「月謝」だけで売上を伸ばすだけでは利益は伸ばせない構造のため、それ以外の収入の柱がなければ何も変わらない状況です。(Jリーグクラブでさえ、スポンサー収入が大きな収入柱になってます

この事実に気づき、サッカーコーチという働き方を経験し始めてからこのままサッカーコーチを専門に生きていくことの覚悟が決まらず、自分が目指していきたい方向性と少しズレていると認識しました。この時はもう監督就任1年目が終わりかけたぐらいのときで、正直サッカーコーチとして生きていく、プロフェッショナルとして突き詰めていく覚悟がない指導者が本当に選手たちのためになるのかモヤモヤしている状況でした。そんなこんなでグラウンドに立てば選手たちの前では指導者としての顔で向き合い、事務所ではビジネスマンとして事務作業や集客のことを考え、家に帰れば自分の将来に関して考える日々を過ごし、1年目が過ぎていきました。

社会人2年目

新たなポジション

いろんな葛藤がありながら社会人2年目を迎え、組織内での人事異動で2年目は小学生クラブチームの監督から中学生クラブチームのU-14のコーチへ就任することになりました。

指導の対象が小学生から中学生に変わることで指導者として求められる能力が増え、学校生活のこと、成績、人間関係、モチベーション管理、最終学年に向けての積み上げなどやること全てが初めてに近いもので試行錯誤の連続でした。人間誰しも最初っから全てうまくいくことなんてなく、自分自身でもあまりいい指導ができていなかったと思っています。その節は本当に申し訳ございません。

ただ、ピッチに立ったら選手たちと真剣に向き合いどうすれば選手たちがもっと成長することができるのだろうと常に考えていました。チームの現状と選手の現在の立ち位置、将来像を選手たちと一緒に認識し、そのギャップを練習で埋めていく日々で、まだまだギャップを埋めるための引き出しは他のスタッフに比べると少なく、質も劣っていましたが毎日が勉強状態でした。時には上司から厳しいお言葉やアドバイスをいただく度に「何やってんだ俺、選手のためになってないじゃん⤵︎」と悩み、落ち込むときもありましたが、自分のためチームのため、そして選手のために厳しく向き合っていただいた皆様に感謝しかないです。

またサッカー界に入って2年目のペーペーが他のチームとの繋がりが少なく練習試合のマッチメイクをするのも一苦労で、当時はこの属人的な部分をプラットフォームでマッチングできるようになったらなーとか考えていました。

何かを決断するときは何かを辞めなければならないこともある

仕事をする中で日々、このままサッカーコーチとして人生を歩んでいくことが自分の人生なのか考えるようになっていました。それは働く環境面・金銭的な面でも、そして自分が心からやりたいことなのかどうかなど、いろんな天秤がありました。当然、僕の周りには社会人2年目の人ばかりで転職経験者の友人はおらず、転職というのがどんな感じなのか全く想像もつかいあんもので、ひとまず転職エージェントに今の現状を打ち明けることにしました。

エージェントの方と話を進めていく中でやはり自分はビジネスサイドをもっと経験してサッカー界に還元したい思いがあり、若いうちにビジネス経験を積むのがいいのでは?と思うようになってきました。今までもサッカークラブ内で集客には力を入れてきましたが、より大きな規模(toB)で自らがアプローチ(新規開拓)してビジネス能力(問題解決能力、提案力、稼ぐ力、ビジネスの知見など)を身に付ける方がこれからの自分にとって違う角度でサッカー界を見たり関わったりすることができるのではないかと考えました。

また、実際にサッカー業界に足を踏み入れてみて待遇の面、働き方など業務改善の余地はまだまだあるなと感じ、もっとサッカーコーチが働きやすい状態を作り、より良い価値を選手たちに届けることが選手の成長、チームの成長、日本サッカーの成長にも繋がるのかなと考えていました。

他にもここでは言えないさまざまな事情が重なり、私は年度末にチームを去ることを決意し転職活動をはじめ、なんとか自分が希望とするような仕事を掴み取ることができ、上京することが決まりました。

アルバイト期間を踏まえると約4年半、サッカーコーチとして未熟者だった私に受け入れていただいたスタッフの皆様、保護者の皆様、そして選手たちには感謝しかありません。サッカーとはどういうものなのか、サッカーコーチとしてどう立ち振る舞い、どう選手や親御様と向き合い、チームを作っていくのかご教示いただいたスタッフの皆様、我が子のように優しく受け入れていただきながら時には厳しいお言葉で私を成長させてくださった保護者の皆様、サッカーに真剣に向き合い、共に喜怒哀楽を共有させてくれた選手たち、本当にありがとうございました。一生の宝物ですし、ずっと応援しています!そしてまたお互いが成長した姿で会えることを楽しみにしています!


社会人3年目


たしか最終出社日のオフィス屋上から

東京進出は田舎者には早すぎたのか!?

日本のビジネスの最大の戦場である東京へ移り住み、私は早速洗礼を受けます。後になって振り返って気づいたのですが、紹介いただいた不動産仲介会社の営業マンのセールスがなんとも上手く身の丈に合わない家賃のいい物件に快く契約させられたのです笑 当の本人は全く嫌な気をせずむしろいい気分で契約しました。また、覚悟はしていましたが今まで田舎育ちの私からしたら異常なほどの人の多さと土地勘がないことが重なり、気疲れが今まで以上に私のHPを削っていきました。

私が転職した株式会社マイナビではアルバイト求人広告を商材とし、求人活動をサポートする法人営業を行う仕事でした。入社の決め手がtoBの新規開拓営業で短期スパンで営業を繰り返し行えることでした。法人の新規営業ならビジネス能力は身に付くだろうという甘い考えです。正直、営業未経験・東京に慣れてない田舎者・あがり症で心配性だった自分にはどんな世界が待っているのか想像もつかず、飛び込んでいった次第であります。

大手だから入社したら手厚い研修があるのかな〜と思ったら研修も1週間でパパッと流れるように終わり何も頭に入っていない状態で営業活動が始まりました。入社月にはすでに予算がつけられ、研修が終わるないなやすぐにテレアポがスタート。最初は本当に酷く返答ができずに2〜3秒謎の間があったり、言葉遣いが悪かったりするだけでなくアポ組みのために必要な情報が抜けていたりしていました。アポが組めても最初の頃の商談は上長に同行していただき、商談のほとんどをやっていただき決めていただくことで自分の数字にする状況でした。

正直、自分の力でやり切った感じは全くなく上長がいなければ何もできないセールスというのが悔しく、最初は必死に数をこなしながら研修などで知識を入れてブラッシュアップしていこうと必死に喰らいついていました。当時の上長は本当に頭が切れる方で、研修を含め同行の移動中の雑談などで営業とはどういうものなのかメンタル面からテクニカル面などあらゆる角度から教えていただきました。また組織のマネジメントにおいても学べる部分が多く、社内には本当に仕事ができる方が多く在籍していましたので自分の中で仕事ができる人の基準値を作ることができました。

ただ中途入社で既存顧客がいない、つまり売上の原資がない状態で、常に新規を狙いながらいかに継続してもらって長期的に売上を立てていくかの勝負でアポが組めなかったり、商談で上手くヒアリングができなかったり提案ができなかったりして月末は予算のことで頭がいっぱいで週末も休めない感じになっていました。さらに受注できたらできたで短いスケジュール期間で必要作業工程数の多さに夜中まで残って作業することも増えてきました。(その際に付き添いでご指導いただきました先輩方、上長には感謝しかありません)

転機の出来事と出会い

入社前と入社してからのギャップは思って以上に大きく、自分がお客様に価値提供できない、むしろ途中で迷惑をかけてしまうことが悔しく、日々の業務のスピード感と自分の頭の整理が追いつかない状況に非常に苦しみました。会社にセールスとして雇われている以上、お客様に価値提供できていない会社に貢献できていない、同じ課の売上数字の足を引っ張る状況は自分にとって情けなく、存在意義を日々考えていました。また、売上を作れたときですら達成感や嬉しさも感じられなくなっており、セールスとして終わっている状態でした。そんな東京で疲弊しているサラリーマンの一員になっていた私でしたがこのタイミングでの3人の友人の出会いと私的な出来事が人生を変えるきっかけになりました。話の詳細は割愛しますが、すごくざっくり話すと『人間どうせ最後は死ぬんだから本当に悔いのないように生きるのがいい』と東京でゾンビみたいになっていた自分にハッとさせられた友人との出会いと私的な出来事でした。

そこから自分は何のために転職して上京したのか、何がしたかったのか、将来どうなりたいのかなど「過去・現在・未来」をあらためて見つめてみました。ビジネス力をつけたい!と意気込んで転職し、記録に残せる結果や自慢できる結果を出したわけでもないちょっと営業に関して味見した程度ではあることは重々承知でしたが、自分の中で仕事に精が出ずダラダラ働くのなら潔く去って自分の道を切り開こう!と決断しました。自分が本当にやりたいことはサッカー業界に貢献すること。私は片足はサッカー業界に突っ込んでいないと気が済まない人間なのだと思っています。当時の直属の上司が「営業は最初に売れない状態になると自分の居場所を感じられなくなり、メンタル的にどんどんやられる」とおっしゃっていただきましたが、もし自分が毎月社内で記録に残るような結果を出していれば、また人生は変わっていたのかもしれませんが。。。

退職を考えていることを上記で述べた3人の友人に話をすると、その中のひとり(今の会社創業メンバーのである相棒)から起業の打診がありました。起業1年目のセクションで詳細は綴りますが、その打診をもらってから私の決断と行動は早く、たった転職して半年の時点で退職することにしました。当時の上長、同じ課のメンバーの皆様には急に立ち去る手段をとってしまい、ご迷惑をおかけし大変反省しております。本当に申し訳ございませんでした。私の中で、次の道を決めた時点で先延ばしにしまったらいろんな言い訳を考えて何も行動しない結局、アンパイな道を選ぶとわかっていたため、強引な決断をいたしました。特に私の直属の上司にはおんぶに抱っこ状態でたくさんご迷惑をおかけし、売上でお返しすることができず申し訳なく思っております。しかし当時のお教えが今に活きている部分がたくさんあり、いつか何らかの形で当時の恩をお返ししたいと思っています。

起業1年目

起業に至った経緯をもう少し詳しくご紹介すると、退職を相談した3名の友人の2名の存在が大きく私に影響しています。ふたりとも大学からの友人でいずれもサッカーで繋がった戦友です。

同い年にして人生一周している友人

ひとり目は大学在学中には癌を患ってしまい、一時は生死を彷徨う状態までになったが、癌とのデュエルに制した強者。その経験から大学卒業後、起業をしたけど株式保有率の関係から経営権を奪われてしまったという同い年にしてすでに人生一周経験しているくらいの彼からの「人生一度きり」という言葉の重み、説得力は他には変えられないものでした。そこから自分もいつ死ぬかわからない人生、どうせなら毎日やり切ったと思える人生にしてこの世を去りたい、自分の生き方が誰かの憧れの人生にしたいと本気で思えるようになりました。そしてそんな彼をいつか必ずヘッドハンティングします!

創業メンバーの相棒

今の創業メンバーであるもうひとりも変わった人間で、在学中になぜかよくわからない私の破天荒な生き方に影響され、独学でプログラミング技術を取得し、大学卒業後もフリーランスとして生きてきた人です。逆に今は、私が彼の行動力やものごとの考え方に感化されている状態ですが…

そんな彼から起業の打診に関してですが、
いろいろな出来事がタイミングよく重なり合って起業に至っています。
❶サッカー業界の課題感・問題を変えていきたい私の想い
❷教育委員会からのICT支援受託決定
❸より働きやすい環境を自ら作りたい

ざっくりではありますが、上記の❶❷❸から起業に至りました。
よくあるベンチャー企業の社長が大きなビジョンを持ち、旗掲げて突き進むような感じでも、個人事業主としての売上より法人化した方が税制上お得だからとかではなく、我々は事の流れで起業した方がどちらかといえば強い感じです。(個人的にはいつかは起業して自分でビジネスをしたいとは思っていましたが、まさかこのような感じで起業するとは思ってもいませんでした)

❶に関しては、私が在学中、サッカークラブ就業中から思っていたことで、彼にも相談していたことでした。プロのサッカークラブでさえさまざまな収益の柱を立てて経営をしている状況である中、Jリーグクラブ以外の街クラブではまだまだ経営状態が健全ではありません。最低賃金を下回る、ボランティアとしてスタッフが選手たちに向き合っている状況は令和時代の働き方としてはあり得ませんし、今のZ世代やα世代には向いていません。価値提供した分、しっかりと対価を払える状況を作れるように育成年代のサッカークラブにもお金が流れる仕組みを作りたいと思っています。そうすることでいい指導者がもっと選手のために頑張り、選手たちはより良い価値提供を受けることができ、チームの力がUPする、最終的には日本のサッカー界のレベルがもう1段階UPするとも思っています。現在、手段に関しては常に模索中ですが、今はまずオンライン上でもしっかりとクラブの価値を提供できるように我々が提供できる部分であるWEBサイト制作や業務効率化のためのシステム開発で貢献していきたいと思っています。

❷に関しては、相棒が個人事業主のときにさまざまな繋がりから教育委員会の方からご相談があり、教育現場におけるICT推進をこれまでのITに関する知見を活かしお力添えさせていただくことになりました。そこで教育委員会からしても個人事業主よりも法人とお取引する方が安心するだろうということも考え、本格的に法人化を進める大きなきっかけになりました。

❸に関しては、我々が働きやすい、むしろ生きやすい状態を作るための会社を創り上げるためです。それは働き方含めお金の部分においても、そしてそれぞれがこれから人生をかけてやり遂げたいことをするために個人の力だけではできないことを会社を立ち上げることで実現していけると思ったからです。どんな会社が我々にとって、そしてこれから一緒に働くメンバーにとっていいのか柔軟に考えながら、我々に関わる人が幸せになれる働き方を目指しています!

弊社について

こんな感じで起業に乗り出した我々ですが、
現在、会社のミッションとして下記を掲げて事業展開しています。

The trigger to bring new synergies
新たなシナジーを生み出すきっかけを。

これは、私が生まれてから今までの中でたくさんの人に支えられ、刺激を受け成長して今に至ると思っていることから、今度は我々から何かシナジーを与えられるようにしたいと思い、掲げました。弊社とお取引をするだけではなく、何かしらの出会いやちょっとしたお話がきっかけで、ものごとが前に一歩でも進んでいただくきっかけになれば幸いです。まずは我々が提供できるITの部分での価値提供を中心にこれからも弊社から何かしらきっかけを与えていけれるよう、事業展開していく所存です。


最後に

最初からここまで読んでいただいた方は私という人がどんな人なのか大体ご理解できたかと思います。私は決してカリスマ性がある天才でも、頭がいい訳でも、すごい家庭で育った訳でもない、ちょっとだけサッカーが上手"だった"人です笑 私よりも優秀な人がほとんどだと思っていますし、私より会社経営が向いている人がいるとも思っています。ただ、そんなこと思っていても自分の人生は何一つ変わらないので、私に残されている選択肢は目の前の出来事を高速で実行すること、決断することだと思っています。どうせ熟考して行動しても成功確率はだいたい五分五分だと思っているので、ならば先にやって失敗しながらも前に進んでいくのが成功への近道だと思って毎日過ごしています。そして私が苦手な思考することは、徐々に鍛えていきながらも周りの専門家・友達に相談しながら一歩でも前に進んでいけるようにしていきます!

この記事を読んで私から「こんな私でも起業できたからみんなもできるよ!」なんて無責任なことは言いません。なぜなら私と皆さんとでは置かれている状況や環境が全く同じではないからです。だけど、長々と書きましたが、少しでも誰かの何かのきっかけになれていればこれ以上の幸せなことはありません。最後まで読んでいただきありがとうございました。少しでもいいなと思ったら「いいね」「拡散」、そしてご質問、ご相談があればコメントなどいただければと思います!


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