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村上春樹「騎士団長殺し」

 村上春樹の騎士団長殺しを読み終わったので、内容を覚えてるうちに読書感想文に挑戦してみようと思います。(時間が経つと、絵描きが穴を見つけて入って、変な世界に行って逃げてきた、程度にしか覚えていないので)

 村上春樹は(きっかけは覚えてないですが)最初に恋愛小説とは知らずに「ノルウェイの森」を読み、その後「ねじまき鳥クロニクル」ぐらいまでは短編を含めてほとんど読んでいます。多くの小説家の中でも、とても特徴的な個性的な魅力的な作家です。そして、ほとんど読んだということは、とてもお気に入りの作家ということになります。しばらく遠ざかっていたのですが、仕事中にブックオフで見つけて、久しぶりに読んでみました。

 この小説は「騎士団長殺し」という名の絵を巡って現実の世界、イデアの世界、メタファーの世界を主人公が旅する小説と解釈しています。ストーリーはありますが、起承転結がついたわかりやすいものではなく、パズルのようです。わかりやすく例えると「天空の城ラピュタ」ではなく「崖の上のポニョ」ということです。村上春樹の小説はデビュー作「風の歌を聴け」から一貫してそういう作風です。

 作者本人も言っているように、小説は読者それぞれが自由に解釈するものなので、(これは抽象画を鑑賞する時の心構えと似ているかもしれません)この感想文はストーリー云々ではなく、場面や言葉についての私の解釈、言い換えると採点のないテストの解答みたいなもの、ということになります。

肖像画を描く主人公

 主人公は肖像画を描く画家です。これは小説家村上春樹の「表現」に対する様々な思いが反映されている存在と言えるでしょう。小説でも絵でも「表現って何なの?」「人間を書く(描く)ってどういうことなの?」ということが、この小説のテーマの一つと言えます。
 
 「その女性は肌が白くて、目は理想的な形で瞳が大きく、鼻はすっと通り、唇がツヤツヤで、髪の毛がサラサラで、いい匂いがして、スタイルが良くて・・・」という単純な表現と「その女性は暗く深い海の中で泳ぐ魚を見るとひどく怯えた」というような表現には違いがあります。(ちょっと思いつきで書いているので意味不明かもしれませんが)

 簡単に言うと、人物の内面の表現で、これが高いレベルで表現されるとイデアとしての存在に昇華します。雨田具彦が描いた騎士団長、主人公が描いた白いスバル・フォレスターの男などは、作品の中で表現された存在ですが、現実世界に強い影響を与えはじめます。前編タイトルの顕れるイデアについてはそんな解釈をしました。

顕れるイデア

 さて、サブタイトルにもなっているイデアとは何だろう。
勉強不足の私には「イデア」という言葉のイメージが無かったので、私はひとまず「観念」という日本語に訳して読みました。wikiで観念を検索すると。。。

 観念とはプラトンに由来する語「イデア」の近世哲学以降の用法に対する訳語で、何かあるものに関するひとまとまりの意識内容のこと。元来は仏教用語。
【定義】
 論者によって厳密にいえば定義は異なる。プラトンのイデアは、客体的で形相的な元型のことであるが、デカルトによって、認識が意識する主観の内的な問題として捉えなおされたため、イデアは、主観の意識内容となり、以降、この意味での用法のものを観念と訳している。日本では訳語に観念が当てられる。日本語の観念は、元来は仏教用語であり、「イデア」以外の意味を持つ(後述)

 難しいです。そこで騎士団長との対話がヒントになります。

「前にも言ったが、イデアには時間の観念はあらない」
「イデアは他者による認識なしに存在し得ないものであり、同時に他者の認識をエネルギーとして存在するものであるのだ」
「イデアは人間に良いことをするかもしれないけど、良くないことをする場合だってある。そうですね?」
→「この宇宙においてはすべてがcaveat emptor(買い手責任)なのだ」

 イデアとは時間を超えて他者によって認識されるもの、それは騎士団長のように、人によっては見えませんし、その姿は変わります。悪意をもって見れば悪になるし、善意で見れば善になるとも言えます。例えば原発。これは私にとっては(実は)善ですが、反原発派の人からすれば悪になります。
 蛇足ですが、作者が「すべてが買い手責任なのだ」と明言しているのところが、村上作品批判に対する反論のような気がして面白いです。

白いスバル・フォレスターの男とM女

 この小説のスバルフォレスターの男は、ストーリー上は、離婚後の傷心旅行中に、東北の漁港に近いファミレスでハンバーグを食べていただけの中年おじさんです。彼はリアバンパーにカジキマグロのステッカーを貼った白いスバル・フォレスターに乗っており、最後の方で東北大震災のテレビ中継で偶然画面に映るという形で再登場しました。主人公はアトリエでその男の肖像画を描きます。
 
 そして、もう一人。白いスバル・フォレスターの男と同じファミレスで主人公と同席した後、セックス中に「叩いて」「首を締めて」と要求するM女。
 
 この二人の関係性は明示されませんが、非常に思わせぶりに暗示として書かれます。この書き方は(村上作品によくでてくる手法ですが)とても作者の意図を感じました。
 
 私は(映画アメリカン・ビューティーのように)「この男は田舎町でごく普通に生活しながら、悪辣な手段で女を囲いM女として調教し、日々欲望を満たしている異常者」と想像しました。そして、その異常者の闇が(あるいは主人公の闇が)肖像画の中でイデアとして顕れたのだ、と。
 
 また、後半のドンナ・アンナとの対話で白いスバル・フォレスターの男についてのヒントが出てきます。

 「あなたの中にありながら、あなたにとっての正しい思いをつかまえて、次々に貪り食べてしまうもの、そのようにして肥え太っていくもの。それが二重メタファー。それはあなたの内側にある深い暗闇に、昔からずっとすまっているものなの」
白いスバル・フォレスターの男だ!と私は直感的に悟った。
(中略)
もちろん彼には何でもわかっている。なぜなら彼は私自身の中に存在しているのだから。

 ここでセックスを生、暴力を死として考えます。同様に、セックスを快楽、暴力を苦痛とも考えます。いわゆるSMプレイには、生と死、快楽と苦痛という相反する二重性がありますよね。例えるなら拷問で使う鞭と快楽を与える鞭、鞭という言葉にも受け手によって二重性がある訳です。作者はこの二重性を、直接ではないですが「危険な存在=二重メタファー」として表明しています。
 
 SMプレイという例でしたが、もっと広げると「正義のための戦争」や「平和のための戦争」も作中の二重メタファー的な存在かもしれません。

 ちなみに「スバル・フォレスターの印象悪すぎない?スバル関係者は怒るだろ」と思ったのは私だけではないでしょう。スバルは前身が中島飛行機株式会社で、戦時中は「97式戦闘機」「隼」「疾風」などの戦闘機を生産していました。「97式戦闘機」はノモンハン事件で活躍した機体で、ノモンハン事件というと「ねじまき鳥クロニクル」を想起します。


長いので今回はここまで。
奇跡的にここまで読んでいただけたら、ありがとうございます。

次回書きたいこと。

雨田具彦の過去

還ろうメタファー

色を免れるメンシキさん

男には理解不能なユズ




 

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