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しあわせの天秤

人がこの世に生まれてからは、生き続ける以外にすることはない。
それを、生きる目的や経済力などをつくり、あの手この手で暇潰しをしている。

その中のひとつ、幸福度。
わたしは日々美味しいもの食べて、よく眠り、しかも自らを生かし支えてくれる人がいる。
そして、自分を活かせる場というのも与えられている。
誰かに認めてもらわなくても十分に幸せと言える。

しかし世の中はそんな人ばかりではなく
様々な「カタチ」で幸福感を得ようとする場合がある。

それがファンションや経済力、美容や結婚、出産などだ。

それらは非常にわかりやすいシステムで、万国において共通の認識である。

そんな中で私が近頃思うこと。
ファンションや美容などが最もわかりやすいが
第三者を以ってして、感じられる幸福感を得る場合がある。
そして、それらは表層とも言える。

20代前半の一時期、ファッションに傾倒していた時期があり、都内各地を歩き回り、ありとあらゆる洋服に触れた。

それらは非常に興味深いものだったし
人々は何にお金を払っているのかをよく考えるきっかけにもなった。

今わたしは30歳を超えた。
時折、個人の洋服店などに行くことがあり、友人と出向くこともある。
そんなとき、店員は必ず目立つおしゃれな服を着ている人間に興味を抱く。

その度に私は考える。
これも第三者を以ってして得る幸福感なのではないかと。
よく、「自分がいいと思うから」とか「異性に媚びたいわけではない」という文句を耳にする。
正直どちらでも構わないが、わたしは本人が気に入ったものを着ることが好きならそれでいいと思う。
ただし、人から褒められることを求めなければの話である。

結局は自分でこだわって買った服ですらも、同じようなこだわった人々から好まれたい、褒められたい、という承認欲求からきているのではないかと思う。

今や無印良品で服を揃えるようになってしまった自分だが、わたしは服装によって他人から承認して欲しいという気持ちは全くない。

「その服、かわいいね。」
「その服、似合ってるね。」

対象が人なのか、服なのか
でこの2つは大きく異なる。

褒められなければ幸せを感じられないこと。
自分の中だけで感じられる幸福感もあること。

どう生きたいか、立ち止まって考えることができてる人、どれくらいいるかしら。

「褒められたい」
これは戦後日本経済の根底にある感情だ。

近頃ではついに「褒められ○○」などを耳にするようになった。

いままでオブラートで何重にして隠していた、どす黒くビンの底に沈殿したものを「はい、どうぞ」と差し出してきたようだ。

ここまできたらもうネタ切れだ。
日本も変革期ということだ。
幸福の「カタチ」よりも「ナカミ」に眼を向けてはどうだろうか。


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