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全盲のパフォーマー タイ🇹🇭バンコク

タイの首都バンコクは東南アジア有数の経済都市だ。それでも道路などのインフラ整備は日本などの先進国と比べるとまだまだで、歩道を歩くのは結構たいへんだ。でこぼこに突っかからぬように、大穴に落ちぬように、ズボンの裾を汚さぬように――。下を見ながら歩くクセがついてしまう。

そんなデコボコなバンコクの歩道を、スピーカー付きアンプを首から提げ、マイクを持って歌いながらゆっくり歩く歌い手たちがいる。彼らのほとんどは盲目のパフォーマーだ。夫婦なのだろうか、多くの人が男女連れだって歩いている。手をつなぎ、危険な歩道につまずかないよう支えあっているのだ。

歌っているのは「ルークトゥン」と呼ばれるタイのロック演歌のような曲だ。みんな、声が非常に伸びやかで、きちんと積み上げてきたような技芸さえ感じさせる。首には募金箱のようなものをさげており、道ゆく人は彼らの歌にタンブン(喜捨)をささげる。

筆者も手持ちに硬貨があれば芸を味わった「お代」として差し上げるようにしていた。硬貨がないと出さないあたりが我ながらセコイが、やはり大変なんだろうなと思ってしまう。

日本でも「門付け」といって、三味線などの芸を身につけた全盲の方々が各地を回り、民家や商家の軒先で演奏してはお代を稼ぐということが、昭和の時代までは多くあった。

三味線の門付けと聞いて思い浮かぶのが、我が故郷・青森県の名手、高橋竹山(初代)である。本名高橋定蔵、津軽は平内町の生まれ。3歳で麻疹を患い極度の弱視となった。このため親は三味線を習わせ、竹山は十代半ばで東北や北海道を門付けして歩いた。

「食べるため」の旅は苛酷だった。目の見えないタイの歌手たちの「門付け」は南国ゆえにすごしやすそうだが、東北の冬はしばれる。吹雪の中、軒先で三味を弾いて、何も出ないどころか怒鳴られるのだという。寝場所もなく、漁師小屋に忍び入って飢えと寒さに耐え、盲目と貧困ゆえに差別された。

『魂の音色  評伝・高橋竹山』(松林拓司著、東奥日報社刊)を読むと、

「ドン底時代を思い出すと自然と手がじゃわめいで来る」

『魂の音色—評伝・高橋竹山』

―― とある。津軽弁の「じゃわめぐ」とは、焦りと不安と怒りでさざ波立つ感情が、思いがけなく発露するような感覚だ。

竹山はその後、民謡の大家である成田竹雲(故人)に伴奏の腕を見込まれて飛躍、門付け芸だった津軽三味線を世界に通用する芸術へと磨き上げた。昭和の時代にテレビやラジオから聞こえてきた「津軽じょんがら節」などの多くは、竹山の演奏だと言っていいだろう。

もの悲しさとたくましさ、そして柔らかさを包んだあの音は、苦忍の中から生じて人々の心を打ったのである。

2018年2月5日には、初代・高橋竹山の没後・二十周年を迎える。この間に上妻宏光や吉田兄弟ら多数の若手が台頭するなど、津軽三味線の芸道を内外問わず世に広めている。

彼らに道を拓いた先人を無意識にしのぶからだろうか、どこかタイの歌い手にも心をかれるのかもしれない。

(初出:タイ日本語フリーペーパー「web」巻頭エッセイ『泰国春秋』2007年12月15日号、文中敬称略)

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