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才能って、

マガジンとしてまとめている”「書く」というアイデンティティ”
これは僕の発散による自己理解が一番の目的であるが、前回の記事は読まれたい欲がでて、少しこの文章の趣旨と離れてしまった。本当に聞いてほしい、読んでほしいことは見やすくまとめて、ただ書きたいと思ったものはただ書く。少し前、この書き方に関して意見をもらって、このままではこんな文章の書き方しかできないやつと思われそうなので、近々読者に優しい、そして僕が本当に伝えたいこと、なんかを書いてみようと思う。ただ「書く」という幸福度は下がるが、誰かに伝えたいと思うと、ここの諦めは一定必要なのである。もどかしいが、そういうものだ。

みなさんは哲学・思想という言葉にどんなイメージを持つだろうか。
ちょっとやばいやつが使う言葉みたいなイメージを持っている人が多いと思う。少し前の自分もそうであった。友達がこんな言葉使い始めたら、宗教勧誘か?と勘ぐってしまう。それくらい身近ではない、それでいてステレオタイプで語られがちな言葉。でも、意外とこの言葉は身近にある。認知していないだけ。

一言でこの言葉を説明すると、
哲学とは、〇〇はなにか、と考えること。
思想とは、〇〇はこうあるべき、という考え。

ネットを泳ぐお堅い文献資料には、もっと難しい言葉で書かれているが、最近知り合いにこの説明をされて一番、腑に落ちたので、これを採用。
こう言われると意外に身近にあることに気づくと思う。企業のパーパスなんて、まさにこの考えで造られているし、選挙の公約なんかもそう。というか普段の会話で使ったりもすると思う。
誰かを動かそうと思ったときに、哲学・思想は重要なピースとなり、近年ではメリットよりも、哲学・思想による考え方や価値観を重視して判断する人も増えている。教科書に載っている哲学者・思想家の存在が、ある種の職業性、特異性を持たせているが、すべての人間は哲学者・思想家の側面を持っているというのが個人的な持論である。

そんなことを考えている自分自身を思想家であると自己認識しているわけだが、そんな自分の中で最近ホットな話題を今回は書いていく。
タイトルにもある「才能」という言葉について。この言葉に関しては、「才能」とはそもそもなにか、という考えが根底にあるので、前の話を踏まえると哲学領域の話になるのであろう。


才能とは、


「先天的に意図せず所持している特性」だと思う。
世間一般でよく使われる使い方とそこまで差異はないのでは。
もう少し要素分解して、深掘る。

先天的、つまり生きていく上で身に付けたわけではない。才能とセットで使われがちなセンス。これとは一線を画す。これは僕の感覚でしかないのだが、才能は0→1、センスは1→100だと思っている。
才能はある、なしで語られ、センスはいい、悪いで表現されることが多い(気がする)。才能は開花させるもので、センスは磨くもの。どこかで聞いたことがある人もいるだろう。ピンと来た人は友達になれそうです。
才能に気づかず一生を過ごすというのは、才能のもつ、この特性のせいであろう。才能とは0か1の二者択一なのだ。と、なると才能開花の瞬間というのは、才能を認知した瞬間なのではないだろうか。無意識で才能を使っていても、それはここぞの場面で発揮できない。ともすれば、必要なのは才能の認知であり、意識的に才能を発揮しているという状況を生み出せれば、そこに再現性が生まれる。

意図せず所持している、話が重複するが、獲得したのではなく既に持っている、というところがポイントなのである。
そして、その持っているものは自分が欲しい、欲しくないは関係ない。意図せず、自分のコントロールできない範囲で起きる現象なのである。家庭環境に生まれた土地柄、田舎であれば人間関係も幼い時は特に選べない。これも才能のもつ特性である。自分にメリットをもたらすか、どうかなんて関係なく所持しているもの。これをいかに活用するか。

特性、これも重要。またまた話が重複するが、才能は人の特性であり、長所ではない。つまり、才能がデメリットとして働きかけることが多々としてあるということ。ややこしいのが、このメリット、デメリットは時代や環境によって大きく変化する。記憶力がいいという才能は、学生時代、非常に役に立つが、社会人で仕事をしていくうえで必要なのは記憶ではなく、それをいかに活用するか、発想力や想像力が求められる。
もっと残酷なことをいうと才能を発揮したが故に、苦痛を味わうこともある。誰とでも話ができるからと、接待の場に呼ばれ、たしかに才能を発揮してはいるものの、その場にいること自体が楽しくない。しかし、なまじ才能があるが故、そのような役回りになってしまう。才能を発揮し、しかもそれが長所として活用されているにも関わらず幸福度があがらないという。社会は無慈悲だなと思う。環境ってのは大事。

才能という言葉に対して、プラスな話もマイナスな話もしてきたが、とにかく言いたかったのは、才能という輝かしく見えるものでも、それは使い手次第であるということだ。才能をそもそも認知できていない人もいれば、ご認識する場合もある。認知したとしても、それを上手く活かせない、活かしても幸せじゃないなんてこともある。才能ってのは、そんなに使い勝手のいい、みんなが憧れるためのものではないのではなかろうか。みんな持ってて、でも持ってるからって羨ましいものでもない。他人から見ると羨ましくても、本人からすれば迷惑なこともある。他の人の才能を欲しがったって仕方ないのである。



配られたカードで勝負するしかないのさ。それがどういう意味であれ。


僕がすごく好きな言葉で本質をついているなと思う言葉。
才能が配られたカードであるならば、それで勝負するしかない。ただ、そのカードをどう使うかは自分次第。どのタイミングで、どのように出して、どのような役割を持たせるのか。自分が持っているカードはどんなもので、そのカードの価値はなんなのか。そのカードが最大限価値を発揮できる場所は、タイミングは、相手はなんなのか。
才能は使い方が本質なのであって、どんな種類の才能なのかは、さほど重要ではないと思うのだ。

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