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世界の見方が変わったこと

noteを再開して3週間が経ちました。もう少し書く頻度あげたい。
最近心が荒れてるからこそ、こういうとこで発散した方が精神衛生上よかったりする。イライラしたことを書くとかではない。ただ、「発散した」という事実でかなり心が軽くなる。それが、自分を蝕む事象と関係のないものであっても。

そんなこんなで本題に。
最近、ラジオをよく聞いています。日本史マニアの僕はCOTENラジオで日々、歴史に名を残す方法を考えています。(余裕で嘘)
COTENラジオ以外でよく聞いてるのが、「超相対性理論」って番組。

話し手の3人がひたすら具体と抽象を行き来する番組で、
「なぜこの話題から、そこに辿り着く。。。」が毎回起きる。
まじやばい。あと、自分の感覚をめちゃくちゃ言語化してくれる。
「うわ、それめっちゃわかるわ。。」「それってそういうロジックなんだ」
この感覚の連続。まじやばい。

そんな超相対性理論の中で扱われていた、テーマが面白かったので、今回の僕のnoteのテーマにしてみました。

それが、
「世界の見方が変わったこと」

大袈裟なタイトルに見えて意外とそうでもない。多分みんなも共感できる事象。それを一足早く僕は言語化できたので、そのシェアくらいなラフな感じでここからは書いていきたいと思う。


みなさん、ついついやってしまう癖とかあります?多分、誰しもあるはず。ない、という人は恐らくそれを自覚してなくて無意識化でやっているだけだと思う。決めつけはよくないが、さすがに1つも癖ないです。は、勘ぐってしまう。ちなみに僕の場合は妄想癖。小さい時はアニメの主人公とかスポーツ選手になった自分をめちゃくちゃ妄想してた。今でもやるときある気がする。さすがに20歳になって、アニメの主人公の妄想してるのキツイからあまり触れないでおく。
この妄想という癖は、年を重ねるごとに少し形を変えていった。今は妄想というよりも脳内1人ディベートがよく開催される感覚。夢とか理想とか現実では起きないであろう現象について、ワクワクしながら妄想するのではなく、自分の感情や周りの現象について色んな視点からディベートする。1人で。脳内で。文字に起こすと昔より現実的になったというか、大人になったというか、みたいな感じがして少し悲しい。

この脳内1人ディベートは無意識でやってて、特にこれによる発見とかはなかった。だって、ただの日常。朝起きて、顔を洗ってご飯食べて、歯磨きする。この日常のルーティンに学びなどあるはずがない。この感覚と同じ。


ここで今日のテーマ「世界の見方が変わったこと」

みなさんは選択的知覚という言葉をご存じだろうか。

選択的知覚(selective perception)
多くの情報の中で「その人にとって重要な情報、好ましい情報が選択されて知覚される」ことを指します。

「問題意識の強さ」と「視野の広さ」を両立させるアプローチ(前編)
株式会社 スコラコンサルト

心理学の用語で他の記事や文献もみたけど、これが一番分かりやすかったのでこれを採用。心理学をちゃんと勉強してる人からしたら、少し怒られそうだがそこはご愛嬌。
いわゆる認知バイアスの1つで、「ステレオタイプ」や「色メガネ」のような現象の原因となる。マイナスのイメージで使われることが多い言葉みたい。あくまでこれは簡単に調べたときに感じた主観。
分かりやすい例として、欲しいものができると、今まで気づかなかったのに、意識し始めてからやけに目に入るようになるとか。「え、みんな持ってるやん、買うのやめよかな」みたいになりがち。あとは、大学の同期で全く面識なかったのに、同じゼミで認知すると急にいろんなところで見かけるようになったみたいな(実体験)

「無意識化に行っていたことを意識の中に置くことで、学びや発見が増える」この現象。

これが僕の世界の見方が変わったこと。
僕が今まで無意識的にやっていた、妄想と脳内1人ディベート。これを「内省」という言葉で認知した瞬間から、僕の感覚は大きく変わった。
自分の感情に向き合う、周りの現象について考える。それも色んな視点で。これを自分の癖だと認識してやってみると、自分の価値観の形が、かなり分かってくる。自分がどんな判断基準で生きていて、どんな時にプラスな、どんな時にマイナスな感情を抱くのか。自分を理解すると人生かなり生きやすくなる。(気がする)そして言語化力の向上。自己表現が苦手な僕がnoteを通して文章を書くことに抵抗がないのは、この内省とそこから生まれた言語化力の賜物であろう。「書くことに抵抗がない=いい文章が書ける」ではないので、そこは日々研鑽である。

長々と書いたが、つまりなにが言いたいか
「無意識化に行っていたことを認識し、意識の中に落とし込む」
これが、その人の武器になりえるし、才能なんだと思う。
才能が先天的に身についているものだとするならば、無意識化で行えること、それこそが才能だと思う。意識的に後天的に身に付けたものは才能
ではない。どっちが優れているか、みたいな話でもない。
せっかく才能があるなら、それに気づかない人生より、それに気づいて生活する人生の方がいいんじゃないかなとか思う。実際その才能を人生に活かせるかみたいな話は置いといて。武器が増えること自体は悪いことではないはずだし。

無意識を意識の中において、才能として認識する。

及川かっけえ

個人的名言製造漫画ランキング第1位のハイキュー。
その中でも特に好きなこのシーン。
才能開花のためには、まずはその才能自体を認識しなければならない。センスは1を100にする作業だけど、才能は0を1にしなきゃいけない。
今読み返すと、そんなメッセージを感じるこのシーン。こういう発見があるから本当に面白い漫画は何度も読み返せる。

意外に身近な、それでいて気づかない才能という概念。
これを無意識の中から引っ張り出して、意識の中に置ければ、世界の見方が変わったりするんじゃないかなと思ったり。
みんなの世界の見方が変わったこと聞きたい。

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