見出し画像

ひぐち君と画質

先日、部屋で作業中だった私は、キリのいいタイミングで晩御飯を温めにリビングへと移動した。
リビングに近づくにつれバラエティ番組のガヤガヤ音が大きくなっていく。
テレビ離れが叫ばれる昨今だが、我が家の夜は基本的にテレビがつけっぱなしである。その時ちょうどテレビに映っていたのは、お笑いコンビ「髭男爵のひぐち君」であった。

ものすごく久しぶりに見た。エンタの神様、レッドカーペット世代の私が少年時代しょっちゅうテレビで見ていた髭男爵である。
懐かしさに引き寄せられしっかり画面を凝視すると、こんな顔をしていたのか?と変な感じがした。記憶が薄れている、歳をとって髪型も変わっているいうのは前提としてある。しかしそれらだけではない、なんというか想像よりもキリッときれいな顔つきをしていたのである。

じっと液晶のひぐち君を見ながら考えていた。何が違うのか。
最後にひぐち君を見たときと最も変わっていること、それは「画質」なのではないかと気づいた。
昔私が見ていたひぐち君は粗い。こんなに鮮やかで高精細ではなかった。
記憶の中で画質が粗いまま保存されている人がいるのだ。
さらに彼はネタ中、縦に激しく揺れていた。激しい動きやブレにも当時の映像では耐えれていなかったのではないか。

久しぶりに会った人に、「少し痩せた?」と言う感覚で「画質上がった?」なんて会話は現実でしたことはないが、ひぐち君にはそう声をかけたくなった。

映像の中の人は、出力環境という外的な要因によって予期せぬアイデンティティが加わってしまっている。
音量を絞って見ていた深夜番組のMCは、実際会うと声が大きく感じるのか。
1.25倍速で見ていたドラマの俳優は、実際会うとのんびり話しているように感じるのか。
逆に自らの編集で、食い気味のカットでテンポよく話す印象が付いたYouTuberも実際会うと間が退屈に感じてしまうのか。


私もリモートワークが当たり前になり、映像に映って会ったことない人に対して話す側の人間になった。それぞれの通信環境によっては、自分のイメージにもほんの少しズレが発生している可能性もある。
将来、ダークモードのように目への疲労を優先して、私の肌の色も見る人によって調整されているかもしれない。ホログラムがスタンダードになったら頭のてっぺんや背中など死角に気を配るようになるかもしれない。

ありのままの自分を表現していても、相手の環境ではどう出力されているのか?その結果どのように記憶に残っているのか?というコントロールのできないレイヤーの外見について、リビングでたまたま映っていたスーツのひぐち君が考えるきっかけを与えてくれた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?