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ベトナムの歴史を知れば国民を知る事ができるPart3

国民の理解は歴史の理解から第3弾・・・今回は世界に衝撃を様々な意味で衝撃を与えたベトナム戦争です。「正義とは何か」を問われた戦争でもあります。今回の記事が皆さんの考えるきっかけになってもらえればうれしいです。

今回20年分の歴史なのでめっちゃ長いです。時間がない方は18.19だけでも見てもらえるとありがたいです。

ベトナム戦争は1955年11月~1975年4月30日まで続きました。
ではまずおさらいから

≪1.前回のおさらい≫

1945年8月「8月革命」ベトミンの総蜂起により旧ベトナム帝国を倒すという革命が起こる。
1945年9月2日ベトナム民主共和国の制定とホーチミン首席の誕生。
共産主義だから認めなーい!という資本主義国(特にアメリカ)の影響もありフランス軍が再度ベトナムを占領開始しインドシナ戦争勃発。
1954年ディエンビエンフーの戦いに敗れたフランス軍はジュネーブ協定によりベトナムから全面撤退を余儀なくされた。

≪2.誰と誰の戦い?≫ 

ベトナム戦争と聞いて誰と誰の戦いとイメージしますか?多くの人がアメリカとベトナムの戦いと位置付けていると思います。
間違いではありませんが、ざっくりやる前に少し整理しておきましょう。
表向きは ベトナム共和国 VS ベトナム民主共和国 です。(下の写真をみればどちらがどちらかイメージつくと思います。

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この南北の境界位置を北緯17度線(現在のクアンチ省)といいます。

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ベトナム共和国が南側、アメリカが支援した方で、ベトナム民主共和国がソ連や中国が支援したほうです。

≪3.アメリカとソ連の代理戦争?≫

冒頭の戦争の期間に1955年11月とはありますが日にちの記載がありません。この戦争は宣戦布告がないまま始まったことからいつ始まったかが所説あることから不明とされています。
この戦争は、アメリカ合衆国を盟主とする資本主義・自由主義陣営と、ソビエト社会主義共和国連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営との間に、第二次世界大戦後に生じた対立(いわゆる冷戦)を背景とした代理戦争でもありました。(wikipedia引用)

≪4.第一次インドシナ戦争後(フランス追い出したのに)まだ戦争?≫


第一次インドシナ戦争終結後も、北ベトナムが支援する南ベトナム解放民族戦線(アメリカ合衆国民はベトコンと呼称)が南ベトナムで武力を用いた反政府活動を続けていました。
これにアメリカが支援したわけですね。

これを象徴する言葉にアイゼンハワー(アメリカ大統領)の「ドミノ倒し」という言葉があります。
ベトナムが倒れれば(共産主義になれば)タイやラオスも共産主義になる事を食い止めたい!ということからベトナムはアメリカの世界戦略に重要な拠点だったんですね。


≪5.意外に知らない南ベトナムー悲惨≫

当然のことながら南北統一を果たしたホーチミンさんのことは知っていても敵であった南ベトナム(ベトナム共和国)の事は意外と知られていないですよね。

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最初の大統領が ゴ・ディン・ジェム氏です。彼の話をちょこっと
ジェム大統領と呼ばれていた ゴ・ディン・ジェム氏ですが、彼が大統領になれたのは彼がカトリック教徒、アメリカ在住歴があった事、資本主義、自由主義であったことからアメリカおよびCIAの後ろ盾があったからだといわれています。
南北統一選挙が行われる予定もこのジェム大統領の拒否により南北関係が悪化します。
当時のアイゼンハワー大統領(アメリカ)はフランスにかわりこのジェム大統領を全面支援し武器などを送るもこのジェム大統領とその一族、なんとなんと圧政や独裁などにより国内の反発を買ってしまうんですね。
大量虐殺や焼き討ち、しまいには人間の生きた肝臓は精力がつくとし、食べたりもしました。また、彼がキリスト教徒であったことから仏教徒や僧侶の弾圧を行います。元々、仏教徒の多いベトナムにおいて僧侶達が抗議のために焼身自殺をしたりもしましたが、彼の親族は「あんなのは単なる人間のBBQだ」とテレビで言った事も問題となりました。

その後のジェム大統領はクーデターによって死亡しますが、アメリカがクーデター起こさせたという説とアメリカ政府の発表により関与していないという説とあります。

≪6.南ベトナムのジェム政権以降≫

アメリカのクーデター関与の真相はわかりませんが次に出てきたミン大統領をアメリカは支援、しかし、彼も失脚。どうもこの時の南部の大統領はいけてなかったのかアメリカがいけてなかったのか・・・。


≪7.南ベトナム民族解放戦線≫

ジェム政権、それを応援するアメリカに対し反発を強める組織ができます。それが「南ベトナム解放戦線」(アメリカ呼称:ベトコン)・・・ベトミンとベトコンは大きく異なり、ベトコンはアメリカが呼称したベトナム共産主義野郎(日本軍の事を差別的にジャップと呼んでいたのと同じ意味合いなので気を付けましょう!)

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≪8.ベトナム共和国VS南ベトナム民族解放戦線≫

ベトナム共和国軍にはアメリカ政府が最新鋭の武器を送ります。しかし、独裁者の元で仕事をしている兵士たちの士気は上がらず近代的な武器を持たないゲリラ部隊の南ベトナム民族解放戦線に次々にやられちゃいます。この時の地下トンネル等を皆さんの中にはクチ遺跡などで見たことあるのではないでしょうか。

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≪9.ベトナム民族解放戦線VSアメリカ≫

アメリカがベトナム戦争に大きく介入したのはケネディ政権からですが、ケネディ大統領が暗殺され、当時副大統領のジョンソンが大統領に就任するとアメリカ軍の派遣が増大します。
最終的には50万人以上ものアメリカ兵が南ベトナムに駐留します。

もともと、アメリカは南ベトナム政権を軍事指導する目的(名目)で「軍事顧問団」としていました。これがアメリカの徴兵制度と重なり次々と20歳前後のアメリカ人がベトナムに送られます。

≪10.アメリカ人がベトナムを知らない≫

アメリカの敗北原因の一つにアメリカがベトナムを知らなかった点があります。
日本の時には国民性や宗教など徹底的に調べたにもかかわらずベトナムの時にはかなり調査が甘かったようです。
そこに何も知らない20歳前後の若者が送られてくるのですから結果は見えていますよね。
最もわからなかった事の一つ。
ゲリラか農民か?民族解放戦線は普段は農民(実際に農業も行っていた)のふりをしており敵が近づくと地下道を通りゲリラ戦を繰り広げるため純粋な農民とゲリラの区別がつきませんでした。

≪11・ゲリラを恐れたアメリカ≫


アメリカ兵はゲリラを恐れるあまりヘリから村を焼き、怪し人がいれば女性、子供関係なしに殺していきました。この事態が負のスパイラルとなり解放戦線の数が増加していきます。

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≪12・トンキン湾事件ー決議≫1964年 


北ベトナムの魚雷艇からアメリカの駆逐艦を攻撃する事件が発生。領海を3海里と設定しているアメリカと12海里と設定している北ベトナムと主張の食い違いが発生。1回目の攻撃でアメリカが抗議したにも関わらず再度ベトナムはアメリカ艦隊を攻撃しました。
(後日談ではあるがベトナムからアメリカへの2回目の攻撃は艦長の勘違いであった事がかなり後になって発覚します)
これによりアメリカは決議で北ベトナムを攻撃する事が決定します。

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≪13.北爆≫

「北ベトナムを石器時代にしてやる」(Byカーチス・ルメイ アメリカ空軍 参謀)
カーチス・ルメイは東京大空襲を指揮した人物
B52 爆撃機でアメリカは連日、雨のように爆弾を降らせます。

ここでもアメリカはベトナムをわかっていなかった。

ベトナムには日本のように工業地帯、ドイツのように巨大な軍事施設があるわけではなかった。
逆にベトナム側はこれを機にこのようなものを作らない策をとります。
作ればそこを狙われちゃいまから。

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≪14.その後を少しキュッとまとめます≫

韓国軍・SEATO軍の参戦(SEATO:反共軍事同盟東南アジア条約機構(SEATO) オーストラリア・ニュージーランド・タイ・フィリピンなど)
・最近よく聞く韓国軍のベトナム人大量虐殺や大規模な強姦などはこの頃に行われした。
興味のある方は→https://www.sankei.com/west/news/170430/wst1704300004-n1.html
・1967年南ベトナムでは「チュー大統領」が誕生 サイゴン陥落までチュー政権は継続

≪15.反戦運動ーアメリカ≫

1960年代はアメリカ国内も激動を迎えます。
・黒人による人種差別撤廃運動激化
・60年代後半にはフィルム技術の向上によりベトナム戦火の様子が連日放送
・ニューヨーク、ワシントンDCを中心に(帰還した兵も加わり)反戦デモが激化
・アメリカではこの頃にヒッピー文化がムーブメントとなります。

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アメリカでは大した戦果もなく、経済も低迷、ニュースではベトナムを爆撃している様子などが放映され、「この戦いは誰の何のための戦いなんだ?」と疑問視する声と共に反戦運動が広がります。第2次世界大戦以降でメディアが帯同した初めての戦争でもあったため後にこのベトナム戦争の事を「メディアが終わらせた戦争」ともいわれています。

下の写真はあまりにも有名な写真、私も教科書で使われていたのを思い出します。
この写真は日本人ジャーナリスト沢田教一氏が1966年にピューリッツァー賞をとった作品
「安全への逃避」です。この一枚が多くの人にベトナム戦争とは何かを問うきっかけになりました。

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・アメリカ国内世論の動きなどもありジョンソン大統領は北爆の一部停止をおこなったりまします。
・1969年ベトナムからのアメリカ軍の「名誉ある撤退」と、反戦運動が過激化し違法性を強めていたことに対し「法と秩序の回復」を強く訴えた共和党選出のリチャード・ニクソン大統領が誕生します。
1969年9月 79歳の生涯で「ホーチミン氏」死去
・・・ホーチミン氏は南北統一に尽力してきましたが統一を見ることなく死去しました。

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この間はキーワードだけ
・ベトナムのカンボジア侵攻https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%82%B8%E3%82%A2%E4%BD%9C%E6%88%A6 
・アメリカ軍のラオス侵攻
・・・ラオス南東にある「ホーチミン・ルート」の遮断とその兵站基地を破壊を目的

≪16.米中接近と北爆再開≫

1971年 中ソ関係の悪化により外交主導権を取り戻したい中国と「名誉ある撤退」を実現したいニクソン政権の思惑が交錯し急速に接近。
ニクソン政権は北ベトナムを和平交渉に引きずり出し交渉を優位に進めていきたい事から北爆を再開する。
ハイフォン港、ハノイなど焼野原になります。今回の北爆によりもともと規模の小さかった北ベトナムの空軍及び海軍は壊滅します。

≪17.パリ和平交渉調印≫


1973年1月 北ベトナムとアメリカとの間で和平交渉の調印が行われます。
(合意内容)
・「アメリカ軍正規軍の全面撤退と外部援助の禁止」
・「北ベトナム軍に捕えられていたアメリカ軍捕虜の解放」
・「北緯17度線は南北間の国境ではなく統一総選挙までの停戦ラインであること」

1973年1月29日にニクソン大統領は米国民に「ベトナム戦争の終結」を宣言しました。

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アメリカ軍が撤退した後は北ベトナムVS南ベトナムの戦いがメインになります。

1975年3月、北ベトナムは南北を統一するために南ベトナムに対し前面戦争に出ます。

1975年4月30日、南ベトナムのサイゴン陥落 南ベトナムは崩壊した。

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1976年4月、南北統一選挙が行われ、7月1日、南北ベトナム統一とベトナム社会主義共和国樹立(北ベトナムによる南ベトナムの吸収)が宣言されました。

≪18.まとめ≫

(17.以降にざっくりと。)ベトナム戦争は約20年間長きにわたり続いた戦争です。
1975年に終戦したので皆さんや読者の方の父母の方には記憶が鮮明にあるのではないでしょうか。つまりはベトナムにいる高齢の方々はベトナム戦争を経験している方々なのです。激動の人生を送っていた彼らに敬意を表していますか?ベトナム国民に敬意を表していますか?日本の原因もあるんですよ。日本が急速に高度経済成長した陰にベトナム戦争があるんですよ。
この記事が皆さんのベトナムについて今一度考えてもらえるきっかけとなってもらえれば嬉しいです。


≪19.いつものこれだけ覚えて ザックリ≫

・1955年~1975年続いた戦争
・元々はベトナム共和国 VS ベトナム民主共和国 の戦争
・米ソ冷戦の代理戦争 社会主義VS資本主義(自由主義)
・南ベトナムの指導者は独裁者だったりと指導力として欠けていた
・メディアが帯同した戦争であったことからアメリカや世界でベトナム戦争の「正義」を疑問視する世論が生まれる。
・ベトナムを知らないアメリカ人や韓国人等がゲリラを恐れ大量虐殺を行った
・ホーチミンさんは南北統一を見ることなく死去した
・北爆によりハノイやハイフォンは壊滅した
・1973年アメリカ撤退(パリ和平条約によって)
・1975年北ベトナムが南ベトナムの首都サイゴンを陥落し 終戦
・1976年ベトナム社会主義共和国樹立の宣言がされる


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