師と仰ぐ方々②
3次の実習の先生、田口先生は、元、大商社の従業員で、海外に赴任して、特にアジアとの取引でバリバリ仕事をされておられました。その後、当時は大騒ぎになった会社の倒産を経て、その会社の整理を背負って、部下を再就職させて、ご自身は、1社を経て、中小企業診断士として独立されました。東京協会の国際部の生みの親的な存在です。
城西支部に国際ビジネスの研究会が初めてできた時のリーダーで、当方も、輸入の仕事をしていましたので参加しました。
でも、輸入の仕事でコンサルするまでのスキルがなかったので、徐々に研究会には参加しなくなりました。
一方で、よく参加するようになったのは、三多摩支部にあった、「本を書いて有名になろう会」でした。
当時、その集まりは、小高先生という、三多摩支部の重鎮がリーダーをされておりました。
まだ、今のような「実務ポイント」という制度がない時代では、企業をコンサルするとOKというような、なんだか忘れてしまいましたが、緩い実務補習のようなものと、あと、プラス理論研修で、診断士資格の更新ができました(今より緩かったです)。
その実際に企業をコンサルするという企画で、当時、小高先生が東久留米で「酒屋」をコンサルするので手伝う人募集的な案内があったので、私がそれに応募したのがきっかけ、小高先生に出会いました。
実家が酒屋だったので、いまのように、ファッションや理美容のコンサルが成り立つ前に、酒販店のコンサルで食べようか、、と試行錯誤していたころの話です。
そういうふうに考えていたので、このころは、「酒類業研究会」という研究会にも所属しました。この会は、当時、杉本先生という重鎮がリーダーをなさっていて、活動もものすごく活発で大変勉強になりました。黒糖焼酎の普及を図るために、奄美大島までいったこともあります。朝まで飲んで、気が付いたら誰か知らない人の家で飲んでいたりして、大変なことになったのですが、懐かしい話です。
話を元に戻すと、小高先生が、東久留米の酒屋さんをコンサルされるので、そのフォローを行いました。それが大きなご縁となりました。
ものすごく、後進の面倒見が良い先生でした。それがご縁で、小高先生が行う「3次実習」のお手伝いもしました。ほぼ、カバン持ちでしたが、ちょっと、おこずかいも頂いちゃいました。
それがきっかけで、30歳代の後半から、ひとりで、城西支部から3次実習(現在の実務補習)の指導員をすることになりました。必死こでしたが、いろんな受講者さんとの出会いが生まれました。
小高先生がいなかったら、今ではたくさんの出会いがあった、実務補習の指導員をしていなかったでしょう。
実務補習の指導員をさせて頂いて、今でも関係性が続いて、一番古いのは、小高先生のアシスタントをやったときの、もと丹青社の大津さんと、私が草加市の新田の商店会を支援したときの受講生で、ユナイテッドアドバイザースの西内さんと、藤原さんがいます。試験の制度が変わる前の話なので、おそらく平成15年くらいだったか。古い話です。
こんな感じで、いろんな仕事が増えながらも、小高先生とのつながりが深くなり、「本を書いて有名になろう会」に入るようになりました。
そのご縁で、のちに、初めて共著で本を出版することができました。(接客用語の本)また、専門学校の理事もされていたので、動物病院やトリマーの専門学校で、経営学の先生もさせて頂くようになりまして、本当に、足を向けて寝られない存在の先生です。
その後、学校の先生の契約が切れたり、関係が深かった出版社さんがなくなったりして、だんだんと小高先生とのつながりは薄くなってしまうのですが、今でも、尊敬の念は変わらない先生です。
コロナ禍となった年に、人伝えでお亡くなりになったのをお聞きしました。
コロナがひどい時期でお参りに行けなかったのですが、コロナも落ち着いてきたので、何かのタイミングがあれば、お参りさせて頂くことができればと思っているところです。
白い手袋をされて、さっそうと自家用車を運転される、髭がカッコいい、すごい先生でした。
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