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日本一長い職務経歴書(おそらくね)

オレの経歴を「ドラマみたいですね。」と転職エージェントさんは言った。

41歳の誕生日を5日後に控えた2020年4月20日。
これまで勤めていた会社から解雇通告を受けた。
言わずもがなコロナウィルスの影響だ。
そこで、最大手の転職エージェントに応募することにした。
電話面談をすることとなり、これまでの経歴をありのまま正直に話した。
だいぶ長くなったと思う。
話し終わるとエージェントの方からこのように言われた。
「ドラマみたいですね。」
確かにいろんな職場でいろんな仕事をした。
いろんなことで褒められ、いろんなことで怒られた。
いろんなことで喜び、いろんなことで悲しんだ。
はてして、これがドラマのようなストーリーなのかはわからないけど、A4サイズの用紙3枚にまとめてみた職務経歴書ではあまりにも簡潔すぎるので、そんな「いろんな」を書いていきたいと思う。

コピーライター、そんな仕事もあるんだ。

2004年の春、社会人3年目になったばかりのその時、人生で転機を迎えた。
本屋さんで。
そう、まさかの本屋さんで!
時間つぶしのために入ったその本屋さんに、当時ゼクシィのCMで人気のあった加藤ローサが表紙の本を見つけた。
「宣伝会議」という本だった。
彼女の特集ページがないかとパラパラ読んでいると、広告のことがたくさん書かれていた。
そこで運命を変えてしまった文字が目に入った。
「コピーライター」
なんでも広告のキャッチコピーを書く仕事らしい。
当時、オレは埼玉県内にある自動車ディーラーで新車を売っていた。
その業務の中で、売れ筋の車のチラシを自ら制作し、ポスティングをするという方法をとっていた。
あれやこれや車の特長を書いたりするのが楽しくて、残業してつくっていた。
「あ~こんな仕事があるんだ。」
その日から、コピーライターというものが頭から離れずにいた。
なんでかわからなかったけど、どうしてもやってみたかった。
まだ25歳。
やっちゃうか!そんな勢いではなかった。
やっちゃうか?!くらいで退職願を出したと思う。
これまでにお世話になってきたお客さま1軒1軒伺って、引き継ぎもしっかり行った。
最終日には、花束やネクタイをプレゼントしてくれたお客さまもいて、なんだか辞めるのをやめようかと思ったけども、6月末で退社した。
10月からコピーライター養成講座に通うため、翌月からフリーターになった。
どうやらそうすることがコピーライターになるための近道みたいだ。
就職するために学校に行くという違和感を抱いていたけど、新しい世界に飛び込むことにワクワクしていた。

前職での経験がオレを強くしていた。

もちろん、コピーのことはわからないし、講師が言っていることもちんぷんかんぷん。
でも、そんなに危機感みたいなものはなかった。
前職のディーラーでも、入社当時は車のこともセールストークもなんもわからなかった。
それでも、先輩のセールストークを遠くから聞いたり、車のことも本を読んだり、実際に他社のディーラーに行ったりして、懸命に学んできた。
そのおかげで、徐々に売れるようになってきた経験があるからだ。
2年目の決算期(2003年2・3月)だけで、新車を25台も売ったこともある。
同期の中で最後に車を売った劣等社員のオレが、1年半も満たない間に新卒2年目ではかなり優秀な販売台数を上げることができたのだ。
最初からうまくできないことは、自分自身がよくわかっている。
ただ飲み込みがちょっと遅いだけだ。
けなされてもコツコツやれるし、平均以上のことはできるという自信を持っていた。
だから、なんとかなるだろうと気を強く持って、毎週土曜日受講していた。
そんな折、講座が終わった後、懇親会という名目で飲み会が開催されることになった。
ビールが大好きなオレは、もちろん参加した。
これまで教室では話すことはなかったけど、お酒の力を借りて近くの席の人と飲みながらたくさん話した。
オレみたいに他業種からの人もいれば、就活を控えた大学生もいる。
現役のコピーライターもいた。
みんなは、もちろんオレよりも広告やコピーにくわしい。
講座を受ける前に勉強しておけばよかったと後悔しながらも、少しでもわからないことがあれば、タイミングを探ってはあれこれ質問をした。

芳野周司、宣伝会議賞と出会う。

そんな中、こんな言葉が聞こえてきた。
「宣伝会議賞、どのくらい送った?」
賞ってついているから、コンテストのことなのかなと、なんとなく気になって、隣で飲んでいた人に聞いてみた。
おいおい、そんなことも知らないで講座に通っているのかよ。勘弁してくれよ。そんなあからさまな表情を浮かべつつも、きちんと教えてくれた。
多くの企業から課題が出て、そのキャッチコピーやCMを書くということ。
日本一大きな公募で、グランプリに選ばれたら100万円もらえること。
そして、あと1週間で締め切りとのこと。
へぇ講座の課題以外でも素人がコピーを書けることがあるんだな。どんなものだかわからないけどやってみよう。くらいの気持ちで取り組んだ宣伝会議賞。
まさかオレが人生の1/3を費やすくらいに一番がんばってきたこと、そして誇れることになるとは、この時は知る由もなかった。
コピーライターになるために、コピーライターとしてもっと実力をつけるために、12年間取り組んで書いては書いては応募していた。
職務経歴書というタイトルではあるが、これを抜きにしては語れないほど、一生懸命に取り組んだ。
そして、CMゴールドという賞をいただくことができたのは、まだまだずっと先のお話し。

初めての宣伝会議賞は、たった5本だけの応募だった。

翌日、二日酔いのまま本屋さんへと走り、課題が掲載されている「宣伝会議」を購入。
その近くのマクドナルドで1時間くらい考えた。
当時はこんな短時間で疲れてしまうくらいだった。
圧倒的に、絶望的に、書けない。
書けないのではない、わからなかった。
なにをどのように書けばいいのかすらわかっていなかった。
結局、1週間やってみたけれども、5本しか応募できなかった。
たったの5本。
もちろん納得できたものではなく、なんとなくコピーらしいものが書けたからという理由のみだった。
それでも悔しさとか絶望じみたものは一切なかった。
初めてだし、こんなものだろう。くらいにしか思っていなかった。
キャッチコピーを学びはじめて、まだ1ヶ月。
オレは頭が良いわけでもないし、飲み込みが早いわけでもない。
2005年2月、一次審査通過者の名前が発表された。
自信がないとは言えど、もしかしたら?という気持ちがひょいひょいと出てきたので、立ち読みはやめて宣伝会議賞を購入した。
落ち着くために、たばこを1本吸ってからページをめくった。
確認はあっという間だった。
うれしい結果があるのではと、一瞬でも思ったオレを叩きのめしたいくらいにあっけなかった。
そこでやっと悔しさが込み上げてきた。
よしっ、来年もやってやろう!一次審査が通るようなコピーを書いてやろう!
なんとも目標の低いものだったけど、これがオレの宣伝会議賞のスタートだった。

金の鉛筆がほしいよぉ!

講座も後半に入った2005年1月。
成績上位10名に贈られる「金の鉛筆」をもらうことはまだできないままでいた。
当たり前といえば、当たり前である。
毎回同じ人たちがもらっていた。
いわゆる常連さんである。
やはり、コピーを書くことを仕事にしている人や、広告の仕事に関わっている人は強い気がした。
この強いは、書くことだけではなく、受講している想いとかこれで飯を食っていく覚悟のことだ。
そんな人たちと毎週戦っていても勝てるはずなんてない。
しかも、自分自身で褒められるようなコピーを書けていなかった。
ただ提出数ギリギリだけ書いて満足していただけだった。
そんな中、コピーではなく「人型ロボットのネーミング」という課題がやってきた。
そのロボットの機能とネーミングを考えるというものだ。
子どもの頃から、友だちにあだ名をつけるのが好きだったので、これならなんとかなるんじゃないか?!といつもより手ごたえを感じて、その勢いのまま提出した。
ビールを注いでくれるロボットで「ツギマショカ」というネーミング。
それでも、名前が呼ばれるのは半信半疑だった。
そして、待ちわびていたものがやってきた。
「7位は芳野周司さんの~」と言われた時、テーブルの下で右手を握りガッツポーズをした。
そして、金の鉛筆をもらうために進む足は震えていた。
コピーではないけど、初めて評価された瞬間だった。
1度評価されたら、2度3度といきたいのが人間の欲というもの。
講座で学んだことを復習し、街中にあるポスターや新聞広告などを見ながら勉強する時間を増やしていった。

小さな覚悟は、大きな結果をもたらした。

相変わらずコピーでは、金の鉛筆をもらえないままでいた。
とうとう最後の課題となった。
それは、バイト情報誌「TOWN WORK」のキャッチコピー。
広告会社で勤めている人がいる。現役のコピーライターだっている。
コピーのことだって、オレはまだまだ知識不足。
こんな言い訳なんていくらでも羅列できるけれども、これで金の鉛筆がもらえなかったら、コピーライターになるのはやめよう。という決意のもと、半年間で学んできたことを課題用紙に思いっきりぶつけた。
最後の講義ということもあり、提出されたすべてのコピーが教室の壁に張り出され、オレたち受講者が良いコピーに付箋を貼るという形で、まずは行われた。
仕事を辞めてまで進んだ道だし、受講料で20万円近く払ったことだし、コピーライターになるのをあっさりやめたくないオレは、あまりにも必死で愚かな行動に出た。
自信のあった自分のコピーに真っ先に貼ったのだった。
そんなことを神様は許さなかったのだろうか、オレ以外1票も入ることなく投票が終わった。
残りの9本のコピーも、ベストテンに入ることはなかった。
情けなかった。みっともなかった。哀れだった。
そんなとことんへこんでいるオレをよそに、講師の方の審査がはじまった。
もう何を話しているのかもわからないくらいに落ち込んでいたオレにひと筋の光が耳に届いた。
「なんでこのコピーがゼロなのかなぁ。これ、おもしろいんだけどなぁ。」
思わず顔を上げた。
「カツアゲするなら、カツ揚げろ。」
これを指差して、おっしゃっている。
目と耳を疑ったが、どうやら嘘ではないようだ。
まったくのノーマークで、しかもダジャレだったので、驚きがマシマシだ。
どん底から、まさかの安堵の気持ち。
喜びというか安堵だった。
たった数秒の間で、こんなに心が上下左右に揺さぶられたのは初めてだったのかもしれない。
それほど真剣だったんだと思う。
金の鉛筆がほしいと強く思っていたが、1位をもらえるとはまったく考えていなかった。
助かった。本当に助かった。
今度は、テーブルの上でガッツポーズをしてしまい、近くにいた人に笑われてしまった。
こんなことで笑われるなら、何度でも笑われたい。
金の鉛筆をもらうのと同時に、頭を深々と下げたのは今でもはっきりと覚えている。
もしもらうことができていなかったら、コピーライターになることも宣伝会議賞に取り組むこともなかったのだから。
最敬礼をするべきだったのかもしれない。

「埼玉県 芳野周司」が6つ!

そして、2005年9月。
2回目となる宣伝会議賞がはじまった。
まだコピーライターになっていない。
フリーターを続けており、時間は十分にあったが実力がない。
当時はSNSもなかったので、みんながどのように取り組んでいるのかもわからなかった。
とにかく考え続けた。書き続けた。
前年は5本だったのに、400本くらいも送ることができた。
あの頃は応募用紙にコピーや名前、住所などを記入して、出力して郵便で送るという、なんともアナログでめんどくさい作業があった。
満足感よりも徒労感の方があったけど、一次審査に通過することはおまけみたいなもので、前年比で80倍もの数を応募したことで、成長していると実感できた喜びは、既に締切日にあった。
年が明けて2006年2月1日。
一次審査通過の発表日となった。
去年とは緊張度合いが全く違った。
1本くらいは通過しているだろうという想いと、昨年と同じ結果だったらどうしようという想いが交錯していた。
ページをめくる前、やっぱりたばこを1本吸った。
手が震えていた。
その手が、該当ページへと届けた。
「埼玉県 芳野周司」が、なんと6つもあったのだ。
5つはコピーで、1つはCMが一次審査通過。
通過率がたった1%ちょいくらいの中に6つもあり、何度も目にしたことがある自分の名前に高揚した。
その中で、浜名湖競艇の課題で「浜名湖で、血眼。」というコピーが通過していた。
カツアゲするなら、カツ揚げろ。と同様、ダジャレコピーだったけど、一番納得できたものが通過してうれしかったのを覚えている。
覚えていないけど、おそらくガッツポーズをしたと思う。
なるべく感慨にふけたかったので、自転車を押しながら缶ビールを片手に遠回りして自宅まで帰った。
いろんな人に名前が載ったことを伝えたかったけど、先述の通りSNSがなかったので、両親とバイト先の同僚に伝えたのみだった。
通過率が1%ちょっとだということ、現役のコピーライターも応募していることなどを伝えた。
少しでもすごいと思われたかった欲があったから。
なんともせこい人間である。
それがオレにちっぽけではあるけれども、自信を与えてくれた。

でも、しょせんはちっぽけな自信。

そんな自信はすぐになくなってしまった。
転職活動で落とされ続ける日々。
コピーライター養成講座で書いたもの、そして宣伝会議賞で一次審査を通過したものを送ったところで相手にされやしない。
書類審査で落とされるのが大半だったので、面接に進めたことが奇跡みたいなものだった。
そんな中で取り組んだ3回目。
応募本数も通過数も、昨年の半分くらいになっていた。
なんともふがいない結果だった。

ひとりだけのグランプリ。

でも、ひとつ嬉しいことがあった。
カラオケの課題のコピーで「彼女とはなんでも歌える関係です。」というコピーが一次審査を通過し、SKATに掲載された。
それを大学時代の後輩に見せたところ「これがグランプリですよ!」と言ってくれたのだ。
明るく社交的な彼だが、音痴なためカラオケは嫌い。
でも、歌うのは好きらしく、これがまさしく自分のことを表現しているというのだ。
講座に通っていた時、講師の方が「キャッチコピーは弱い人のためにある。」と言っていたが、まさかここで実現するとは。
その後も会うたびにこのコピーを覚えてくれているし、これ以上のコピーがないと褒めちぎってくれる。
最近は彼と会っていないが、今でも覚えてくれているといいなと思う。
できれば、まだ1番であってほしい。

遅すぎた転職活動、スタート。

実は、講座を終えた2005年4月から翌年10月まであまり思い出せなかった。
宣伝会議賞と失恋以外のことは。
あとは、月曜から金曜までバイトして、その稼いだお金はほぼビールに使っていたくらいだ。
コピーライターになろうとはしなかった。
あまりに無駄な時間を過ごしていた。
友だちや同世代は結婚したり、仕事で活躍してる人がいたというのに。
でも、なんの焦りもなかった。
ただのアホだったんだと思う。
2006年の夏前、久しぶりに恋をした。
くだらないことを話しても、ゲラゲラ笑ってくれるような子だった。
その笑顔が見たくて、お金もないくせに、ほぼ毎日会っていた。
夏の終わりと同時に、彼女は知らないお金持ちの男の方へ去っていった。
ふたりで始発を待っていた明け方の池袋で「このままどこか遠くに行きたいね。」と言ってくれたのに。
その失恋と同時期に、理事長から正社員にならないか?とお誘いをもらった。
2年目からおよそ1年半くらいバイトリーダーを務めており、バイトと社員の架け橋となり、業務を円滑に進めていくように心がけていた。
通常業務の他にも、クライアントや大学教授のもとへ打ち合わせなどにも参加させてもらえるようにまでになっていた。
とてもうれしいお話しだったけど、やっぱりコピーライターになってみたい。
いや、なりたい!と思い、丁重にお断りした。
フリーター卒業、そしてコピーライターになるため、やっと重い腰を上げた。
転職活動のことでひとつだけ思い出がある。
以前、コピー裁判所というサイトがあった。
課題が出され、コピーを提出し、みんなで投票するというもの。
ゼネコンについてのコピーが課題となった。
「戦後60年。焼け野原だった日本をここまでにしたという実績。」というコピーを書き、確か3位になったと思う。
もちろん、数少ない作品集に加えた。
その後、このコピーを有名な制作会社の役員さんにえらく気に入ってもらえた。
未経験者が面接に進めたのは、オレだけだったらしい。
でも、試験課題では気に入ってもらえるコピーは書けず、大金星をあげることはできなかった。
悔しさはもちろんあったが、なんとかなるかもしれないという希望を与えてくれたのを覚えている。
とにかく転職サイトや求人広告などでコピーライター募集を見つけては、片っ端から履歴書などを送った。
やっと2月末に、未経験の人を育てたいという採用基準の変わった人に拾ってもらった。
なんでも履歴書の顔写真と野球と書いた趣味特技欄を見て、こいつは根性ありそうだと感じ取って、採用してくれたそうだ。

コピーライターじゃないんかい!

コピーライターの肩書になるはずだった。
しかし、もらった名刺にはエディターと書かれていた。
「コピーライター募集の方が応募多くなると思ってさ。まぁ書ける仕事もあるだろうし、やってみてよ。」と、そんな軽い感じで言われた。
愕然とした気持ちは正直あったし、裏切られた気分でもあった。
それでも、きっとこれから先に役立つこともあるだろうという気持ちで受け入れた。
文章を書かせてもらえる仕事はそこそこだったけど、企画書作成とか校正とか制作に必要なことができたので、その判断は正しかったと思う。

初めての実制作(?)コピー。

1年目のある日、上司から「おい、芳野。仕事だ。」と、暇を持て余していたオレが呼ばれた。
なんでも社内のごみ捨てのルールが守られていなくて、清掃員の方から苦情が入ったとのこと。
そのため、注意喚起のための張り紙をつくりたいとのこと。
そこで、A4用紙1枚で広告をつくりなさい。という指示だった。
なんだよ、そんなことかよ!と普通の人なら、そう思ったのかもしれない。
でもオレは、あまり仕事がなかった状態だったので、よしっ仕事だ!と意気揚々とそれに取り組んだ。
覚えたてのパワポを使って、ごみの区分けや捨て方を表にまとめた。
どうせならコピーも入れてみたいよな。と、頭をよぎった。
そこで20本近くワードに書いた。
その日のうちに提出して、確認してもらった。
「やっぱりコピーを書いてきたか。」上司はちょっと笑った。
内容はOKだけど、コピーの書き直しを命じられた。
そこで一晩考えて書いたのが「別れる時も、やさしくね。」
翌日それを見た上司は、ふーんという感じで「んじゃこれをごみ箱の上に貼っておいて。」とそっけなく促した。
そんな反応だったから、あれいいの?それとももう見限られた?と複雑な心境のまま、壁にセロテープで丁寧に貼った。
その数日後、親しくしてくれていた先輩から「これ芳野が書いたんだろ?いいじゃん。なんか上司も喜んでいたみたいだぜ。」と教えてくれた。
間接だったけど、とてもうれしかった。
どうやら最初に提出したコピーは説教じみたものばかりで、読み手の気持ちを考えていなかったかららしい。
正しいことだからこそ、説教くさくならずにユーモアを含んだものがいいということを学んだ。
その後、わずかだけど文章とかコピーとか書く仕事をもらえるようになった。
社内の小さな制作物だったけど、真剣にやったことが実を結んだと思っている。

あの時のビールをまた飲みたい。

でも、その年の宣伝会議賞は、いつも通りだった。
あちこち図書館に行っては、コピー年鑑やコピーの書き方の本を借りては、読んで、休日には会社に忍び込んでコピーをとって。
それなのに、いつも通りだった。
2年目になっても、あまり仕事はもらえず、架空のコピーや企画案などをつくるという自主練に励んでいた。
そんなある日、仕事をしたことがない上司から「芳野くんって、ディーラーにいたんだよね?これやってみる?大変だと思うけど。」と声をかけられた。
「お願いします!」と力強く言った。
大変だろうと関係ない。
ただ仕事がしたかった。
某自動車メーカーからの依頼で、販売マニュアルを制作することになった。
4ヶ月ちょっとの間、毎週2~3回くらい名古屋出張するし、徹夜や休日出勤なんて当たり前という過酷なスケジュール。
打ち合わせ中、突然いすから転んだこともあった。
それでも歯を食いしばってがんばった。
そんな中、たくさんの人から励ましや心配の声をもらえるようになった。
校了した時「よくやった!やっぱり逃げなかったなぁ。一気に経験値が上がっただろ?」と、ようやく上司からねぎらいの言葉をもらった。
「こんなすごいの、こんなオレによく任せましたね。」と、笑った。
帰り道に立ち寄ったお店で飲んだビールの味は未だに忘れていないし、きっと忘れないだろうと思う。

反省と絶望と歓喜と3万円。

2008年の宣伝会議賞。
そんな状況だから、ちゃんと取り組むことができなかった。
今なら、つまらない言い訳だと断言できる。
なんで、移動中の新幹線の中で書かなかったのか。
なんで、デザイン待ちの時に書かなかったのか。
今思えば、まだまだ真剣ではなかったんだ。
そして、応募数も100もなかったし、そんなことだから初めて応募した時以来の一次通過数ゼロ。
もうあの厚みのあるSKATをビリッビリに破り捨てたい気分だった。
でも、この販売マニュアルが親会社の社内コンテストで表彰された。
3万円分の商品券をもらったので、協賛企業賞をもらったってことにしようと無理やり納得させた。
公募で表彰されるより、仕事で表彰される方がよっぽど嬉しいし、評価もされるはずなんだけど。

オレって、いやな人間だよね。

この年のグランプリは、セコムの「家は路上に放置されている。」というコピー。
オレの中では、宣伝会議賞のベストコピーだと思っている。
翌年からこんなコピーを書いてみたいなぁと思いながら、取り組んでいた。
というか、表にはあまり出していないと思うが、オレはけっこう他人のことを僻んだり妬んだりしてしまう。
もう5回も宣伝会議賞に応募していると、「常連さん」という存在を嫌でも知ってしまう。
なんでこんなにいいコピーが書けるんだ?
どんなことを考えて、このコピーが書けたんだ?
など、いろんな疑問と感心を抱かせるととともに、
おめぇばかりが通過してんじゃねぇよ!
おめぇの名前なんて見飽きたんだよ!
など、頭の中で罵詈雑言のオンパレード。
会ったこともない、ただうまいコピーを書いた人に悪態をついていた。
でも、これはオレにとってガソリンとなっていた。
常連さんたちには、本当に感謝しかない。
でもとことん恨んでしまい、申し訳ありませんでした。

(今度こそ)初めての実制作コピー!

あれから、仕事量が増えた。
けっこう忙しくなったけど、それまでの架空の制作物をつくることなんかより、よっぽどマシだ。
やれることはなんでも足を踏み入れた。
わからないことは素直に聞いて教えてもらった。
どんどんエディターとして、仕事ができていく自分がいた。
念願のコピーを書ける仕事がやってきた。
待ちに待っていたものが、ようやくやってきた。
トラックの雑誌広告で、CDから「なんかハードボイルドなもの書いてよ。」とのリクエスト。
それに応えて書いた。書きまくった。
「愛され続ける性能。」というコピー。
気に入ってもらえたのか、熱意がこもっていたのか、一発採用だった。
まもなくして、その広告が掲載された雑誌が販売した。
出社途中のコンビニで購入。
これまで講座とか宣伝会議賞では評価されたものとは、まったく比べ物にならないほどの高揚感があった。
満員の通勤電車の中で「このキャッチコピー書いたのオレなんですよ〜!」と大声で叫びたいほどだった。

成長と挫折の三十路前後

前年の反省を活かした2009年は、少しでも時間があれば取り組んだ。
その結果、過去最高の一次審査9本通過した。
しかし、受賞はおろかファイナリストにもなれない。
どうせならあと1本通過して、2桁に乗せたかったけど、それでもすごい喜んだことを覚えている。
まだまだ未熟だったんだな。
そして、30歳となった2010年。
ついにというか、やっと1本だけ二次審査を通過した。
えっこれなの?というコピーだったので、全然実感はなかったけど、7回目にしてひとつ山を越えた気分だった。
高校時代、山岳部だったオレは、ひとつの山を登る大変さを知っている。
次の山頂に到達するには、また下って登っていく。
この下りは、まさかの急坂だった。

絶望と希望は紙一重。

2011年4月、31歳を目前に迫っていたオレはコピーライターになることに決めた。
いつの日からか仕事は、CDの上司ではなく直接オレに営業さんから声をかけていただけるようになった。
営業さんともうまくコミュニケーションを取っていたし、多少の無理なことでも不満を言わず、わかりました!と引き受けたからだと思う。
でも、これが上の人たちにはおもしろくなかったらしい。
どうも居心地が悪くなってきたと感じたのもある。
退職願もあっさり受け取ってもらえたから、そうだったのだろう。
これがラストチャンスだろうなという覚悟の中での転職活動だった。
しかし、うまくいかない、まったくうまくいかない。
仕事や宣伝会議賞などで書いたものをポートフォリオにまとめるも、落とされる日々。
やっぱりコピーライターに縁がなかったんだなと諦めかけていたある日のこと。
一通のメールが届いた。
件名を読んでみると「C-1グランプリ受賞おめでとうございます!」との文字。
雑誌「ブレーン」で毎月募集しているキャッチコピーの公募だ。
こんな日々が続いていてへこんでいたし、まさかのことで「!」が全身にまとわりついた。
お金をつかいたくなるコピー課題で「恋をしよう。結婚しよう。子どもをつくろう。」というコピーだった。
受賞コメントを送るのと一緒に、応募数はどれほどあったのか聞いたら、1000通以上あったとのこと。
ひとり3本まで応募できるから、つまり3000本以上の中からトップになったということだ。
宣伝会議の講座で1位になった「カツアゲするなら、カツ揚げろ。」とは規模が違う。
かすかに残っていた想いが、再び燃え上がった。
やっぱりオレ、コピーライターになるしかないじゃん!
この1本を自信にした。
根拠のある自信を持つということは、強かった。
これまでうまくいっていなかった転職活動がスムーズに進んでいった。
書類選考で落とされることが多かったのに、ほとんど面接に進むことができた。

進みたい道には、また罠が仕掛けられていた。

しかし残念ながら、コピーライターになることはできなかった。
車に関わる制作物に携われるということで、とある小さな広告代理店に制作職として入社した。
新車ディーラーの販売職をやっていた経歴が、採用担当者の目に留まり、採用してもらった。
そのうちコピーライターに肩書きを変えてしまえばいいんだ。
そんな野望を秘めて、お世話になることにした。
でも、入社してまもなく、また予期せぬ残念なことが。
上司と社長の意見が食い違っていた。
上司は制作職を、社長は営業職を希望していたのだ。
無論、営業職として働くことになった。
前職のエディターに続き、またまた予期せぬ罠。
だめだ、オレ、コピーライターになれないんだ。
どんなにコピーを勉強して、実績をつくったとしても、コピーライターになれないんだ。
考えれば考えるほど、落ち込んでいくし、もちろん営業の仕事なんてやる気がない。
それだったら、ディーラーであれば歩合給があるから、そっちに転職したいくらいだった。
でもやっぱり諦められなかった。
2012年のお正月、辞めることを決意し、初詣ではなんと1万札で5円玉を包んで賽銭箱に勢いよく投げ込んだ。
「今度こそ、コピーライターになれますように。」
念には念をで、5回くらい願ったと思う。
仕事始め、さっそく社長のもとに向かい、退職願を出した。
いろいろ文句は言われたけど、申し訳ないが馬の耳に念仏だった。

憑りつかれたかのように、がむしゃらにマシンガンを打ち続けてきた。

ラストチャンスの延長戦に入った。
もう転職サイトとか正攻法で活動してもうまくいかない。
そう悟ったオレは、荒業に出た。
「東京 広告会社」と検索をかけて、コピーライターを募集していないか、とにかくメールを送りまくった。
おそらく300社以上に送信した。
予想はしていたが、あまりにも反応が薄い。
募集していません。という返信メールをいただけるだけでも、ありがたや、と感じてしまうくらいだった。
それでもやり続けていけばイイこともあるものだ。
3社から面接を受けてみないかというお声がかかった。
残念ながら、結果はダメだった。
編集者時代の制作物を見ていただくもウチでは求めていないとか、デザインもできる人が欲しいんだよなとか。
実は、1社からは内定をいただいたのだが、試用期間の3ヵ月は「無休で無給」という条件。
脅しだったのかもしれないけど、貯金が少なかったので辞退した。
それでも「数撃っていけばなんとかなるんだ。」
もう自分自身を洗脳させるくらいに唱えてきた。

2012年4月2日月曜日、オレはコピーライターになった。

3月のある日、メールをチェックしていると、先日面接した会社からメールが届いていた。
「内定のご連絡」との件名。
いやいや、もう1回面接あるって言ってたじゃん。
よく状況が飲み込めないまま内容を確認すると、やっぱり内定のお知らせだった。
信じられなかった。
気が付いたら、そのまま外に出て、近所を歩き回っていたくらいだった。
とうとうコピーライターになった。
コピーライターを知ってから、8年もかかってしまった。
絶対に手離さない!
心にそう決めて、会社に向かった。
さっそくコピーを書かせてもらえる仕事をもらった。
エディター時代とはやはり違う。
求められるレベルが高かった。
出せども出せども先輩から厳しくチェックをもらった。
これがコピーライターの仕事か。
苦しみもあったが、楽しみの方が圧倒的に勝っていた。
この仕事でお金をいただけるという幸せが、そこにあった。

コピーライターになって、初めての宣伝会議賞。

キャッチコピーを書く仕事はあまりなく、文章を書くことが多かった。
オレは、文章を書くのがとても苦手だった。(いや、今もか。)
とにかく実務で実績を積んでいかないといけないと感じていたので、とにかく文章上達法などの本を読み、毎日のように400文字を目安としてブログを書いた。
明らかな効果があった。
読み返してみると、成長が目に見えてわかるのだ。
これがキャッチコピーを書くことにも良かった。
これまで書き方とかワンパターンだったが、言葉の使い方やリズムに変化をつくれるようになったと思う。
そのおかげで宣伝会議賞も応募数が例年より少なかったのにも関わらず、過去最多タイの9本が一次審査を通過した。
コピーライターになった初めての年だったから、いろんなプレッシャーを自分にかけていったのも良かったのかもしれない。
でも2年連続二次審査通過していたのに、それがストップしたのはとても悔しかった。

またしてもネーミングがオレにプレゼントをくれた。

2013年の夏前に先輩から「忙しいから、これ代わりにやってほしい。」と言われた。
東京駅のおみやげショップのネーミングの競合コンペの仕事だった。
「明後日までだからよろしく!」とのこと。
2日しかないんかい!というツッコミは心の中だけで収めて、せっかくもらった大きな仕事をなんとしても物にしたかった。
とにかく締め切りまで書き続けていこうと決めて、いろんな案を考えていた。
気が付けば2日間徹夜でネーミング案と企画意図をまとめていた。
どんな経緯だったのかはちゃんと聞いていなかったが、見事に採用された。
「TOKYO Me+(トウキョウミタス)」が数多くの提案の中から勝ち上がったのだった。
デザイナーもうまくデザインしてくれて、とても満足できる仕事ができた。
その年の11月に無事オープンし、当日会社帰りに訪れ、パシャパシャ写真を撮りまくっていた。
講座で初めて成績上位者になった時も、ネーミングだったし、どうやら縁があるみたいだ。

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10回目の宣伝会議賞、1111本の応募、11本の一次審査通過。

その勢いもあり、宣伝会議賞では一次審査が11本とやっと2桁に達した。
受賞レベルではないけど、徐々に成長していることがわかった。
通過数も過去最高だったが、応募数も1111本できたことに満足した。
また、この年の宣伝会議賞では、前年から宣伝会議賞事務局が行っていた「宣伝会議賞チャレンジブログ」というものに参加させてもらった。
応募するのが10回目ということもあり、お祭り気分を含みながら本気でやってみたいと思ったから。
提出した志望理由がとてもアツかったらしく、なんでも1番最初に選ばれたということを終了後の打ち上げで担当の方から聞いた。
何事にも熱量が高く持った方が、うまくいくもんだ。
その参加者の中から、2人が協賛企業賞を獲り、CMゴールドに選ばれた人もいた。
この結果発表を知り、まだ一次審査の数で一喜一憂しているオレに腹が立ってきた。
いつまでやっているんだよ!そろそろ受賞して卒業しろよ!という怒りがフツフツと沸いてきた。
この頃から、会社では書く仕事が少なくなってきて、編集するような仕事ばかりになってきた。
宣伝会議賞で大きな賞を獲って、それを勲章に転職活動しようと決めていた。

キャリアハイを遥かに越していったのに、悔しさしかなかった。

2014年の宣伝会議賞は、2ヶ月間仕事帰りに喫茶店に立ち寄って、閉店になるまで書き続けた。
休みの日だって誰とも遊ぶことなく、ずっと書き続けた。
その結果、量も質もこれまでとは大違い。
昨年から200本以上多い1354本の応募数、そしてこれならファイナリストに選ばれるんじゃないかと強く思えたコピーも何本もあった。
その自信は、形として表れた。
一次審査は19本、二次審査は5本通過。
これまで11本が最高だったのに、倍以上の24本が通過した。
ひとつの課題で8本通ったものもあった。
でも、受賞にはまだまだ程遠いものだった。
昨年までとは比べものにならないほどの好成績だったが、ほとんど喜べなかった。
人前とかでは喜んでいるフリしたいたけど、本心は悔しさのみだった。
あれだけ時間をかけて打ち込んできたのにだ。
10年前いや昨年であったとしてもきっとアホみたいに喜んでいたと思う。
でも悔しさしかなかった。
これまで以上に良くても、とても高い目標の全然届かなかったことを悔しがられたこと。
今思えば、これが成長だったのではないだろうか。
何かが足りないと感じたオレは、宣伝会議賞をやっている人と話してみたいと思った。
なんでもいいからヒントとかアドバイスが欲しかった。
ブログで呼びかけたところ、飲み会に4人も参加してくれた。
その中には、その年に協賛企業賞とシルバーを受賞した人がいた。
宣伝会議賞事務局から連絡の来るタイミングや贈賞式の様子など、これまでイメージすらできなかったことも教えてもらった。
コピーの書き方より、よっぽど欲しかったものを手に入れることができた。
野球好きな人が多かったので、その会話がほとんどだったこともよかった。
これが限界なのかなぁと凹んでいたオレだったけど、ますます気力が増してきた。
とてもありがたかった。
次回こそは、オレも贈賞式に絶対呼ばれるコピーを書く!
なんとも単純な人間だ。

(当時の宣伝会議賞をテーマに書いたブログです。)

これまでの職歴をすべてぶつけて、毎月戦っていた。

「芳野って、○○鉄道使ったことある?」と、社長から話かけられてきた。
使っていたもなにも、実家はその沿線にあったから、通学や通勤などで25年以上利用してきた。
そのことを告げると「そしたら、そこの情報誌をやることになりそうだから、芳野に任せるわ。」ときた。
うおぉ、思う存分に書ける仕事じゃん!やったじゃん!
突然やってきた大チャンス。
これまで、情報誌は表紙に興味のある見出しがあるものしか読んでこなかったので、図書館や駅、さまざまな施設に置いてあるものを片っ端から集めては読んでいった。
なんとかなりそうな気になってきた。
しかし、代理店の担当者に仕事の進め方を教えてもらうと、不安が一気に増してきた。
毎月の特集企画案の作成から、そのプレゼン。通れば、沿線にある店舗や企業などに掲載と取材・撮影やクーポンの依頼。そこから原稿作成、校正、デザインチェックなど作業をしていくとのこと。
これをオレひとりで毎月やるの?ってかできるの?だった。
それでも、販売職の経験を活かして交渉や取材をして、エディターの経験を活かして企画やレイアウトをまとめていった。
もちろん、CDの社長、デザイナー、そして代理店の方にも協力してもらいながらだけど。
この情報誌の制作は、これまで働いてきて培ってきたものの集大成のような感じがした。
これまでのすべてが、今につながっていた。
また、読者やクライアントの方々だけではなく、掲載先の方々にも満足してもらえるよう必死につくっていった。
毎号20件近く取材インタビューをさせてもらった。
情報誌に紹介する商品やサービスなどには、その人のいろんな想いや物語が込められている。
取材をすれば、その真剣で熱いものがヒシヒシと伝わると同時に、それをきちんと正確にひとつひとつ紹介しなければいけないという、責任をビシバシと感じた。
先ほども書いた通り、とにかく必死だった。
その甲斐もあり、たくさんの掲載店の人たちから喜びの声をいただくことができた。
そのおかげで、お礼として商品やイベントチケットなども送っていただき、同僚で分け合ったこともあった。

情報誌作成と宣伝会議賞とヤクルトスワローズと。

そんな中、9月からいつものように宣伝会議賞がはじまった。
仕事の忙しさがこれまでとは違う。
そして、この年はオレが大好きな東京ヤクルトスワローズが14年ぶりのリーグ優勝しそうな勢いがあった。
どうしてもこれは外せられない。
仕事と宣伝会議賞、そして野球観戦と3つすべてに全力で取り組んだ。
むしろ食事と睡眠以外は、この3つだけしかやっていなかったと言っても過言ではなかった。
試合開始前の球場の席や、取材先への移動中の電車でも、ノートを開いては宣伝会議賞のコピーを書いた。
はたまた観戦が終わった後、会社に戻って残っていた仕事をするなど、時間をうまく使った。
もちろん前年同様、ほとんど遊ばなかった。
それでも休日出勤や徹夜があったりと、やはり宣伝会議賞に費やせる時間は明らかに少なかった。
スワローズが見事に優勝した。
現地の神宮球場で14年ぶりの歓喜を味わうことができた。
それでも祝杯をあげることはなく、家で喜びを噛みしめながら原稿作成に勤しんでいた。
でも充実しまくっていた。
こんな毎日が続けばいいのになぁ。と感慨深くこの2ヶ月間を思っていた。

コピーの神様、どうだ見たか!

11月4日水曜日の13時が宣伝会議賞の締め切りだった。
その締め切りギリギリの2日3日と、急に別件の取材のため1泊2日の静岡出張が入った。
なんとまあタイミングが悪い。
いくら間の悪いオレとはいえ、さすがにこれは想定できなかった。
本当なら、土日に最後の追い込みをかけて、月火で応募しようとしていたのにあっさりと予定が崩れた。
もういいや、火曜の夜から応募していけば、朝には間に合うだろうと、これまでの経験から計算した。
土日はコピーの追い込み、そして取材のための事前準備をやった。
静岡の夜を楽しみたいのは我慢して、ホテルに閉じこもってインタビュー内容をまとめてからコピーを書き、自宅に帰ってからは眠い目をこすりながら、コーヒーをガブガブ飲みながら、朝6時過ぎまで応募作業が続いた。
けっこうな無理をしたけど予定通り、なんとか終えることができた。
コピーの神様、見たか!と、応募数は前年の半分にも満たないくせに、明け方にベランダでタバコを吸いながら、満足感に浸っていた。
もう眠気なんて麻痺していて、そのまま会社に向かった。
お昼休みも、最後のあがきでスマホで3本くらい応募した。

順調だったからこそ、成長したかった。

このあたりからコピーライターとして、充実期を迎えていた。
本当になんのトラブルにも遭わず、順調に仕事が進んでいった。
これまでは、未熟ゆえ、また予期しないトラブルがけっこうあった。
そんな中、年間弟子入りコースというコピーライター講座が、2016年の年明けからはじまることを知り、すぐさま応募した。
忙しかったのは相変わらずだったけど、一流のコピーライターから学びたかったし、もっと成長したいと思ったから。
東京オリンピックのキャッチコピーを100本提出するのが、受講するためのテスト課題だった。
実はひとつの案件で100本書いたことはこれまでなかった。
納得できたのは10本くらいで提出したと思う。
これはやばいぞと不安を感じていたが、なんとか受講することができた。
でもその1年間は、とても辛かった。
講師の方には褒められることなく、貶されていたばかりだった。
どうしても褒められたくて、毎回肩に力を入れすぎて書いていた。
そのせいで、うまく書けなかった。
でも、コピーを書くための本質をしっかり学ぶことができた。
講座の時はできなかったことが、今はできてきていると感じている。

どうしようもなく絶望をしていたオレに、1本の電話がかかってきた。

宣伝会議賞である。
2016年2月1日、例年通りこの日に一次審査通過が発表された。
まさかの結果に呆然愕然とした。
応募数が少なかったとはいえ、一次審査通過してたのはたったの6本。
なにかの間違いだろうと、何度も読み返してもたったの6本。
あれだけ取り組んで、それなりに自信があったのにも関わらず、たったの6本だった。
最近、うまく書けてきたなぁと思っていたオレをぶん殴ってやりたい気分だった。
怒りしかなかった。
もう宣伝会議賞のことなんて、一切考えられなかった。
二次審査とかどうでもいい感じだった。
そんな自暴自棄だったオレを1本の電話が救い出してきてくれた。

ファイナリスト?CM案で?

2016年2月19日、その日は19時過ぎに帰れた。
ちょっと飲みにでも行くかと思い、どこのお店にしようかとスマホを取り出すと、知らない番号から着信があった。
かけ直してみると、聞き覚えのあるようなないようなところへとつながった。
「宣伝会議賞事務局です。」
思わずスマホを持つ手から全身へと震えが広がってきた。
これはファイナリストの報告なのか?!
いやそんなわけがない!なんせ6本しか通っていないのだから、いくらなんでも。
用件をじっくりと聞いていると、やっぱりファイナリストに残ったとのこと。
ファイナリスト!?
こんな散々な結果だっていうのに、それはないぜ。
正直、どっきりだと思った。
そんな疑念の抱いている中、事務局の方の話しは坦々と続いていく。
オレが応募したCM作品が、467,936本の中からファイナリストに残ったと言うのだ。
っていうかオレ、CMなんてつくってないぜ。
やっぱり間違えか、まいったな。
いや!これ!ちょっと待てよ!
応募作品を聞いてみると、最後のキャッチコピーを思い出した。
「あっ!それ、オレのですっ!」
駅のホームで全力に叫んだ。
ただでさえ、人よりも声が大きいというのに。
その瞬間、しっかりと思い出した。
眠い目をこすりながら、応募作業にとりかかっていた時に、ふとこれを思いつき、web上で直接入力したことを。
あの朝、コピーの神様は、ちゃんとオレのことを見てくれていたんだ。
それにしても、コピーの神様はいじわるだ。
2週間ちょっとも落ち込ませておいて、こんなプレゼントをくれるんだから。
おもわぬ祝杯となったので、ひとり飲みなのにガッツリと飲んでしまった。
次の日、本当は公表するのはダメなんだけど、今まで心配をかけてきた両親と、贈賞式に出席するべく有休取得するため社長だけに伝えた。
3人ともすごい喜んでくれた。
なにかしらの賞を獲りたい気持ちとは裏腹に、どうも受賞できるという自信はなかった。
今回は顔見せということで、気楽に参加して空気だけしっかり味わっていこうという気持ちだった。

2016年3月8日(火)は、贈賞式日和だった。

2016年3月8日、いつもより早く起きた。
春らしいやわらかな日差しが東京を明るくしていた。
これからはじまる長い長い1日だ。
家にいてもそわそわして落ち着かないので、14時半に着けばよかったのに、13時前には会場となる虎ノ門ヒルズに到着した。
ヒルズ内のカフェで一杯コーヒーを飲んでから、受付先へと向かった。
そこには知り合いがすでにいたということもあり、やっと落ち着きを取り戻した。
会場では一次審査以上を通過した作品が掲載されているSKATを先行販売しており、すぐさま購入した。
世界一早くSKATを手に入れたことだけで、贈賞式に参加できてよかったと思った。
このような場は慣れていないので、緊張をほぐすためタバコを吸いに喫煙所に足を運んでばかりいた。
いろんな人に声をかけられ、オレのファイナリスト作品を紹介しても、あんまりピンときていないみたいだった。
サイト上でファイナリスト作品一覧が掲載されており、いいものはGOODをつけられるようになっていたが、オレのものにはあまりつけられていなかったから。
オレ自身も、いい作品ばかりだなぁ、よくこの中に入り込めたなぁ。とつくづく疑問に思っていた。

想い続けていたものが叶った時、人は子どものように純粋になる。

リハーサルが終わり、いよいよ贈賞式がはじまった。
キッコーマンの担当者の方2人とファイナリストの3人と協賛企業賞の人で円卓を囲んだ。
そのファイナリストの中には、大学生の人がいて初めて応募したのだと言う。
5本しか応募できなかった25歳の時のオレとは、雲泥の差だ。
まずは協賛企業賞を獲得した方たちが壇上に上がっていく。
うらやましかった。
その時は、賞金3万円もらえるから、この中の誰かから打ち上げでたかろうかと思っていたくらいだ。
そして、シルバー受賞者が呼び出されていく。
まぐれで獲れるとしたらここしかないと思っていた。
アナウンサーが「キッコーマンの~」と言った時、オレかと思ったけど、先ほどの大学生だった。
落胆というより、すごいもんだなぁと感心していた。
そして、今回は残念だったけど、予定通り顔見せだった。
来年もここに呼ばれるように頑張っていこうと強く誓っていた。
そんな既に来年に目を向けているオレに、予期せぬクライマックスがやってきた。
CMゴールド。
最終審査員の井村光明さんが壇上の中央で発表する。
そういえば父親と同じ名前だなぁとのんきに思っていた時。
「~CMゴールドは、キッコーマンの課題で〜」
瞬発力は、人よりだいぶ長けている。
オレだ!と勢いよく立ち上がった。
それにつられて、隣にいた担当者の方が手を差し出してくれた。
感謝しかなくて、強く両手で握った。
壇上に向かっている時、無意識に右手でガッツポーズをつくっていた。
これまでに何度もやってきたガッツポーズだ。
しっかりカメラマンさんが撮っており、YouTubeを見た友だちから、あれよかったよと後日言ってもらえた。
12年もの間、ずっと目指していたところにぼんやりとにやけながら歩みを進ませていた。
壇上は、照明がやけにまぶしかった。
審査員の井村さんが表彰状を読んでいただいている。
その顔を夢心地のまましっかり見つめていた。
そして、受賞スピーチ。
やばいぞ、なんにも考えてなかったぞ。
ただでさえ緊張していたし、頭に力が入っていかない状態だし。
気の利いたこととかはやめて、素直に今伝えたいことだけを話そうと決めた。
受賞できるとは思っていなかったこと、12年間諦めずにやってきてよかったこと、周りのみんなのおかげで受賞ができたこと、そして、これからも頑張ってコピーを書いていくこと。
途中、気を抜いてしまうと泣いてしまいそうだったけど、これYouTubeで流れるんだぞと言い聞かして、なんとかこらえることができた。
スピーチが終わり、席に座る時、よろけてしまい、隣の女性にもたれてしまったところは撮られていなくて助かった。
その後も放心状態のまま、トロフィーを握りしめていた。
なんだかがっちり握っていないと、これが嘘になりそうだったから。
今回のグランプリは、めずらしくコピーではなくCMだった。
もしコピーだったら、グランプリがCMゴールドとなり、オレはシルバーになっていたかもしれない。
CMゴールドを受賞できて本当に嬉しかったけど、どこか残念だった。
次回から応募ができなくなるから。
苦しみながら楽しめる2ヶ月がなくなってしまうから。
欲張りだけど、本当はグランプリを受賞したかったなぁ。

バカのひとつ覚えのように「ありがとうございます」と言っていた懇親会。

いつの間にか贈賞式は終わり、壇上から下りた時、両手をぐぃ〜と高く広げて喜びを表現した。
別会場に移って懇親会が行われた。
いろんな人から声をかけていただいた。
スピーチ感動したよ。と言ってくれた人もいた。
気の利いた返事なんてできず、ただただこわばらせた表情で、ありがとうございます。とだけ連呼していた。
こういう時、自信家がうらやましいと思う。
堂々とした態度で感謝ができるから。
なんなら受賞作品を絡めたお話しもできるから。
オレはというと、緊張のあまり豪華なお食事にはほとんど手をつけられなかった。
その日はまだコーヒーを飲んだだけだったのに。
それでもやりたいことがあった。
今回のミッションでもあったキャンペーンガールの佐藤美希さんとのツーショット。
宣伝会議の表紙で彼女を見て、タイプだったこともあり、絶対贈賞式に行く!とSNSでいつも以上に強く宣言していた。
そのおかげもあって、CMゴールドを受賞したのかもしれない。
とても気さくな方で、両手で握手そして快くツーショットを承諾してくれた。
今もTwitterのカバー写真は、これにしている。
またどこかでこの時の笑顔になれるよう、お守りとして。

とことん飲んだ、とことんはしゃいだ。

ちょっとひとりになりたかったし、タバコの我慢が限界を迎えていたので、喫煙所に向かった。
友だちからさっそくメールが来ていた。
そして、ディーラー時代に付き合っていた彼女からもお祝いのメールが来ていた。
もし、コピーライターを目指すことがなければ、きっと今も一緒にいたはずだ。
どうやら発表と同時に泣いてくれたらしい。
そんな大切な人と別れてまで、追いかけていたんだと思うと、なんだか感慨深くなり、こっちまで泣きそうになった。
でも、喫煙所でもオレひとりじゃなかったから、なんとかこらえた。
ぶん殴りたい人も何人かいるけど、本当にたくさんの人に応援されてきたんだと感じた。
懇親会もいつの間にか終わってしまい、そのまま近くの居酒屋さんで打ち上げをやった。
もう厳かなパーティーではなかったから、いつも通りビールを飲んでは騒いでいた。
やっと喜びを爆発していた。
結局、始発まで新橋で飲み明かしていた。
朝6時、ようやく帰宅。
目と酔いを覚ませるために、シャワーを浴びた。
突然叫びたくなり「よっしゃ〜!」と、ちょっとだけ遠慮しながら浴室で大声を張りあげた。

賞金30万円の使い道は、有意義なものだったと自画自賛している。

打ち上げ中「賞金は何に使うの?」と聞かれた。
30万円もいただけることをすっかり忘れていた。
でも使い道は、いただく前から決めていた。
みんなを呼んで、オレおごりのパーティをやりたかった。
先ほども書いた通り、たくさんの人に応援されたし、いろんなことを教えてもらった。
その恩返しをしたかった。
近くには広い公園があるし、いつもお世話になっているビアバーも協力してくれることに賛同してくれた。
日曜日だったこともあり、誕生日の前日の4月24日に開催を決めた。
FacebookやLINEなどで呼びかけて、なんと100名くらいの人が参加してくれた。
たくさん生ビールを飲んだ、たくさんお祝いの言葉をもらった、たくさんみんなと笑った。
1日で20万円以上使うなんて、これまで数えるくらいの大盤振る舞い。
そのおかげで、みんなが楽しんでくれたし、受賞と誕生日を祝ってもらえたので、いいお金の使い方をしたと思った。
みんなと乾杯をしまくったおかげで、後半はほとんど記憶が残っていなかったけど。

画像2

ありがとう、宣伝会議賞。

最高に楽しかったパーティーが、いつの間にか終わっていた。
これで本当に12年間続けてきた宣伝会議賞の終わりとなった。
小さい頃はプロ野球選手、中学生の頃はアナウンサー、高校生の頃は保育士になりたかった。
なりたかっただけで、特別な努力はしてこなかった。
でも25歳になって初めて夢を叶えるために、本気でがんばってきた。
きっと宣伝会議賞があったからだと思う。
改めてこのコンテストに感謝したい。
36歳となったオレは、二日酔いで悩まされていた。
でも、それは爽快な頭痛だった。

オレは、やりたいことをやっているのか?

さて、仕事のこと。
情報誌のリニューアル案をつくることになった。
まだファイナリストの連絡が来るちょっと前のこと。
特集ページのレイアウトや毎月のコーナーなどの変更、そしてどうせならと冊子タイトルまで新しいものにしようと決め、提案書をまとめていった。
担当してわずか1年弱だったけど、沿線内の街の雰囲気や読者アンケートを細かく見ていたので、やってみたいアイデアがどんどん浮かんでいた。
いつも通り次号の特集ページの打ち合わせをした後、リニューアルについて提案した。
思っていた以上に、クライアントが賛同してくれて、スイスイとリニューアルする方向で進んでいった。
2016年5月号から「cocotto(ココット)」というタイトルで新しくスタート。
なによりもタイトルがオレが考えたものに決まったことで、やっとオレたちのものになったような気がして、それがうれしかった。
20~30歳代の女性をターゲット層に絞ったことにより、これまでのものとはだいぶ変化した誌面となったことにも満足していた。
しかし、そんな気持ちが少しずつ失いかけてきた。
宣伝会議賞CMゴールドを受賞したことで、キャッチコピーをちゃんと書ける仕事に就きたいと思っていたからだ。
代理店の上司の方からは「宣伝会議賞で賞をもらったからって、辞めないでくださいよ〜。」と冗談にも本気にも取れるようなトーンで言われていた。
「いやいや、大丈夫ですよ。安心してください。」なんて言っていたけど、3ヶ月くらい経てば軌道に乗るだろうから、その時に転職しようとしていた。
しかし、本当に辞められないことになった。
代理店のが寿退社することが決まり、そしたら今度はデザイナーが産休に入った。
おめでたいことではあるけど、心から祝福できていたかというと疑問だ。
オレは、なんとも嫌な人間だ。
メンバーが代わり、仕事をイチから教えながらやっていった。
これまでこういう立場になったことは、バイト時代くらいだったので、教えることの大変さを改めて感じたけど、この役回りってけっこう向いているんじゃないかとも感じていた。
モヤモヤした気持ちはあったけど、クオリティを落とすわけにはいかないので、毎月懸命に取り組んでいった。
しかし、やはりいつまでもその気持ちを消し去ることはできなかった。
2016年の12月、退職願を出した。
返事は、考え直してくれないか。だった。
そう言われることは、うぬぼれかもしれないが想定内。
でも、必要としてくれていることはやっぱりうれしかったので、次の矢を打つことはできなかった。

初対面の人の言葉は、あまりにもキツすぎた。

とある日、友だちと飲むことになった。
そこには初対面の人もいて、こんな話をした。
「仕事ってなにやってんの?」「コピーライターだよ。」「ふーん、どういうもの書いてんの?」「鉄道会社の情報誌をメインにやっているよ。」「情報誌?それ、コピーライターの仕事じゃないじゃん!」
ストレートにオレが悩んでいることをえぐってきた。
「てめぇに言われなくてもわかってんだよ!」と言いたいのをグッと抑えているのを友だちが気づいてくれたのか「しゅーちゃんは、コピーのでかいコンテストで賞をもらったんだよ。」とフォローしてくれた。
でも、その人は「仕事で書けなきゃ意味なくね?」
もうぐうの音も出なかった。
一発殴ってやりたいくらいだが、実にその通りだからだ。
翌日、ある条件を出して、退職を認めてもらいたいことを話した。
社長も諦めてくれたのか、その条件を飲んでくれた。
その後、引き継ぎもしっかり行って退職した。
未経験で30歳過ぎていたオレを採用してくれたこと、いろんな仕事を経験させてくれたこと。
感謝と申し訳ない気持ちもあったけど、その時は自分のことしか考えていなかった。

意気揚々が自信喪失になるなんて一瞬だった。

前年の11月から転職活動をはじめ、びっくりするほどすんなり決まった。
作品集は40ページ近くになっていた。
本当に感謝の気持ちでいっぱいだった。
2018年2月、新しい広告制作会社で働くことになった。
だが、自分の対応力が足りないこともあったが、この会社にマッチできなかった。
仕事がこれまでやってきたことと、ほとんど変わりがなかったし、試用期間は時給制のため、定時に帰らせるようにを急かされてばかりだった。
これまでは、じっくり調べて考えてから、書くことに取り組むスタイルをとっていた。
しかし、時間に追われてばかりで、なおかつキーボードを叩いていないといけないような強迫観念に襲われてしまい、しっちゃかめっちゃかの内容で納得できるものが書けなかった。
それではいけないと、家に持ち帰って取り組んだりもしたが、入社して1ヶ月くらいで、オレはこの会社で働くのは難しいと判断した。
もちろん、会社もこんなオレを本採用するはずがなかった。
いろんなことを携わらせてもらえたが、一切の達成感はなく3ヶ月が過ぎた。
そして、これまでの経験とか実績がすべて失われたような感じに陥った。
意気揚々と入社した2月が遠い昔のことだ。

過去のオレが、現在のオレを元気づけてくれた。

そんな調子だから、思うように転職活動が進まない。
ストレスと夏の暑さからか、日に日に体全体が弱まっていった。
体調が悪くなるなんて、過酷なスケジュールをこなしていても、年に1度あるかどうかの健康体なのに。
徹夜明けの健康診断でも、オールAになるくらいなのに。
なんとかせねばと、過去の制作物や宣伝会議賞贈賞式のYouTubeを見て「大丈夫、オレはできる!」と自己暗示をかける毎日を送っていた。
これが効果てきめんで、徐々にではあったが、いつも通りの元気なオレを取り戻すことができた。
これまでがんばってきた自分に感謝したし、こんなことでめげてはならんと活力がみなぎってきた。
これまでも大変なことや辛いことがあると、過去のことを思い出すようにしている。
過去の栄光にすがることも良いことだ。
若い頃の苦労は買ってでもしろとは、よく言ったもの。
あの時に踏ん張ってきたことが、今の自分を奮い立たせてくれる。
あれができたんだから、これもきっとできると。
その後、何社か面接を受けさせてもらった。
うまくはいかなかったが、それもつかの間、9月に内定をいただいた。

たった1ヶ月のコピーライター。

築地をはじめ都内や軽井沢で40店舗以上の飲食店を経営している会社で、再びコピーライターになった。
ポスター作成からメニュー開発やネーミング、イベントなどの企画や新店舗の立案などができるとのこと。
これまでクライアントの案件ばかりで、自社のことはやったことがなかったので、新鮮な気分で取り組んだ。
しかも会社でただひとりのコピーライターだから、いろんな仕事を任せてもらえるはずだ。
これまで以上に心を躍らせながら入社した。
しかしそんなものは、すぐさま跡形もなく崩されていった。
入社1ヶ月後、突然のことだった。
「芳野くん、ちょっとこっち来てくれないか?」
社長から直々の呼び出し。
なんだろ?新しい案件をやらせてくれるのかな?くらいの呑気な気持ちで、社長室に入った。
いつにも増して社長の顔が険しい。
これはよからぬことだぞと察知した。
でも、これから何を言われることは、まったく予想できていなかった。
「芳野くんをコピーライターとして、雇う余裕がなくなった。」
「はっ!?どういうことですか?」なんか悪い冗談なのかと思った。
もちろん信じることなんてできない。
「市場が築地から豊洲に移動したことで、売り上げが予想を遥かに超えるほど下がってしまった。」
これが理由だった。
ならば、どうしてオレを採用した?!そんな怒りをなんとか抑え込み、黙ってうなづいた。
続けてこんな提案がやってきた。
「コピーライターはダメだけど、せっかくの縁だから店舗で働くことはできないか?」
「返事は明日まで待ってください。」としか言えなかった。
まっすぐ帰宅できなかった。
職場近くで流れている隅田川を眺めながら、いったいオレの何が悪いのか、何を間違えたのか、ひたすらネガティブに考えた。
また転職活動しなければならないのか。
そんな気持ちは、もうコピーライターは諦めることへと導いていった。

39歳、未経験の仕事に就く。

コピーライターだけが仕事ではない。
飲食店で働くことだって仕事だ。
突然やってきた宣告を受け止めることにした。
というか、自分自身に言い聞かせているようだった。
転職活動をまたやるのが、いやだったということもある。
翌日、社長にその旨を話した。
もちろんまだ納得なんかしてはいない。
さらに翌日、店舗の配属先が決まり、ホール業務に就くことになった。
急にやってきた未経験の仕事。
研修などもなく、即実践だ。
注文を受けることなどは過去のバイトでやったことはあるが、レジ対応や丁寧な接客など、基本すら知らなかった。
それでも、店長やバイトの人からイチから学ばせてもらったり、飲食店やコンビニなどで店員さんから受けてきたサービスを真似てみた。
お店は、銀座にある富裕層向けの商業ビルのレストラン街に構えていることもあり、とにかく丁寧な接客が求められた。
毎日が勉強の日々だった。
それでも、持ち前の明るさを発揮して、同僚とうまくコミュニケーションをとり、またお客さまにもオレなりの接客をしていった。
飲食店を経営している方から、うちに来ないか?と誘われたほどだった。

なんでオレが店長になるの?!

そろそろ仕事に慣れてきた半年後の2019年のGW。
異動の話しが突然やって来た。
なんとオレが店長になるという辞令だった。
はぁ、何言ってるんだ?!つい最近飲食店で働きはじめたばかりだぞ!である。
しかも、2日後だと言う。
調理はしたことないし、食材などの発注やシフト作成などもわからない。
もうなにがなんだか理解できずに異動先のお店に行くと、引き継ぎをやってくれる人がバックレた。
もう馬鹿野郎だ!
それでも、社会人経験のない大学生や、日本語がそれほどうまくない外国人のアルバイト、店舗運営などについてはエリアマネージャーにいろいろ教えてもらった。
もう年齢とか雇用形態とかプライドとか、そんなもんはまったく考えなかった。
わからないことは、キャリアのある彼らに素直に聞いた。
こんなバカげている人選する会社が悪いんだ!どうにでもなれ!と腹をくくった。
とにかく人一倍あるというか有り余っているスタミナと元気を前面に出していった。
銀座のお店とは違い、お客さまには明るく対応していった。
バイトのみんなにも、スピードとかはどうにでもなるから、とにかく元気出していこうぜ。と伝えていった。
ありがたいことにみんなも協力してくれたし、常連さんとなってくれた方もいたおかげで、ほぼ毎月昨年対比の売り上げが良くなった。
よくわからないが、けっこうすごいことだったみたいだ。
異動したての頃は、冴えない顔をして働いていたこともあり、すぐ辞めるなと大学生から言われていたオレ。
それでも与えられた環境の中で歯を食いしばってなんとかやってきた。

やっぱりコピーを書きたい!でも踏み出せなかった。

異動してからまもなく、友だちからイベントをやることになったので、キャッチコピーを書いてもらえないかという依頼がやってきた。
栃木の田舎にある学校を借りて、クラスメイト(参加者)と一緒に学ぶという体験型宿泊イベントだった。
約半年もの間、コピーのことなんて忘れていたオレだったけど、Twitterで募集していたサントリーの「ダークホース」というワインのコピーをなんとなく時間つぶし程度に書いてみた。
そこで「ネーミングだけは、謙遜してみました。」というコピーを採用していもらい、コピー熱が若干上がってきたところにやってきたお誘いだった。もちろんふたつ返事で引き受けて、慣れない仕事で疲れた体にムチを打って、3日間とにかく書きまくった。
その中から選んで、14本コピーを送った。
彼はとても喜んでくれた。
料理や接客でお客さまに喜んでもらえるのもうれしいが、オレが書いたコピーで喜んでもらえるのは、もっとうれしかった。
そして、彼は選ぶことができないということで、Facebookで投票形式をとって決めることにしてくれた。
たくさんの人が、このコピーがいい!などとコメントをつけて投票してくれた。
ひとつひとつのリアクションがうれしかった。
その中から、このコピーが選ばれた。
「たくさん笑うと、最後は泣いてしまうんだね。」
オレ自身もこれが一番だなと思っていた会心のコピーだった。
この日あたりを境に、またコピーを書くようになった。
もちろん、書くのがやっぱり好きなんだと再認識できたから。
オープンからラストまで働いていた日々だったけど、時間を見つけてはコピーの公募課題を書いていた。
2019年9月、小田原城で開催されたアジア最大級のイベント「第8回プロジェクションマッピング国際大会」で募集されたキャッチコピーの公募で選ばれた。
「人を感動させる戦もある。」というコピー。
友だちカップルが旅行のついでに小田原に降り立って、賞品の入場チケットと街に貼りだされたポスターを撮って来てくれた。
それでもコピーライターになろうと行動は一切起こさなかった。
そうではない、自信を持つことはできず、起こせなかったのだ。

オレはいったいどうすればいいのか?という問いが今年に入ってからずっと続いている。

2020年、日本だけではなく、全世界が混乱に陥った。
言わずもがな、コロナウィルスだ。
例に漏れず、これまで順調だった店舗売り上げが日に日に落ちていった。
忙しかった日々が懐かしくも感じた。
これ、いつになったら、どうやったら元通りになるの?
もうどうしようもない状態だった。
そして、緊急事態宣言が発表された3日後の4月10日。
会社すべての店舗の休業が決まった。
その5日後、会社から解雇通知書がメールで送られてきた。
なんともあっけなくそっけない対応で、これまでやってきたことが無駄に思えた。
なんであんなに必死に接客や調理など店舗運営をやってきたのか?
社長から宣告されたあの時、なぜ辞めなかったのか?
会社のせいではないけれども、もうすべてがバカらしくなってきた。
解雇されてから1ヶ月くらいは、なんにもやる気が起きなかった。
覚えていることは、バイトの人たちに未払い分のお給料の支払いのことや店舗再開などの説明をしたこと、離職票をもらってハローワークに行ったこと、あと冒頭にも書いた転職エージェントに登録したことくらいだ。
ようやく落ち着いてきて、ウダウダグダグダしていてもしかたないから、とにかくできることをやっていこうと決めた。
やっぱりオレはコピーライターになりたかった。
返り咲くために、なにかしら実績を積まなければならないと思い、時間をたくさんかけて取り組んだ。
Twitterを見れば、親切な方がキャッチコピーやネーミングの公募をツイートしてくれている。
便利な世の中だ。
7月、さっそく2つも受賞をいただくことができた。
コピーライターになりたいという執念の表れだと思う。
だが、今はこんな状況だ。
ただでさえ募集が少ないコピーライター職は、さらに少なくなっている。
エントリーしているが、箸にも棒にも掛からない。
今さらだけど、宣伝会議賞のCMゴールドを受賞してから、これからどんな明るく輝かしい未来が待っているんだろうと、にやけが止まらなかった。
でも、こんな結果。
まさかコピーライターにすらなっていないなんて、あの時は想像もできなかった。

「きっとうまくいく」と、今は無理やり笑っていたい。

先日、講座で知り合った友だちと飲んだ。
「もうコピーライターじゃなくてもいいんじゃないですか?」と提案してきた。
読んでいただいた通り、これまで約15年間、コピーライターのことばかり考えていた。
いろんなことがあったけど、諦めずに追いかけてきた。
そしたら、いつの間にかけっこういい年齢になった。
そうだな、ここが潮時だな。
仕事ではなくても、コピーならこうやって公募でも書ける。
でも、その一方でコピーライターに返り咲きたいという気持ちは、まだ捨てきれていない。
それは、くだらない意地とプライドなのだけども。
さて、いろいろ遠回りをしてしまった。
それでも、まだやっと折り返し地点を迎えたばかり。(60歳を過ぎても働きたい気持ちはある)
さまざまな仕事に携わらせてもらったことで、さまざまなことを学び、さまざまなスキルを身につけることができた。
人の心をくみ取る力、物事の本質をつかむ力、自分の考えをまとめる力。
営業、エディター、コピーライター、飲食業と、未経験の世界に飛び込んでいった。
飲み込みが遅く、要領が悪いせいで、最初はひどく体を打ちつけてしまうこともあった。
ミスやトラブルで辛かったことやへこんだことなんて、数えきれないほどある。
それでもそれを跳ね返すべく、懸命になってやり遂げて、喜びや嬉しさに変えていった。
オレの好きな野球選手にヤクルトスワローズの川端慎吾選手がいる。
彼の応援歌に「強靭な向かい風は背中で受け止めて追い風にすればいいさ」という歌詞がある。
まさにこれだ!
ピンチが起こっても、笑っていた。
なんといっても、オレの特技は笑顔だ。
何度もどん底を味わってきたけど、無理やりにでも笑いながら行動してなんとかなってきたし、その経験を笑い話にしてきた。
突然の無職、そして転職活動がうまくいっていない現在だって、いつかはそうなるんじゃないと思っている。
何度も言ってきたが、これまで周りの人たちから、たくさんの叱咤激励をもらってきた。
怒られた数も褒められた数も、普通の人よりかなり多いではないだろうか。
そのたびに立ち上がってきた。歩みを進めてきた。
そのおかげで、後輩にも仕事のことなどうまく教えることができたと思っている。
本当に感謝したい。
こんなに紆余曲折、そして喜怒哀楽に味わってきたオレ。
どんな未来になるか今はまったくわからないけど、「きっとうまくいく。」という強い気持ちは持ち続けていきたいと思う。
先日、こんなCMが放送された。

「平坦な道なんてなかった。何度もつまずき、転びかけた。それでも逃げなかっただろ。諦めなかっただろ。上等じゃねぇか、逆境なんて。さぁ行くぞ、もう一度。やっちゃえ日産。」
オレが今叫びたいことをキムタクが静かに語ってくれている。
やさしく励まし、強く奮い立たせてくれるようなこんな言葉を世の中に広く発信していきたかった。
とにかく笑っていければいいんじゃないかと、オレはそう思う。
そして、できることならこのドラマのようだと言われた職務経歴をハッピーエンドで終わらせていきたい。

30000字も書いてしまった。

長かった、いやぁ長かった。
10000字の文章すら書いたことがなかったオレが、こんなに長文を書いてしまった。
職務経歴書のことをタイトルにしたというのに、内容の半分以上が宣伝会議賞のことだし、残りの大半も講座のことやこれまでの転職活動についてのものになってしまった。
でも、これらを経験したから、ここまで書けた。
アップダウンの激しかった道をよくぞここまで進むことができたと、褒めてあげたいと思う。
あの本屋さんで、ただひとつの職業でここまでになるとは、想像もしなかったなぁ。

※職務経歴書として書いたのですが、一人称が私や僕では、文章に込めた熱や想いが薄まると感じたため「オレ」と記載したことはご了承ください。

追記:2020年11月からのこと。

これを読んでくれたたくさんの人から、励ましの言葉をもらった。
直接会って、ビールを飲みながらアドバイスをくれた人もいた。

そして、サブスクコピーライターのアイデアももらった。
2020年11月10日、オレは個人事業主としてコピーライターをはじめた。
サブスクリプションでキャッチコピーやネーミングを書いていくことにした。

また24日からは、カメラスタジオで制作進行管理&営業職として働くことになった。
そして、コピーライターは副業としてやっていく。

さてどんなドラマが待ち受けていることやら、ワクワクでしかない。

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