デザインの使い方を考える

美大生だったせいか、「アートとデザインの違い」は、嫌というほど議論した記憶がある。ぼくの世代では、美大のデザイン学科の学生は、少なからずアートに軽いコンプレックスを持っていたと思う。なぜ、美大にデザイン学科があるのか悩んだし、社会学部にこそ、デザイン学科があるべきだと本気で考えていた。

いつの間には、大学に様々なデザイン学科が増えていき、アートよりもデザインの学生が多くなり、勢力図が変わっていった。世の中的にも、食えないと思われているアートよりも、社会の役に立ちそうで職業として成り立つデザインの方が親に認めてもらいやすくなっていったと思う。

美大生の時に、デザイナーになるのをやめて、それでもデザインに関わる仕事をしていきたいと考えていた。社会人になって、なんとか印刷物のデザインの企画・進行ができるようになっていき、美大の時よりも仕事をはじめてからの方が多くのデザイナーの仕事を熱心にみるようになった。

その頃には、アートから意識が少し離れ、そもそもデザインとは何なのか、どんなデザイナーがどんな仕事をしているのか気にすることが多くなった。有名なデザイナーとも仕事をする機会もあり、間近に、そうしたデザイナーの話や仕事を垣間見ることが増えていく。

その頃は、「デザインとは何か」を真剣に考えていたと思う。仕事がら、デザインの歴史や現状をあらためて学び直すことになり、グラフィックデザインだけでなく、住宅、家具、日用品などの「暮らしのデザイン」を考え、人に伝える仕事をするようになった。たくさんの様々なデザイナーと話す機会が増えた。

そして、ある時から「デザインとは何か」よりも「デザインで何ができるのか」に興味が移っていく。どんな時にデザインが活かされるのか。デザインを適切に使うにはどうしたらいいのか。そんなことを考えることが多くなった。専門家にとってのデザインと、生活する人にとってのデザイン。その違いも気になっていた。

今でもことあるごとに思い出すのは、美大生の時に、授業で紹介があったナチスドイツのプロパガンダの映画の話だ。授業の後に学生たちで、表現として優れているものを、果たして、認めるべきかという議論になった。ぼくは、どんなに素晴らしい表現でもあっても、目的が間違っていれば、良くないと主張した。

デザインは、魔法ではないという人がいる。ぼくは、一種の魔法だと考えている。人の気持ちに訴える力を持っている。使い方次第で、社会は、良くも悪くもなる。これまでの社会で、デザインがどう使われてきたのか、社会を良くしてきた側面もあれば、くだらないものをたくさん生み出し、伝えてもきた。

専門的なデザイナーが関与しているいないに関わらず、人工的につくられたもののすべてに、デザインがされているということを考えると、デザインには、とてつもない社会的な責任があると思う。うまい下手ではなく、安易な気持ちで、デザインに携わる人が増えることが恐い。

デザインは、そんなに簡単に人を殺さないと言うけれど、人の気持ちに入り込み、人の感覚に作用して、いつのまにか蝕むように社会を壊していく可能性さえある。一方で、デザインをうまく使えれば、幸せな人を増やせるかもしれないし、社会を良い方向に導くことさえできる。

10年前にはじめた「ちいさなデザイン教室」は、「デザインの使い方」を考える教室だ。社会の様々な場で、どうやってデザインを使っていけばいいのか。集まった人たちで考える場である。そして、具体的にできることをやってみる。小さくてもいいから実行することが何かを変えていくと信じている。

https://www.tsu-ku-shi.net/infos/2020/10/10-3.html?fbclid=IwAR21zvrgLh_7F2VjESj-mNNlM8OW1jTFZJOQal7dd5jBU7bROu7Ih9gr0fU

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