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なんだかな〜ということ

ネットや新聞、テレビなどで気になるニュースを知って
特に専門外のことに関しては(というか専門外のことがほとんどだけど)
自分なりに調べて自分なりの意見を持っていく

でもその意見を大々的に言うのは勇気がいることがある

家族内や親しい間柄の中で話すなら良いかもしれないが
SNSなど誰にでも見られる場で表明することは
今この時代、賛同してくれる人がいるかもしれないという期待もあるが
否定の矢が飛んで来るという可能性もある

だから、専門外のことで意見を表明するのは
怖いことでもあるのだ

ただ、専門外でも言いたい!書き残したい!ということだってある

例えば・・・入管法、技能実習、育成就労などのニュース

ウィシュマさんの一件や入管法が改正され施行されたことは記憶に新しい
日本は難民認定率が低く、そのことは他国から指摘されている

確かに、悪意を持って不法滞在する人もいて
そういう人に対してはもちろん然るべき措置が必要だと思う
ただ、近年難民認定を求める人々の中には、自国に帰ることが危険であることが明らかな人が多いように感じている

私はCFFという海外ボランティア団体の活動で、クーデター後のミャンマーの状況をかなり生々しいことも含めて聞いていたため、とてもじゃないけど軽視できない
場所や時期によって危険度に波はあるかもしれないが、軍が実権を握り続けている以上、決して安全とは言えない

育成就労制度についても…(最近技能実習制度から変更になった)

働ける!技術を身につけて自国に貢献したい!日本は治安が良くて安全だ!そんな希望を持って来てくれたであろう技能実習生のみなさん
実習先で酷い仕打ちを受けたという話をいろいろなメディアで目に耳にしていつも本当に悲しくなる
ただ、受け入れ先が中小企業の場合、一緒に働くにあたっていろいろな面で余裕がないのでは?とも思う(だからといって酷い対応をしていいというわけではない)
だから、そもそもマッチングがうまく機能していないのでは?と思っている

技能実習生に密着したある番組で、自国に帰るある人が「自分の国にやっと帰れるのが嬉しい」と話していた
果たしてこれが技能実習生、そして日本企業が望んでいた結末だろうか?

このままでは、日本は国内からもそして世界からも
憧れられない国、選ばれない国になっていってしまうかもしれない

例えば…誹謗・中傷について

ときどき、X(旧Twitter)を見ていて嫌になる
何をそんなにも言わなければならないのだろうか?

自分と違う意見・思いがあるのは当たり前
そりゃわかりあえたらとってもいいかもしれないけれど
違う人間である以上、100%細部までわかりあえることはありえない
だからわかりあえなくたって仕方ないじゃないか
でも、それが相手を攻撃していいという理由にはならない
他者に干渉しすぎなのではないかとも思う

たとえ受け入れられなくても
たとえ理解できなくても
そういう考えもある
そういう人もいる
これでいいじゃん

なんでそうならないの?って思ってしまう

自分のことだって100%わからないのに
他者のこと100%なんてわからない
血が繋がっていようがいまいが自分以外はみな他者なのだ

わからない同士だから
「お互いさま」という言葉があるんではないのか?

わからないから想像する

でも、どれだけ想像しても
その想像が及ばない範疇がある

すれ違う人
隣のテーブルでご飯を食べている人
電車で隣に座っている人
横断歩道の反対側でスマホをいじっている人
どんな人生を歩んできたかなんて分からない

お金持ちそうに見えても
幸せそうに見えても
自分とは生きる世界が違う世界に見えても

話して聞いてみるまで
その人のことはわからない
もしかしたらすごく親近感の湧く人かもしれない

どれだけ想像しても
自分が経験していないことを想像するのは難しい
近しい人にいない職業や立場の人のことは
何かを考えるとき、何かを話すとき、
思考の外側にあってなかなか慮り度が薄かったりするかもしれない

私の場合で言えば
恋愛している人が悩んでいる気持ちや
お子さんを持つ親の気持ちなどは想像しにくい

そう…自分の当たり前と他者の当たり前は違う

例えば飲み会で飛び交う恋愛話
きっと悪意がいる人はいないと思うのだが
とりあえず恋愛話をしようとなる
恋愛話を話したり聞いたりすること=楽しいもの、盛り上がるもの、誰もが話せるもの
誰しもにこの等式が成り立つわけではない(私も成り立たないひとり)

本当に1人ひとり違う

カテゴライズできるものではない
表面だけ見て決めつけることはできない
どっちか正しいとかもない むしろどっちも正しいのかもしれない

それぞれ抱える事情があり
人には言えない苦しみがある

それはなかなか計り知れるものではないのかもしれない
思考や想像には限界がある

でもだからこそ
他者の気持ちを慮り寄り添うことは
心底あたたかいものだと思っている

わかりあうという終着点を求めてもいいけど
まずはもっと手前でもいいんじゃない?

受け止める そして 認める
まずはそれでよくないかな?

だからもっと対話をしよう
会話でもなく議論でもなく対話

対等な立場で 心の深淵まで

互いの違いをありのまま受け止め
理解しようとする試みを

そうして隣人の
この世界の有り様(ありよう)に触れて

その手触りを感じとって
温度を確かめていこう

#多様性を考える

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