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真面目に生き、勉強を頑張ることで市民権を確立させていた中学校時代

小学校時代に続いて中学校時代を振り返ろうと思う。

私の中学では通学路の距離が3km以上ある生徒はもれなく自転車通学が許されていた。(例外として、運動部に入っている生徒は2.7km以上で自転車通学できた)

私はというと家から中学校までは3.3km。もれなく自転車通学が許されてた生徒だった。


バドミントン

そして、バドミントン部に入った。運動がからっきしダメなのになぜ運動部に入ったのか?
理由はたいそうなものではなく、幼馴染が入るって言ったからついていった、というよくあるもの。そこに自分の意思はほとんどない。実際強豪でもないし、そんなに大変じゃないだろうという軽い気持ちで入った。この予想は半分アタリで半分ハズレだった。

部活は朝練と放課後練の1日2回。信州の冬は道が凍っている❄️。凍えながら朝練の開始時間に間に合うように自転車を漕いだ。

朝練は7:10スタートで朝の学活が始まるまで。まず走り込み、ラダー、素振りをする。人生において“走る”という行為はなるべくしたくなかったのだが、走ることになってしまった。個人的にはここで一生分走ったと自負している(えっへん🥸)

みなさんもご存知のように、バドミントンは風が天敵。体育館であっても、空調によってシャトルの軌道は変化する。だが、バレー部とバスケ部も体育館を使うので、体育館の使用は交代制。だから、外練の日もあった。そのうち近隣の小学校の体育館を使わせてもらえるようになり、放課後の外練は体育館練になった。

人数はというと、私が1年生で部活に入ったとき、なぜか3年が1人もおらず、2年も女子5人という人数の少ない部活だったのだが、1年が34人も入るというおかしなバド部ピラミッドができあがっていた。だから、コートの使用も順番待ち。待っている間は素振りや筋トレなどをする。
とまあ簡単に紹介するとこんな感じ。

近隣の中学校のバドミントン部の数が少ないので、他の部活は塩筑大会からスタートするのだが、我々は中信大会から。3年間ともダブルスでエントリー。なぜダブルスにしたのかだが、1人じゃ寂しいから笑。私は結局3年間1勝することもなく終えた。正直勝ち負けはどっちでも良かった。(相方にはそんなこと言えなかったのだが…)

今振り返ってみると、いい思い出だった。部活に入った分、友達と一緒にいる時間も長かった。そして、大きくなってからバドミントンをしたときに運動神経が良い人とも対等にできる(もしくは自分の方が上手い)のでめちゃめちゃ楽しい。それはやっぱり運動できないなりに3年間やったからだと思っている。

市民権の確立

クラスでの立ち位置は勉強できるキャラ。というかそれが自分の得意分野だと思っていたし、他にできることがなかったからそこを頑張るしかなかった。引き続き進研ゼミも続けていた。他のことはできなくても、勉強を頑張っていれば、少人数教室では一番上の組に入って仲良くできる。他のことでは見向きをされなくても、勉強を通して地位を確立し、会話する手段を確保していた。

人間関係

私は、プラスに思われたいよりもマイナスな印象を持たれたくない(プラスな気持ちを持ってもらいたいよりもマイナスな感情を抱いてほしくない)という意識の方が強いのだが、それは中学時代に始まったような気がする。

今振り返ると、小学校時代よりも確実に自我が芽生える中学校時代というものは、みんな口には出さないが、互いに変に意識し合い、牽制し合い、時に群れ、時に逃避するような人間の集合体だと思う。

私は引き続き目立つことが怖かったので、じゃんけんでやりたくないことをやることになったときは人のせいにしていた。「ほらみろ!」「もしそれで悔しがったりイライラしても俺のせいじゃないからな」「お前らが悪いんだからな」と心の中で叫喚していたことを思い出す。

それから、これもとても良くないことなのだが、クラスメイトや友達を人間的に下に見ていた。しかも、口には出さず陰で密かに心で想うという形で。ヤンキーに憧れる人、制服をだらしなく着る人、整列しているときにすぐにしゃべり出す人、トイレで髪の毛にワックスをつけてカッコつけている人、黙って掃除をしない人️(これは信州特有の無言清掃というものがあるから)、先生に口ごたえする人…そんなことをする意味が理解できなかった。自分は別に同じようにしたいけどしていないのではなく、そもそもそんなことをしたいと思わなかったから余計だ。みなそれぞれの理由があってそんなことをしていたのだと思う。もしかしたら何か自分の中で消化しきれない想いのやり場が分からず、仕方なく表現したものがそういう形だった、というだけのことなのかもしれない。

そんな人たちのことを、自分は、「そんなことやるなんてマジ子どもだな」と思いつつ、悟られないように息を殺して日々中学校生活を送っていた。というか、そういうふうに生きるということしかできなかった。これを真面目というのか分からないが、当時の自分としては、真面目に生きるという生き方しか知らなかったし、できなかった。そしてそれが正解だと信じてやまなかった。だから、周りのクラスメイトからは真面目でおとなしい子、という印象だったと思う。そう思われることが何よりの安心だった。目立って何か思われるより、何も思われないということの方が当時の私にとって重要だったからだ。

恋?

そんな私が恋心的なものを抱いたのは中1のとき。相手は幼稚園が一緒で中1で同じクラスになった子。結局中1の最後まで告白できず、中2になってからノートの端をちぎり、「好きです」と書いて、通学路が同じ方向の友達に渡してもらうように頼んだ。どうせ返事は来ないだろうと思ったのだが、まさかまさか返事が来た。小学校時代同じクラスだった女子に休み時間の理科室の廊下で渡されたのを鮮明におぼえている。断りの内容だったが、特に辛いとか苦しいとかいう気持ちもなかった。しばらくは捨てられなくて、生徒手帳に挟んで持っていた。だけど、ある時別にもういらないかと思ってビリビリに破って捨てた。

その後も好きな人ができた。相手は幼稚園が一緒で小学校は同じだけどクラスが違い、中2中3同じクラスだった子。またもや告白しないまま時は過ぎていたが、学力が近いこともあり、よく勉強の話をしていた。結果はというと、メールで告白して断られた。

高校受験

どの高校に行くか考えるのが遅かった気がする。特に基準も何もないからとりあえず進学校、父親の母校にでも行こうか、なんて軽く考えていた。テストの点数を仲の良いメンバーと競ったりしていたが、中3のいわゆる総合テストでテストの点が下がっていた。

そこで工業高校という選択肢が出てきた。自分の点なら後期試験でも確実に突破できるだろうと思った。小学校時代から市のものづくり教室的なのに通っていたし、当時信大工学部を見学したりしてものづくりに多少興味があったからだ。

結局工業高校を選んだ。いつもしゃべっていた成績上位メンバーたちからは「なんで普通科行かないの?」と何度も聞かれた。なんて返したのかあまりおぼえていないが、はぐらかしたかもしれない。

試験は前期を受けた。評定と志望理由書、面接で合否が決まるもので、筆記試験はなかった。そして無事合格した。ちなみにその時、ウイルス性の胃腸炎に罹り、結果は家のパソコンから見たのだが笑

余談:かわいいキャラの原点?

私は、ベビーカーに乗っている幼少期「女の子?」と頻繁に聞かれた(らしい)。そして、その後もかわいいと言われてきた。時にはクラスメイトの男子、女子からも。男子なら「かっこいい」と言われたい年頃なのだと思うのだが、私はというと、「かっこいい」と言われたい願望もなかった。それに「かわいい」という言葉に嫌な気もしなかったし、嬉しい気もしなかった。

ただ、「自分はかっこいいと言われる部類ではないんだな」「今後もかわいいというふうに言われるのかな」とだんだん思うようになった。

そしていつしか、「かわいい」は私を縛り付ける言葉になり、「必要時にはかわいいキャラでいくしかないのかもしれない」と悟り始めた。そう思ってからは、男性だからとか、特に性別を意識して生きることは少なくなっていった。

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