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「『あいちトリエンナーレ 表現の不自由展・その後』について」

世間を賑わせている、あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」
を巡る騒動について。

この国では、憲法によって「表現の自由」が保証されている筈が、その実、自由が脅かされてきた過去が確かに存在する。
タブーであるとして表現の自由を奪われ、公開されることのなかった作品に焦点を当てる、というのがこの展覧会の趣旨と考えて良いと思う。

しかし、いざ始まってみると、
慰安婦像や、天皇の写真を燃やす映像などが問題視され、
大量の抗議、政治的介入、放火を示唆するテロ予告などを受け、公開中止に至った、というのが事の顛末のよう。

イベントの仕掛け人である津田大介氏批判と、その裏で各分野の表現者たちによる表現の自由を取り戻すための声明の発表など、騒動はますます大きくなる一方。
SNS上でも活発に議論が交わされ、一意見を述べると反対の主張を持つ人から叩かれ、といったことが起こっている様子。

ただ、僕個人の狭い観測範囲で大変恐縮ではあるのだけれど、
一連の騒動を見ていると、異なるレベル同士の主張をさも同列のように扱ってしまい、余計に問題が複雑化しているような気がした。
なので、僕なりに現時点で見受けられたこの騒動の問題点を分類してみた。


1. 作品が差別的・反社会的であるか否か

2. 津田氏をはじめとした主催者側に差別的・反社会的な意図があったかどうか

3. どんなに過激な表現であっても、表現することそのものの権利と自由は守られるべきか否か

4. 反社会的な作品を、公的資金を用いて公的な施設で公開することが適切か否か

5. 作品の公開を、政治的介入、テロ等の暴力的な手段(予告も含め)で抑圧する行為が許されるべきかどうか


大きく分けてこの5つの問題があるように思えた。
その上で現在の激化する騒動を見つめ直してみると、

「表現の不自由展」に対して否定的な意見を述べている人の多くは1、2を問題にしているようだ。

一方で、表現の自由が守られるべき、と主張する人の多くが問題にしているのは主に5だ。

「作品の内容」を問題にしている人と、作品を公開中止に追い込んだ「手段と結果」を問題にしている人が言い争いを続けているのは、はっきりいって論点がそれぞれずれていていつまでも平行線のままな気がする。

分かりやすい(と僕が思う)方から順に考えていく。

5に関して、少なくともテロによる表現の抑圧に賛成する人は殆どいないと思う(というか、思いたい)。
表現云々を持ち出す以前にただの卑劣な犯罪行為でしかない。

次に1に関してだけれど、一度冷静に観察し直したいのは、5の立場に立って「表現が卑劣な手段によって抑圧されるべきでない」と主張する人たちの多くは、別に今回問題になっている慰安婦像や、写真を燃やすという行為を賞賛してはいないのではないかということ。

だから、5を問題にしている人たちに対して
「こんな冒涜的な行為を許すのか」
と問い詰めるのは、詰め寄る相手が違う気がする。

作品の良し悪し(倫理的な問題含む)と、表現の抑圧の問題を同じ地平で論じるべきではないと思う。

そしてこの両者の態度がつまるところ、それぞれの3に対する態度に関係している。

1を問題にした人たちが、行き過ぎた表現は規制されるのもやむなしと考えること。
5を問題にした人たちが、一度公開されたものが暴力に屈して抑圧されてしまうことこそ表現の不自由そのものではないか、あってはならないことだ、と憤ること。

双方の主張がぶつかっているとすればまさにここだろう。

ここで、問題を複雑化している非常に微妙な要素が2と4。


2に関して。

SNS等を中心として、津田氏が表現の不自由展について言及した映像が出回っている。

「あいちトリエンナーレの中で一番ヤバいのがこれ(表現の不自由展)」
と、愉快そうに語っている。
天皇の肖像を燃やすことについても言及があり、「二代前だし、歴史上の人物かな、みたいな(笑)」などと発言している。

この極めて愉快犯的な、「表現の不自由展」というお題目を笠に着た炎上マーケティングとも取れる態度。  

この津田氏の態度に問題があるのは事実で、イベントを取り仕切る立場の人間として取るべき態度ではないしこれが批判されるのは当然だろうと思う。

(その一方であの動画はお酒を飲みながらの歓談といった様子だったので、陽気な態度をそのまま受け取るのもどうかとは思うけれど)


そして4。
このあいちトリエンナーレが公的資金によって推進、運営されたイベントであるという問題。
反社会的な作品をその「社会」そのものの支援を受けて公開するのはどうなの? という意見がある。

これがもし、津田氏が私財を投じて開催したイベントであればまた少し反応も違ったのかもしれない。
当然それでも批判は避けられなかっただろうが、「アンダーグラウンドな表現活動」という視点で見れば違った味方をする人もいただろう。

だから、「適切な場」だったのか?という「議論」はされてもいいのだと思う。
あくまで、一方的な抑圧ではなく、議論。

また、今回の「表現の自由展」は、2015年に比較的小規模なギャラリーで開催されていた展覧会の、いわば続編に当たることは明記しておく。


ところで、ここで個人の意見を述べれば、あらゆる表現の、「表現することそのもの」は否定されるべきではないと思う。
もちろん、批判に晒されるのを承知の上でならば。
また、それが(内容の良し悪しではなく表現自体が)認められている場所でならば。

要するに、公衆の面前で「これが自分の表現だ」として全裸になれば捕まる。
展覧会で、自分の作品を取り扱ってもらえるかどうかはその会場の管理者やスポンサーなど、いわゆるパトロンの思惑(コンセプト)に合致しているかどうかによる。

しかし、自宅に人を招き私的な個展を開催したのであれば、その表現は法に触れない限り自由であるべきだ。

そして、パトロンの合意が得られ、もっと開かれた場所で公開されたのであれば、その空間内においてその表現の自由は保証されるはず。

例えば、スポンサー企業の経営が悪化した、だとか、二次的な事情でイベントそのものが中止になることはもちろんあるわけだけれど、それらはイベントを作り上げる関係者たち、という意味合いでいえば「内輪」の事情だ。

実際に公開されたものを「気に入らないから」と言って外部から干渉して中止に追い込むことはあってはならない、というのが概ねの見解。

確かに、倫理的に問題のある表現があったのは事実(※後述)だと思うし、
本当に適切な場だったのかという議論はあるだろうし、
愉快犯的な津田氏の態度には問題があるのだけれど、
そういった「この件固有の問題」と、力(暴力や権力)によって抑圧するという、「表現の不自由」の問題は分けて考えたい。

ここで、あいちトリエンナーレ公式HPに記載されている、表現の不自由展に関する解説を引用してみる。


「表現の不自由展」は、日本における「言論と表現の自由」が脅かされているのではないかという強い危機意識から、組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品を集め、2015年に開催された展覧会。「慰安婦」問題、天皇と戦争、植民地支配、憲法9条、政権批判など、近年公共の文化施設で「タブー」とされがちなテーマの作品が、当時いかにして「排除」されたのか、実際に展示不許可になった理由とともに展示した。今回は、「表現の不自由展」で扱った作品の「その後」に加え、2015年以降、新たに公立美術館などで展示不許可になった作品を、同様に不許可になった理由とともに展示する。 


 こうした表現が抑圧されてきたという事実。

何故、これらの表現は抑圧されてきたのかという観点。

そしてそもそも何故、そうした「タブー」な表現が生まれるに至ったのかという疑問。

その意味を問い、歴史的な文脈に目を向けさせることこそがこのイベントの趣旨(のはず)であり、あるべき姿だったのだと思う。

(念のため)繰り返し強調しておくが、僕個人は津田氏のこの企画に対する姿勢については受容できない。

それでも、上記に挙げたこの企画の趣旨が正しく扱われるのなら、示唆に富んだ貴重な「機会」だったのだと思う。

元々が上に挙げたようなコンセプトなのだから、人によって不快な思いをする展示なのは当然。
だからこそ抑圧されてきたのだから。
それを敢えて見せることで、歴史の光と影を新しい角度から浮き彫りにすることに意味があるのであって、
美しい作品ですね、素晴らしい芸術ですね、と褒め称えるための展示ではそもそもない。

これが駅前など、誰の目にも触れる場所に展示されていたのならともかく、決められた会場内で催される企画なのだから、極論を言えば
「嫌なら見なければいい」
ということになるのだろう。


例えば、その時代における反社会的な表現であったとしても、

「GHQ支配下にある戦後日本で、アメリカを批判する絵を多く残し、最後まで戦い続けた無名の画家の作品を初公開」

「ナチス支配下のドイツで、ユダヤ人の誇りと反ナチスを人知れず詠い続けた詩人の知られざる生涯」

みたいな内容であれば僕らは興味深く鑑賞したのではないか。

歴史の教科書にも、西欧諸国の権力者たちを面白おかしく描いた風刺画が資料として普通に載っているということもある。

世の中には、綺麗な表現だけが存在しているわけではない。
綺麗な表現だけを見たいのであれば、そういう場へ赴けばいい。
綺麗なものも醜いものも、肯定される作品も、否定されるべき作品も含めて正しく理解しようと試みることが少なくとも歴史研究としては重要な態度だろうと思うし、
作品の鑑賞者の態度としては、不快感を覚えたのなら何故このような作品が生まれたのか、その意味するところを考えることにこそ意味があるのだと思うし、
そんなわざわざ不快な思いをしたくないよという人は見なければいい。
見るも見ないも自由。
ただ、どこかにそういう表現があること自体をも否定してはならないということ。


今回の「表現の不自由展」に関して、どういう対応が最も望ましかったのか、という点に関して、僕の中では答えが出ていない。

ただ少なくとも、暴力や権力の行使という誤った手段で中止に追い込むことはあってはならないという意見だけは持っている。

それは、他の多くの人も既に述べていることだけれど、気に入らない表現を今回と同じ手口で封じ込めてしまう、その前例を作ってしまうことにもなるから。

また「抑圧されてきた作品をその理由とともに公開し、考えるきっかけを与える」というそもそものコンセプト自体は有意義なものだったとも思う。

ただそれでも公開する作品や方法が、(TPO的な意味合いも含めて)ベストだったのかどうかは分からない。

しかし、ベストじゃなければ表現してはいけない、ということにもならない。


表現の自由という意味を今一度考えること。
そして、その時代に、そういう表現が生まれた意味を考えるという鑑賞者の態度を養うこと。
そういうことが改めて求められている一件のように感じた。

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