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一人称とアイデンティティ

みんなは自分のことを他者に伝える際、一人称をどうしているのだろう。
一人称に対して気持ち悪さや収まりの悪さを感じている人がどれだけいるのだろう。

僕は自分の話をしなければならない時、いつも心に微かな違和感を感じながら自分のことを呼称する。

きっと多くの人がそうであるように、僕は相手やシチュエーションによって一人称を使い分ける。

職場では「私」
友人相手なら「おれ」
Twitterやnoteなどの媒体における書き言葉では「僕」

というように。

と、ここまで書いてふと思ったけれど、女性は男性に比べて一人称が限られるような。
もちろん
「僕」
「うち」
「(自分の名前やあだ名)」
などを用いる人もいるだろうけど、数の問題としてはやはり「私」が圧倒的だろうか。

「私」
「わたし」
「あたし」

表記や発音での区別は多少あるけれど、男性の場合のプライベートとビジネスの
「俺」↔︎「私」
の使い分けほど明確に一人称の区別を要求される場面って少ないのかな。
想像でしかないけれど。

話が逸れた。
職場、プライベート、書き言葉で一人称を使い分けているという話。

「私」は未だに慣れなくて、今でも上司に対して「僕は」と言ってしまったりする。
砕けたやりとりの時は別に良いのだろうけれど。

親しい間柄、同世代の人との会話では「おれ」を使うことが最も多い。
しかし、かつては面と向かっての会話でも「僕」を使用していた。
では何故一人称を変えたのか。
小学校高学年の時、クラスメイトに笑われたのだ。
「うわ、『僕』だって(笑)」
という具合。
みんなもいつ頃かまでは「僕」と言っていたはずなのに、いつの間にか「俺」にすんなり移行していた。
僕は乗り遅れたのだ。

それがどうにも恥ずかしくて、僕はぎこちないながらも、徐々に「おれ」に移行していった。

しかし、どうにも背伸びをしているような、小さい自分を大きく見せようと虚勢を張っているような違和感が拭えなかった。
メールやLINEでの会話でも友人相手なら基本的に「おれ」を用いるが、少しでも柔らかな印象にするための苦肉の策として平仮名表記にしていたりする。
「俺」は自分の心にそぐわない気がしていた。

慣れとは恐ろしいもので、今では自然に「おれは」と口にできてしまう。
ただ、それでも今もふとした時に「僕」と言ってしまったりする。

そして、自分の中で「おれ」が定着し、ようやく馴染んできた頃合いに、ふと「僕」と口にすると逆に小恥ずかしいような気持ちになったりもする。
鎧が取っ払われてしまったような気になるのだ。
きっと自分の思う、自分の心のスケール感とか、強度とか、性質といったものを言い表すのには「僕」が最も近いと感じていて、それだけに普段ひた隠しにしている部分が剥き出しになってしまうような恥ずかしさを覚えるのだと思う。

それでも書き言葉での「僕」と話し言葉での「おれ」を使い分けているうちに、どちらも嘘ではないと思えるくらいにはその言葉と自分の距離が縮まったように感じる。
一方で、「僕」を用いている時の自分と「おれ」を用いている時の自分は年々乖離していっているようにも感じている。

「本当の自分」なんて言うつもりはなくて、どちらも自分には違いないのだけど、誰でも抱えているような自己の中の二面性やある種のモードに、それぞれ名前を付けてあげたような感覚。
ただ、他者との関係性や会話におけるニュアンスは目まぐるしく変わり続けるため、ON/OFFのように明確に切り替えられるものでもない。
そして、その一回の会話の中で一人称をころころ使い分けると流石に変な顔をされてしまうので、きっとこの先も、しっくり来なさを感じながら人と関わっていくのだと思う。
僕は。

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