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普通の亡霊

「普通○○でしょ」と、根拠のない「普通」を振りかざして自分の意見を押し通そうと、自分の価値観が世の常識とイコールだと信じ込ませようとしてくる人々がいる。

あなたにとっての普通が世の中にとっての普通とは限らない。

誰かを否定するために、雑に普通を振りかざす人をとても恐ろしく感じる。

普通とは何だろうか。

辞書を引くと、

「特に変わっていないこと、ありふれたこと、当たり前であること」

などと出る。

今の世の中では、とかく普通であることが求められるようだ。
ひとたび個性を発揮しようものなら、疎まれ、煙たがれ、叩かれ、潰される。
協調性を重んじる日本人。
お美しいこと。

世に言う「普通のサラリーマン」
「普通の暮らし」がもはやこの令和においては相当裕福で限られた人しか得られない光景であり、全然普通ではない、みたいな話もあるけれど、じゃあ普通って何なんだろうか。
「普通の人々」はどれだけ存在しているのだろうか。

学生服、過剰な校則(拘束)、いじめ。
物心ついた時から僕らはみんなと一緒であること、輪からはみ出ない生き方を叩き込まれる。

肌の色や性的指向などに纏わるあらゆる差別も、自分の思う「普通」の枠外にいるものを許さない心理のように思える。

分からないものが怖いのだ。
自分と異なるものが怖いのだ。

類は友を呼ぶなどと言うけれど、臆病だから同じ「普通」を共有できる人と徒党を組んでいるに過ぎない。

だから誰に教えられたわけでもなく自然と男子と女子に分かれる。
思春期の子どもたちは大人を仮想敵に設定する。
その他にも細かく見ていけば、運動部と文化部とか、陽キャと陰キャとか、色々な対立構造があるだろう。

とにかく僕らはクラス、班、チーム、部活、会社、国、どこかに属しているという手応えなしにはいられないようだ。

そしてその自分が属するコミュニティの秩序を保つため、自分たちにとっての「普通」にそぐわない存在、異分子は徹底的に排除する。
いつか、自分が排除される番が来るかもしれないという可能性に目を瞑りながら。

そうやって加害者、傍観者の役を演じながら、あるいは被害者の役割を担いながら、
その社会に適合する「普通」の人間であらねばという強迫観念を醸造する。

ここまで飛躍すると、「普通の人」という言葉には、
目立たず慎ましく、周囲に迷惑をかけずに生きなさい、集団から浮かないようにしなさい、皆と同じように振る舞いなさいというような同調圧力が含まれているようにも思える。

「和を以て貴しとなす」とは聖徳太子の言葉だが、
これは本来
「みんな仲良くするのが良い、そのために議論をしなければならない」という意味合いで書かれたものだという。
しかし今の僕らは、分かり合うための議論すらせず、和を乱す者を許さない。
そのような排他的な空気がある。

繰り返す。
普通とは何だろうか。

運動会のリレーで一番だと目立つ。
逆にビリでも目立つ。
普通とはそのどちらでもない、ちょうど真ん中くらいの順位。

普通とは何だろうか。

どの方向にも突出していない、一番平均的な状態を指すのだとする。
最も平均的で、平凡で、取り立てて特徴のない状態。

それは言い換えれば、ありふれ過ぎて最も印象に残りにくいということではないか?

例えば、「普通の目」というものが存在するとする。
ツリ目でもタレ目でもなく、くっきり二重でも小さすぎる一重でもない、一番ありふれた、特徴のない目。

「普通の耳」があるとする。
「普通の鼻」があるとする。

そのほか、
「普通の身長」
「普通の声」
といった調子で、ありふれ過ぎて最も目立たない、印象に残らない要素だけを突き詰めた人間がいたとする。

「目立たない」の極致、誰の印象にも残らない透明人間のようなその人は、この世界で最も、一番、人々の記憶に残らない人間だ。
普通を突き詰めていった先にあるのがそのような「異常」なのだとしたら、これは矛盾してはいないか?
どこで何を間違ったのか。
ただただ普通であろうとしただけなのに。
あらゆる要素の「普通」を集めた筈なのに、
目立つ人/目立たない人
という二項対立の、極右に立ってしまうなんて。

毎年、親族などから届け出される80000人強の行方不明者の中には、誰とも軋轢を生じさせず、誰からも傷つけられることのない理想郷を追い求めて普通を突き詰めていった末に誰からも認知されなくなった透明人間も含まれているのではないか、とふと思う。
周りの顔色を伺いながら、浮かないようにと怯えながら普通を追及する僕は、まだ他の人から見えるほどには「異常」だろうか。


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