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親指ひとつで消えてしまえる僕らの

先日、僕の使用しているスマートフォンが壊れてしまった。
ソフトウェアのアップデートを試みた際に、何らかの理由で失敗し、それきり復元もできなくなってしまったのだ。
元々挙動がおかしかったので、寿命だったのだろう。
よく、電子機器が故障して電源が入らなくなることを「文鎮化」なんて揶揄したりもするけれど、まったく、スマートな文鎮もあったものである。

それにしても、いざスマートな文鎮を所有してみると、日頃如何にそいつに依存していたかを身を以て知ることになる。
まず、当然のことながら知人との連絡に不便が生じる。
幸い僕はPCも所持していて、LINEもインストール済みだったので親しい間柄の人には連絡を取ることができた。
Twitterのアカウントを知っている人には、故障の旨をアナウンスすることもできた。
しかし、ポケットWi-Fi等は所持していないため、出先ではやっぱり連絡が取れなくなる。

翌日に人と会う予定があったのだけど、あらかじめ待ち合わせの駅の、どの改札前で待っているか伝える必要があった。
電車の時刻や乗り換え駅等もあらかじめ調べてメモを取っておく必要があった。
何らかのアクシデントにより調べた電車に乗り遅れてしまうとどのルートを用いるのが最も速いのかの判断が付かず、待ち合わせに遅れてしまうことも考えられたので、あらかじめ到着時刻を待ち合わせの時刻よりも早めに設定し、確実に間に合うように家を出た。

無事に調べた通りの電車に乗ることができ、席には空きがあったため座ることもできた。
片道一時間程度。
途中で睡魔が襲ってきた。
普段ならこういう場合、スマートフォンのアラームアプリを使用して寝過ごしを防ぐのだけど、その手は使えない。
かと言って、その頃には電車も混み合ってきており、わざわざ立つのも憚られた。
そこからの約30分、意識を睡魔に明け渡す本能的な欲求との戦いが続いた。

どうにか睡魔に打ち勝ち、目的の駅で降りると、あらかじめ指定していた改札のなるべく分かりやすい場所を確保し、相手の到着を待った。

やがて待ち合わせの時間が過ぎたが、相手は現れない。
電車が遅れているのだろうか。
それとも何か不測の事態が発生してしまったのだろうか。
はたまた、事前に伝えてあった改札に対する両者の認識に齟齬があり、別の場所で待っているのだろうか。
不安が募る。
もししばらく経っても現れないようであれば、どこか公衆電話を探して電話をしてみよう。
そんなことを考えながら待っていた。

しかし僕は続けてこう思った。
平成も終わろうとしている今日この頃、公衆電話がそんなにたやすく見つかるだろうか。
ここを離れて公衆電話を探すのにあまり手間取ると、かえってすれ違いが生じるのではないか。

そして僕は一つの事実に思い至る。
そもそも、相手の電話番号を僕は知らなかった。
日頃のやり取りはもうLINEに一本化されており、メッセージの送受信も電話のやりとりもLINE頼みだ。
電話番号もメールアドレスも知らなかった。

そもそも、もし知っていたとして、スマホのアドレス帳を開かず、そらで言える電話番号やメールアドレスがどれだけあるだろう。
僕は、自分のと、それから両親の電話番号しか覚えていない。

唐突に、元々そんなには多くない僕と人との繋がりの希薄さ、というと大袈裟だが、自分と他者との繋がりが如何に不確定で頼りないものによって維持されているかを思い知った。

もしも、なんの前触れもなくLINEのシステムがダウンしたら?
もしも、ある日突然Twitterがサービスを終了したら?

Twitterしか知らない人なんてたくさんいる。
自分のバンドをたまに見にきてくれる人たち、好きなバンドのライブを見に行った先でよく遭遇する、ゆるい付き合いの人たち、たまに飲むような距離感の友人たち、SNS上で僕の活動を応援してくれたり、たまにやり取りをする人たち。

それどころか、世の中のトレンドがガラケーからスマホに移行して以降に知り合った人たちの多くは、どんなに仲良くてもLINEしか知らない人たちがほとんどだ。
自分のバンドメンバーの電話番号すら知らない。

この日は元々人と会う予定があったので外に出たが、この頃僕はちょうど長期休暇中で、家にいることが多かった。

このままスマホを修理しなかったら。
LINEやTwitterのアカウントを削除してしまったら。
ほとんどの人との繋がりは絶たれる。
仮に心配してくれる人がいたとしても、安否を確認する術はない。
それこそ警察のお世話にでもならない限りは。
僕の自宅の住所を知っている人もほとんどいない。
自宅に遊びに来たことがある人は数えるほどしかおらず、年賀状のやり取りもなくなったからだ。
とはいえ、日常的にやり取りをしている人なんてそう多いわけではない。
大多数の人は僕の不在にも気づかないだろう。

そうして、僕は擬似的にこの世界から消えてしまう。
親指ひとつで。
いとも簡単に。

きっと、消える時も親指から消えていくのだろう。
細かく編まれたセーターが、右手の袖口から解けていくように。
そして最後に左足のかかとが消えて、それでおしまい。
アカウントごと削除して、文字通り「足跡」も残らない。

思い返してみれば、TwitterにしてもLINEにしても、かつて関わりのあった人たちにブロックされていたり、サービス自体を退会していたりしていつの間にか消息が分からなくなっている人なんていくらでもいた。
彼らは文字通り、僕の世界からは消えてしまった人たちだ。
最後の瞬間、親指が画面に触れる直前、そんな想像をした人がいるだろうか。
その人にとってみれば取るに足らない繋がりで、何のためらいもなく消してしまえただろうか。
それとも、自覚的に、自分の存在を消すという明確なイメージを持って、それを押しただろうか。

人間関係は双方向的なものだ。
こちらの思惑に関わらず、相手がひとたび親指を振り下ろせば、繋がりは消えてなくなる。
もちろん逆もまた然り。
僕らはそんなに脆くて儚い繋がりを大切に守っているのだ。
そんなに脆くて儚いからこそだろうか。

この細い繋がりは、ここに居ても良いのだというささやかな許しのようでもある。
僕はまだここに居ても良いのだ。

そんなことを考えていたら、待ち合わせをしていた相手が僕の肩を軽く叩いた。

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