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大学生活観察日記22 意味を手放したところで起きること

5/9(火)


いや〜今日もお疲れさまでした。今日は午前で大学が終わったのですが、午後に2人お会いする予定が入っていて、帰宅は21時半になりました。

初めてお会いする方と、ちょくちょくお会いする友人です。

どちらもとても面白かったです。共に、新たに動き出すところがありそうです。


友人が哲学をやり始めたようです。頭の中だけの議論ではなく、自分のこれまでの生き方から生じてきた関心を、これからの生き方へと現実化していくための手がかりなのかなという印象を受けました。彼が哲学にむけている関心の方向性が、僕が大学の他学部の授業を受講する中で持ってきた関心の方向性と重なるところがあり、これからどのように展開していくのか、話を聞かせてもらうのが楽しみです。僕が関心を持ってきたのは、「聞くこと・話すこと」です。相手の話を相手の話として聞くとはどういう営みなのか、そこでは自分の話を自分の話として聞くことも求められるし、その試みのなかで誰かとおしゃべりすると、話の内容に意味がなくても、なぜだか互いに元気になることがしばしばあるなと感じています。今日はそんな日でした。

そして、そういう話の聞き方を試みていく中でそのように元気になるとき、リバランスワークで相手に触れている時に生じていることととても近い出来事が起きている感じがします。

触れるとき、相手との関係性がそこで生じます。その関係性は、自分でも相手でもなく、同時に自分でも相手でもありながら、自律的に動き出します。その動きは、既知の世界・これまで自分で「これが世界だ」と思っていた世界の外側へと連れて行ってくれます。それは思いもよらない世界だから、少し怖いけれど、同時に未知の体験であり、知らぬまに閉じこもっていた袋小路からの出口でもあります。怖さを大切にして、その体験を経験していくとき、自律性というか、私たちが生きているということの豊かさに触れる気がします。出会うことは、見知らぬものと出会うことです。初めて海を見たときのような、新鮮な体験です(海なし県で生まれ育っているので初めて海を見たときの感動はひとしおでした)。

そして、それを経験したあと、なぜか元気になります。「なぜか」と言ったけど、まあそりゃあ元気になるわな、という気持ちもどこかにあります。


僕は誰かとおしゃべりや施術をする中で、そういうことをやっているのだと感じました。友人がそれを教えてくれました。彼は別の人と話すときは会話が直線のような感じがして、壁打ちをしている気持ちになることがあるけれど、僕と話すときは、ぐねぐねと無意味に進んでいく、と言ってくれました。とても嬉しかったです。

意味という力感のないところで、生じるできごとには、味わいが宿るようです。理由はないけれど、面白い。味わい深い面白さがあります。

彼は、今日僕に相談したい具体的な困りごとがあったのですが、その話は最初の30分くらいでなんとなく終わり、残りの2時間半くらいはぐねぐねしていました。その困りごとについてはっきりと解決策を話し合ったわけではないのですが、帰るころには、解決策が見えてきたようです。解決策が見えてきた、というよりは、解決策は二の次で、何か心持ちが変わって、結果として解決策が見えてきたのではないかという印象を受けました。いい顔をしていたので僕も嬉しかったです。

むしろ、問題を問題として解決に直線的に向かおうとするとき、案外袋小路に入るのかもしれません。直線的に向かうこと自体が、ぐるぐるの袋小路に向かっているとしたら、そもそも直線に進路があるというのは思い込みで、最初から袋小路にいたのかもしれません。むしろ、問題をはっきりと問題とせず、ふくみやゆとりを大切にしたまま、ぐねぐねと会話が生じるままに、出来事が起きるのにノっていくと、解決は直線の先にあるのではなく、真後ろにあった、ということが起きるのかもしれません。すいません、めちゃめちゃ抽象的です。でも感覚的にわからないではないのではないかと思います。真後ろに解決があった。開けた。風通しがいい。


さて、今日は大学の話を全然していません。でも今学んでいることが、身についているものは身についているのだと、感じる日でもありました。まあ、身についていないことの方がたくさんありそうですが、今は顔を出していないだけで、いずれどこかで顔を出すのかもしれません。ほんとかよって感じですね。精進します。


あと、今日ふと思ったのですが、小中高とずっと歴史が苦手だったのですが、今は経営史のゼミに入り、経済史の授業を二つ取り(前の学期でも経済史をとっていました)、そして武術を通して過去の身体を顧みようとしています。とっても歴史っぽいことをやってる!ええ〜〜俺が? 今朝これに気づいて驚きました。

別に今も歴史は得意じゃないです。でも、これまで苦手意識を持ってきたのはなんでなのか、少しわかった気がしました。それは、歴史は人が書いてきたもので、国家が書いてきたもので、無数の現象が起きていた過去を単線的に、そして権力的に物語っています。それを「これが過去に起きたことです」って言われると、うーーん、それは確かに事実ではあるんだろうけど、その編纂したやつはどこのだれ?って気持ちになって、小中高時代は暗記などする気が起きなかったのでした。それと、過去を振り返るのに、今の感性をもってして振り返れば、それは過去そのものを理解することにはならず、過去に現在の感性を映し出していることにしかならないんじゃないか、とも感じました。それを踏まえた上で、現在の我々の感性を過去に見て、相対化し、その投影像の向こう側にある過去そのものに出会おうと試みるのなら、納得して暗記もできたのかもしれませんが、投影像を一旦問いに付す過程が踏まれないままで「過去」として学ぶのは難しかったのだと思いました。

これは武術の稽古の中で(まだ始めたばっかで何もわかっていないのですが)、過去の身体経験が型などを通じて残されていることを知って、その型などを現在の感性から形だけなぞっても、過去の経験の理解にはつながらないのだということを知ったことに影響されています。過去の経験の理解には、過去の経験をそれとして捉えることが必要なようです。

今、一応歴史に関心が向いているのは、歴史そのものに興味があるというわけではなく、当時の人々の暮らしに自分たちの暮らしを見て、その向こう側にいる過去の人たちにとっての現実に出会おうと試み、記述に残らなかった大多数の存在を想像することで、今の自分の感性や当世の人々が持つ世界観を相対化したり、それらがいかに形作られてきたのかを探ることが面白いからかもしれません。面白いというか、自分の外側にでるって感じがします。出なきゃ!という強迫観念のようなものもどこかあります。

来週から、身体について最も真摯に探究されているうちの一人だと思う武術家の方のところで、月に1回稽古をしてきます。めちゃ楽しみだし、すでに畏怖も感じています。


ちなみに、ゼミの輪読でE・H・カーの「歴史とは何か」を読んでいます。小中高と歴史、あるいは「歴史」という科目に感じてきた不満を、少し紐解いてくれる本のような気がしています。

それにしてもゼミの輪読課題、マジ多いです。週に1冊、そして同じ先生の授業で今週はもう1冊あります。自分でも読みたい本があるので大変です。

以前スケジュールを組んだおかげで、なんとかなりそうですが、今日ゼミの友人と読むの大変だねって話していました。

読みながらじっくり考えるようなこれまでの読み方をしていると間に合わなさそうで、頭が働いてなくても流し読みしてしまいます。でもスケジュールで割り振ってみると、意外ともう少し丁寧に読んでもなんとかなりそうだという気もしています。

ただ、こういう読み方をして、なんかもったいないなあという気もします。もうちょっと味わいたいとも思います。ただ、こういうサラサラっとした読み方はこれまでしてこなかったので、やってみるのもありかなと思います。色々な本に触れることができるのはいいなと思っています。


さて、21時台に書き始めたのに、長々と書いてしまって、もう22:51です。ありゃりゃ。でも、今日は書きたいことがたくさんありました。書いている時間自体はいつもと(だいたい)同じ1時間10分です。明日水曜日は授業をとっていないのと、予定を入れないようにしたので、明日はぼんやりします。家庭菜園に種まきしたいな。ぼんやりする時間が、大学生活や、大学生活に留まらず生活自体を、何か実りあるものにしてくれるように感じています。醸造・発酵みたいな時間です。

ではでは。おやすみなさい。


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