見出し画像

大学生活観察日記15 草が生えているのが地面のデフォ

4/25(火)

今日は大学から帰ってきて、ポチの散歩中に地面を見ていて、このタイトルを思いつきました。こういうことは、大学と地元を往復する中でしばしば思います。大学は文京区にあるから、地面はアスファルトに覆われていて、草は生えていません。隙間隙間に街路樹が植えられていて、でも、地面から生えている街路樹のすぐ周りをアスファルトとか、タイル的なやつが覆っています。いつも呼吸が苦しそうだなと思います。一方で、地元、埼玉県の片田舎に帰ってくると、アスファルトが割れていたりします。その隙間から草が生えていたり、アスファルトの脇から草がぼうぼうに生えていたりします。アスファルトが敷いてあるところは、「歩道」とか「車道」とか「縁石」とか、必ず意味や役割が当てられていますが、アスファルトの割れ目から出てきちゃった草は、ただ出てきちゃっているわけで、意味も何もありません。大学から家に帰ってくるたびに、そのことについホッとしています。

そもそもこのアスファルトが敷かれたのは地球史上ほんのさっきのことで、それまではこの地面のほとんどは土で、草や木が生えていたのだろうなと思います。文京区のエリアや地元の土地について専門的なことは分かりませんが、きっとそうなのではないかなと想像しています。この固い地面を、足元を気にせず歩けるようになって、歩きながら物思いにふけることができるようになったのはつい最近の出来事のはずです。昔も物思いにはふけったでしょうが、足元への注意は今よりはあったはずです。
今の僕らがものを考えるとき、足元が疎かになっている気がします。

今日、大学の教員の人事について裏話を聞きました。他の大学がどうなのか知りませんが、うちの大学の先生は、主にジャーナルに論文をたくさん出していると評価されて採用されたりするそうです。その先生の教育がどうのというのは評価されないそうです。特に経済学部はそういう傾向が強いらしく、評価順にリストアップして上から採用していくという話を聞きました。
この話は、ある友達から聞いたのですが、その友達はこれをゼミの先生から聞いたらしく、この事実に少し怒っていました。このような仕組みで教員を採用するから、教員には私たちの教育に力を入れるモチベーションもわかないだろうし、評価される研究が一番大事で、教育は二の次になるんだと言っていました。確かに授業に力を入れている先生は、先生の熱意があるからそうしているのであって、大学の構造上はそういう熱意はまあその先生が好きにやってくれって感じな気がします。

僕はこれを聞いて、なんか大学の人事と教員の中で、自分の人生に腹を括ってる人ってのは少ないのかなと思いました。実際に人事の人と話したわけでも、つまらない授業をする教員がなぜそういう授業をするのか聞きにいったこともないのでここからは妄想ですが。
大学の人事の方々は、誰を採用するべきか、客観的な指標を用いて選んでいます。それ自体が悪いわけではないと思いますが、例えば「この先生はすごいマイナーなことをやっていて論文数も多くはないけれど、私はとても重要なことをやっていると思うから、東大でこそ採用するべきだと思う」と主張する人事の人がいてもいいのではないかと思いました。いや、いるのかもしれません。でも、東大の教員を見る限りではあまりそんな感じはしません。
おそらく人事の人は、ある人を採用するのなら、なぜその人を採用するのかの根拠が必要で、それに対して「私がこれは大事だと思うから」ってのは「それってあなたの感想ですよね?」という仕方で軽んじられてしまうし、というかもしかするとそもそも自分が大事だと思うことも大してなくて、それでどんなジャーナルに論文を投稿したか、どれくらい投稿したか、というようなことが評価基準になってくるのかもしれません。それはもしかすると、内部で働いている人にとっては致し方ないことなのかもしれませんが、その致し方なさは、自分の大事だと思うことを表現しないでいる責任逃れの態度にもなっているのではないかと思います。

教員も教員で、授業への意欲の薄さを見れば(僕は前学期に死生学・倫理学を中心に他学部の授業をとったのですが、そこの先生方と比べると経済学部の教授は覇気というか、腹から出てくる言葉がないです)、自分が腹から興味のある研究ではなく、現在のポストを守るための研究を惰性でやっているのではないかとさえ思います。みんな口では自分の研究の必要性とかどうして大事なのかとかそれっぽく言葉にするけれど、そしてその言葉の意味だけを聞いていれば確かに大事そうな気がしてくるけれども、言葉の声色を聞くと声にハリがありません。誰かが大事だと言っていたから、みたいな感じのことを、自分の関心みたいに話している気がします。本当に関心があるなら、腹も足もあるような言葉が出てくるんじゃないかと思います。せめて胸からぐらいは声が出るのではないかと思います。空中浮遊した言葉がまかり通っています。そういえば、藤原辰史さんも、研究者にアパシー(無感動)が蔓延しているというようなことを言っていました。(参考:特別企画 藤原辰史「切なさの歴史学」前編 https://web.sekaishisosha.jp/posts/2840

そう、アパシーとやらが蔓延しているのではないかと、通学の電車の中でも、大学でも、思います。なんかこう、感動とかじゃなくても、「てめえこっちは本気でやってんだぞ」みたいなそういうのでも何かハリのあるものがあって欲しい感じがします。電車でも乗客は意気がないです。僕も電車に乗っていると息を殺しています。満員電車での周りの人々との身体の接触面では、自分の身体の活力を押し殺すことに慣れ、そのことによって同時に無力感を覚え、力を発揮できない苛立ちを感じ、その苛立ちが燻って焦れる。焦れるから焦って何かに駆られる。時の流れに隙間がなくなって、時間通りや予定通りを求めるし、時間通りに行かなかったときに大変になってしまうような仕事の仕方をしている。心の隙間・余裕もすでになくなっている。肩がぶつかって舌打ちをする。時折怒鳴りあう。それは無力感や虚しさの裏返しでもある。なぜ私はこう思っているのに、あなたはわかってくれないのか。だから「迷惑をかけてはいけません」と他人に言いたくなる。
「わかってくれない」という言葉が表しているのは、活力を押し殺したところにスタート地点をおいたゆえに自分を表現しきれないもどかしさなのではないか、という気がします。
この前、朝に畑をやって、爽快な気持ちで電車に乗ったら、自分の熱量と電車の空気がそぐわないように感じました。その日は、今にも動き出したい気持ちを抑えて、自分の熱量を我慢してじりじりとしながら電車に乗っていました。じりじりとするのは、焦れることで、自分の内側が焦げること・燻ることで、焦ることにもつながっているのだとその時に気づきました。この熱量を抑えずにそのまま表現したら「多動」ってやつに分類されるんだろうなと思いました。
近代化前の江戸時代の人たちはみんな「多動」だったという話を聞いたことがあります。確かに寺子屋の絵を見たら誰もまともに座っていませんでした。
そういえば、思い返すと子供のときはいつもこんな感じで自分の温度が電車と合っていませんでした。大人になるにつれて逆に声の大きい子供にいちいち反応したり、時にはムッとしたりするようにもなったけれど。

しかし、今日はこんなことを書くとは思いませんでした。
あまり大学の話はしていません。でも、思い返せば前学期も、大学の授業そのものより、大学空間を切り口にしたこういう学びの方が多かったように思います。
それにしても、アパシーってのが気になりだすってのは、自分自身の最近の気持ちを表しているように思います。最近のどこかの日記に書いたと思いますが(多分)、色々模索していて、疲れが溜まっています。なんとなく意識がはっきりしない状態でぼやーんと過ごしていて、授業を面白いと思うときと出る気すら起きないときの波が大きいです。授業受けていて、面白くないと、なんで俺こんなの受けてんだ?俺って何がしたいんだ?となります。疲れが溜まっているから、ぼやーんとするのか、ぼやーんとするから疲れが溜まるのか。そのどちらもかもしれません。
明日は丸一日休みのはずです。はず、というのは、カナダから日本に来ている友達が、急遽5月頭にカナダに帰ってしまうことが決まって、帰国前に絶対彼に会っておきたいので、彼の予定次第では明日会う可能性もあります。こうして予定が埋まっていってしまうわけですね。はは。
いろんな出会いが毎日あります。急に連絡をよこしてくれる人もいます。
自分で作り出した勢いに飲まれないように、予定がどうだろうが静かにいられる空間を大切にしたいです。
昨日はめちゃめちゃ疲れていたのですが、昨日早く布団に入ってたくさん寝たらかなり回復しました。今日もすでに激ねむです。毎日こうしてちゃんと疲れてよく寝てを繰り返していくうちにペースができてくるかもしれません。
いやー明日は休みだ。存分にゆっくりしようと思います。とは言ってもまたいろいろやっちゃう気もしますが。なので、積極的にぼんやりしていこうと思います!
アパシーは、無感動・無気力・仏頂面をやり抜いた先で穿つことができるのかもしれない、と思いました。

おやすみなさい!!

追記:
今さっき左背中が痛かったです。でも今はもう痛みが去りました。
思えば、ここ最近体が痛いってことがあまりなくて、その分日々めっちゃ疲れたり、沈んだりしているような気がします。
4月頭は、勢いに乗ってる感じでしたが、背中が痛くて仕方ありませんでした。
今はもしかすると、疲れとかの自分の速度をわりと大切にできるようになってきているのかもしれません。疲れたら疲れた〜〜〜〜とかしんど〜〜い、きつ〜いってやるし。痛くなっても痛みがいなくなるのが早いです。痛みが麻痺してるわけでもなくて、過ぎ去っている感じがします。
最近坂口恭平さんの本をよく読んでいます。尹雄大さんの本も読んでいます。お二人の言っていることで共通するのは、鬱のとき(坂口さん)や胚胎期間(尹さん)は、蛹みたいに中身が一旦全部ドロドロになって、何かに変わろうとしているんだと言うことです。これにはいつも元気づけられます。痛みとの付き合い方が知らぬ間に変化していたのに気づきましたが、これもまた胚胎期間の途中結果なのかもしれません。成長は嬉しいです。リバランスにもいずれ活かせそうです。
♪♪

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?