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激動の2022年

11月5日の清水エスパルス戦で、我々北海道コンサドーレ札幌の公式戦は終わりました。

残すはタイ遠征での2試合のみとなりました。

チームの振り返りは、選手、サポーター、スポンサー、パートナー、その他色々な人達や立場の人が、このチームに対して見えるものも違うと思うし、俺なんかがしなくても良いと思うので、割愛させていただきます。


今回は俺に関してのことを書きたいと思います。


激動の始まりは、ザスパクサツ群馬に所属していた2021年のJ2リーグ最終節の翌日の事。
翌シーズンの契約についての話があり、強化部からの通達は、今シーズン限りでの契約満了。
いわゆる戦力外通告。想定外だった。

正直な話、群馬出身の方と結婚もしたし、奥さんの家族や親戚の方、友人や知人の沢山の方が、ザスパを応援してくれたし、このまんまザスパでキャリアを全うするのも悪くないなと思っていた。
水戸の本間選手みたいに、俺は群馬のレジェンドになってやる!と

まぁ群馬の話は、またの機会に、違う記事でまとめて書きたいと思う。

契約満了を告げられてから、俺の仲介人と相談して、トライアウトを受けたらどうか?との話になった。
俺の気持ちとしては、試合も半分弱ぐらい出場していたし、トライアウト行かなくてもオファーくるだろうし、わざわざ行きたくないと思っていた。
でも、色々な方と沢山話をして、心が変わり、トライアウトに参加する事にした。
なんか、行かないと後悔するような気がしたから。

トライアウトの細かい話も今度しようと思う。

その後、元群馬で現おこしやす京都の外山選手と2週間程自主トレをしながら過ごし、オファーを待った。

ありがたい事に、J1昇格する京都サンガF.C.と、J3のクラブからオファーを貰い、なんとか来年もJリーガーで居られる!と思ったのと同時に、まさかJ1かよ!クビなのに個人昇格かよって思った。笑

勿論すごく悩んだ。J3のクラブに行けば環境等は悪いかもしれないけど、試合に出られる可能性は高くなるし、そこで活躍して昇格させれば、また1年でJ2に戻って来られる!って思いもあったし。

でも俺が選択したのはJ1に昇格する京都サンガF.C.に行く事だった。試合には出られない可能性が高い、それにGKも5人体制かもしれないって話にもなっていた。
それでもチャレンジしたかった。サッカー選手である以上、大きいクラブ、強いクラブに行きたいと思った。
チョウ監督をはじめ、湘南や岡山でお世話になっていたスタッフ陣が沢山居た事も、この決断を下すきっかけになった。

そして京都でシーズンインし、最初はホテル住まいをしながら、城陽でトレーニングをし、沖縄キャンプに向かった。
チョウさんのチームは厳しさがありつつも、楽しさもある。刺激的なチームだった。そして岡山以来の、富永GKコーチの練習はベリーベリーハードだった。
そんなこんなで沖縄キャンプが終わり、2月から京都の物件に入る事が出来たので、奥さんも群馬から合流し、京都での生活が本格的にスタートした。まずは1年間、サッカー面では当然の事、京都での新婚生活も充実させようと思った。

スーパーや郵便局に行くと、関西弁?京都弁?につられてしまう妻を見てると、この女性はどこでも生きていけるタイプだな、とも思ったし、群馬弁の誇りは無いのかな?とも思っていた。笑

群馬時代にお世話になっていた大前元紀選手の家がたまたまご近所だったので、夫婦共々寂しくなる事なく過ごさせていただいた。ありがとうございます。

そんなこんなで2ヶ月、オフやオフ前日には車で神社やお寺、世界遺産など毎週の様に出かけてた。
これからも沢山行きたいねー今度はここ行こうねーと話していた。

そして3月下旬の事だ。
その時期はサンガ全体にコロナが蔓延し、自宅待機の時期だった。ルヴァン杯のアウェイ札幌戦も、試合前日に中止になるなど、大変な時期だった。
その時に1本の電話が俺のもとに届いた。
コンサドーレの赤池GKコーチからだ。
赤池コーチとは、札幌のアカデミー時代のコーチと選手の間柄。12歳からの付き合いでもあるし、恩師である。
プロになってからも毎年連絡を取り合い、食事にもオフシーズンによく連れて行ってもらい、GKや、プロ生活についてよく話したものだ。

そんな赤池コーチからの電話だったので、気軽に出た。しかし、いつもの世間話や情報交換の内容じゃなかった。

まぁ詳しい内容は話せないけど、そこから話は進み、翌日にはコンサドーレから仲介人を通じて正式にオファーを頂いた。

両親に相談した。母は、絶対来なさい。コンサドーレに入りなさいだった。
でも父は違った。まずは自分の気持ちに素直になる事。そして一番大事なのは、奥さんの気持ちだよ。2人でしっかり話し合って決めなさいとの事。

その日の夜ひたすら話し合った。京都でのGKとしての立ち位置、京都への思い、札幌への思い、家族への思い、妻への思い。
正直どうしていいかわかんなかった。色んな人の顔が浮かぶ、応援してくれた人たちの顔が浮かぶ…
感情がぐちゃぐちゃだった。
でも話の最後に
『やっぱりサッカーを始めたきっかけもプロになりたいと思ったのも、コンサドーレがあったから。コンサドーレでプロになりたくて青春時代
を過ごして。それでもコンサドーレでプロになれなかった。いつか見返して、オファーを貰える選手になるって心に決めて18歳の時に岡山に行き、今日ここまでやってきた。』

『俺はコンサドーレに行きたい!』

これを言った時には大号泣してた。妻の前で泣いた事なんか無かったけど、今回ばかりは堪える事が出来なかった。

そんなこんなで移籍が決まり、2日後にはサンガのみんなに別れの挨拶をした。コロナの関係で、感染してた選手スタッフにはリモートでしか挨拶できなかったのは心残りだけど、その2週間後と一ヶ月後にルヴァン杯とリーグ戦で会って話せたので良かった。

そして3月30日にトランクケースを積んで、1人で車に乗り込み、同じマンションに住んでいたGKの若原智哉夫婦に駐車場で見送ってもらい、舞鶴に向かった。道中、これまた岡山時代からの仲の、豊川雄太の家の前に向かい、差し入れのレッドブルを大量に貰い、別れの挨拶をして、車を走らせた。
他にも沢山京都の選手から連絡が来て、いい人達多いなーまだまだみんなとサッカーしたかったなーと思った。2、3ヶ月の付き合いなのに、みんないい関係性だったんだな、と感じた。

2時間近く走り、舞鶴発小樽行きのフェリーに乗った。約20時間船に揺られた。正直もう乗りたく無い。電波も入らず、やることが全くなかったのだ。フェリー内のサウナに4回は入ったと思う。

あと、妻は京都に置いてきぼりだ。せっかく京都の家が落ち着いた所なのに、たった2ヶ月で引っ越しだ…申し訳ない事をしたといまだに思ってる。

小樽に着き、実家のある札幌市の家に向かう。懐かしい景色だが、大人になって雪のない北海道を運転したのは初めてだったから、新鮮な景色にも感じられた。

4月1日コンサドーレに合流。
サッカー編はまた今度。

俺はというと、実家で約1ヶ月子供部屋おじさん生活をしながら、家を探し、5月から妻と札幌での生活が始まった。
俺の両親が妻に美味しいものを食わせる飲ませる。北海道気に入って欲しいんだな…笑
それは俺も同じ思いだ。


…と、ざーっと3、4ヶ月の出来事を大体まとめてみた。

見辛いところあるだろうし、長々とした文だから飽きちゃったかもしれないけど、最後まで見てくれてありがとうございます。

もっと書きたい事はあったけど、今後書くネタが無くなってしまうので、このぐらいにさせてくれ!笑

感想などはコメント欄にでもどうぞ!

noteの使い方よくわからないからこれから勉強しないとなーと思ってるので、皆さん教えてくれー!

そしたらまた次回!

したらねー!


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