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夏休みの宿題は始めの5日と終わりの3日にやるタイプ

お久しぶりです。
生活に比較的余裕があるうちに何度かnoteを更新する予定です。

夏季休暇という概念のない会社で働いているため、夏休みという言葉から縁遠いです。

在宅勤務をしていると、15時くらいに、近所の子供たちが集団下校をしているのでしょう、声が聞こえてくることがよくありました。それがここ数日はすっかり止んでしまいました。生活の中のひとつの時報がなくなってしまい、少し寂しいです。

さて、夏休みと言われると嫌でも思い出すのが、夏休みの宿題の嫌な思い出です。

夏休みの宿題が最終日に終わっていないという体験は人類共通言語のような気がしています。計画通りに、いや、計画を立てて夏休みの宿題をやっている小学生などいなかったのではないでしょうか。

計画通り進める以前に、計画を立てるという行為は大変難しいものであることを、社会人のいま、痛いくらい実感しています。
小学21年生でさえそう思うのだから、小学6年が計画を立てるのが不可能なのは火を見るより明らかです。まして小学生の計画は大人が実現性のチェックをしてくれないし、中間報告も求められないので、実現性もない/メンテもされないという、絵に描いた餅以前に「プロットだけで打ち捨てられた餅」状態なのです。

周りの大人はなぜ子どもが作った夏休みの宿題計画をレビューしてあげないんでしょうか。疑問に思います。
人生において(あえて大きく出ます)、「実現性のある計画を立てて、遂行する」ことはトップを争うほど重要な能力なのに、それを誰も教えてくれない訳です。

自分に子どもができたら、ちゃんと見てあげて、「この日は外出だよ」とか「この日はバッファのための日程にした方がいいよ」などと言ってあげたいです。

そんな何の計画の立て方も分からないしゅぎもん少年は、夏休みの宿題をどう進めていたかというと「初日からの数日で可能な限りやり切る」という指針で取り組んでいました。

幸いドリルなどの勉強が苦手でない少年だったので、机に向かう必要のある宿題は数日であっという間に終わりました。

そして、夏休みの中盤は塾の夏期講習、実家への帰省、習い事の大会などで忙しくしている内に、宿題は机の上に重なる本の下の下になってゆき、存在を見なかったことにしてしまう訳です。

そんなしゅぎもん少年がだいたい最後まで残していた宿題が「自由研究」です。

自然科学に対する興味があまりなかった上に、自由研究のネタがまとまっている本などの資料には想定される結論なども書いてあって「これをやることに何の意味があるのだろう」という目的意識の欠如によって、全くやる気が出なかったです。

逆になぜ毎年ちゃんと提出していたのかが不思議なくらいです。おそらく父親に怒られていたのだと思います。すべからく「思い出したくない」フォルダに整頓されているため、思い出すことができません。

このような感じで、夏休みという言葉を聞くと夏休みの宿題が終わらなかった嫌な思い出がセットで想起されるため、あまり思い出したくない単語になっています。

この話を友人にすると、大半の人は共感を示してくれるのですが、過去3人だけ共感されなかったことがありました。
内2人はちゃんとした(厳しい)家庭のために、宿題の進捗を親に管理されていたとのことでした。残りの1人は子供のころから自己管理の鬼のような奴で、彼は今飛行機のパイロットをしています。パイロットはシフト前日はお酒も飲めないし、体調に不安がでるとすぐにシフトを外れることになると聞いて、なるほどなあと思いました。

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