溶けて消えてしまうその前に

「田舎帰ってくると、どこか心がさみしくなる瞬間があるの。前まではあった個人商店とか、打ち捨てられた看板や、どこまでも広がる空き地。この空間が、まるで世界に置いて行かれてしまったかのように、私には思える」
 助手席に座る彼女がそう呟いて、私はちらりと横目でさみし気な世界を眺めた。確かに、随分といろいろなものがなくなってしまった。言われて初めてそう意識させられたかのように、一瞬だけ、見慣れた景色がどことなく不安定になるような気分を覚える。
「言われてみたら、結構変わったかもね」
「だから、私帰ってくるのが少し苦手なんだ。さみしくて切なくて、胸が苦しくなる。寂寥感に満ちた世界の空気が、私の心の中に少しずつ染みてくる。そんな感じがするの」
 それはきっと、雪国特有の重たい空も相まってのこと。そう続ける彼女の眼は、ずっとフロントガラス越しに見える分厚い雲を見つめていた。もうすぐしたら雪が降りそうな気配があった。天気予報では夕方から雪マークがついていて、積もることはないが防寒対策はしっかりとするよう言っていた。車の中は暖房が効いていて暖かい、でもそのせいで外の景色はより一層寒々しく見える。
「東京の暮らしはどう? 慣れてきた?」
「ぼちぼち。今の仕事になってようやく一年、今のところは順調って感じかな」
「そっか」
「そっちは?」
「私は何も変わらず、淡々と仕事して、たまに絵を描いて」
「そっかそっか。ねえ、この車って喫煙車だっけ」
「お父さんも乗るから、どうぞ」
 そう言うと、彼女は助手席側の窓を少しだけ開けて、バッグの中から細身のメンソール煙草を一本取りだした。ライターを擦る音とたばこの煙、外の冷え切った空気と暖房が一緒くたに混ざりあって、私は少しだけ気持ち悪くなる。
 窓に向かって煙を吐く彼女の、束ねられた髪によって露になっている首筋をちらりと見る。相変わらず、細い。細すぎて不安になるような首筋は、昔からずっとそうだ。彼女の背が伸びても、彼氏をとっかえひっかえしても、飽きっぽくて趣味が長続きしなくても、その首筋だけは、昔と同じように白くて細い。
「やっぱり、ここの景色って辛気臭い」
 灰皿に煙草を押し付けながら、彼女は窓を閉める。
「東京はやっぱり違う? 私、行ったことないけど、テレビとかで見るたびにキラキラしてていいなあって思う」
「どうだろうねえ」
 私はまだ車内に残された煙草の匂いが気になって、運転席側と後部座席の窓を、少しだけ開けた。
「確かに物と人はたくさんあるし、街はいつも賑やかだし、ていうかうるさいくらいだけど。でもなんていうか、やっぱり希薄かなあ」
「人付き合いとか?」
「それもあるけど、街全体が」
 信号が赤になる。ゆっくりとブレーキを踏みこんで、車が止まる。彼女のほうに顔を向けると、新しい煙草を咥えたまま上下に揺らしていた。
「なんていうかさ、モノがありすぎてきっと自分の中に入ってこないんだろうね。ありがたみがないっていうのかな。例えばここだったら、コンビニ一つでも凄く重宝されるし、無かったら不便極まりないけど、向こうじゃ歩けばコンビニにぶつかる。だからいちいち場所なんて覚えてないし、コンビニに行きたかったらとりあえず明るい方に歩けばいい。そうすると、コンビニじゃなくても何かしらのお店がある。だから、一つ一つの印象がすごく薄くなる」
 その間に信号が青になって、彼女はまた窓を開けて、煙草に火をつける。
「たくさんあればいいってもんじゃないと思ったわ。都会にいて私の中に残るものはどれも曖昧、本当は濃密で苦しくなるくらいの世界が広がっているんだろうけど、それを受け止められる器がなかったら、空気も、人も、街全体が薄っぺらく思える」
 バイパスの追い越し車線を、次々と車が追い抜いていく。私はさして急ぐ道でもないからと、法定速度を守ったまま走っている。
「そんなもんなんだ、じゃあこっちの方が住みやすいのかな」
「こっちはこっちで色んなものが濃すぎて、私にはとても息苦しい」
「じゃあ中間地点を探さなきゃだね」
 私がそう笑うと、彼女も一緒に笑った。
「本当、それ。息苦しくて潰されない、希薄すぎて私の存在があやふやにならない、そんな場所で暮らしたいわ」
 彼女の言っていることをきちんと理解できていたかはわからない。彼女みたいに私は敏感じゃないし、街の空気感みたいな見えないものを言語化できるほどの感受性を持っているわけじゃない。それでも、彼女には彼女なりの苦しみがあって、その中でもがいているのだけはわかる。それはきっと私でいう、美術部時代の悶々とした気持ちとか、初めてできた時の彼氏との間の微妙なすれ違いとか、ジャンルは違うけど、誰もが必ず持っている漠然とした不満のようなものが、多分あるのだろう。
 重苦しい空の下、私たちは海沿いの道に出た。荒れる日本海の波は白く落ち着きがなくて、少しだけ開けられた窓の隙間からごおごおと音を立てて入り込んでくる。少ししてから、僅かな雪が降り始めて、私は暖房を一段階強くした。
「雪、積もるかしら」
 彼女が窓越しに空を見上げながら呟く。
「どうかな、今日の予報じゃ、そんなに降らないって話だけど」
「私、雪だけは好きだったな」
「そうなの? 寒いし積もったら動きにくいし、いいことないと思うんだけど」
「雪は奇麗だから、それだけ。でも、昔からずっと好きよ。寒くて、靴は濡れちゃうけど、それでも心の中にすっと入り込んでくる清らかな香りは、とても心地がいいわ」
「私にはわかんないかな」
「心で感じるか体で感じるかの差よね。あーあ、私、いっそ雪に覆われた世界で暮らせたら、きっと何の苦心もなく生きていけるんだろうな」
「本当に?」
 彼女は顔を伏せて笑う。
「多分、ね」
 バイパスを降り、少し走れば彼女の実家が見えてくる。その前に私たちは近くのスーパーでお酒を買って、そのまま積もる話を肴にお酒を飲むつもりだった。でも、その前に彼女が唐突な提案をしてきた。
「ねえ、私を描いてくれない?」
「えっ?」
 思いがけない提案に、私は思わず彼女の方を見る。
「危ないから、前は向いてて」
「あ、ごめんごめん」
「いや、なんていうか、さっきの話に戻るけど、希薄な都会にいたら私まで薄くなっちゃって、そのまま消えちゃうんじゃないかって思っちゃうからさ」
「そうなの?」
「そういうもんなの」
 彼女が三本目の煙草に火をつける。
「だからまあ、描いてよ。私のこと。別に大したもんじゃなくていいんだけど、私の存在の照明にさ」
「別にいいけど、今画材なんもないよ?」
「ボールペンとかでいいよ」
「それなら、オーケー」
 雪はいよいよ本降りになり、大粒の結晶がいくつもフロントガラスにつき始めた。天気予報なんてあてにならないなと思いながら、私はワイパーを一段階早くする。隣で煙草を吸う彼女は、ぼんやりと外を眺め、地面に落ちてはすぐ溶けて消えてしまう雪を静かに目で追っていた。
 その時、私はふっと、都会に住むということは雪が降るようなものなのかと思った。目の前いっぱいに振り続ける雪が地面に落ちて溶けて消えるように、人や物で溢れる場所も、そうしてすぐに消えるのだろうか。だから彼女は、私に自分の絵を描いてもらうことで、少しでも存在を確かにしたかったのだろうか。
 それはあくまで私の想像にしか過ぎないし、それについて何か尋ねようとも思わなかった。けれども、そう思ってしまってからは、彼女の白く細い首筋や指が、ふと目を離した瞬間に溶けて消えてしまうんじゃないかという、そんな幻想を見てしまう。
 しばらくして雪が止んで、先ほどまで地面に落ち続けていた大粒の雪の結晶は、もうどこにも見当たらなくなっていた。

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