逆噴射小説大賞2019が終わり_僕は燃えている

逆噴射小説大賞2019が終わり、そして僕は燃えている

逆噴射小説大賞2019の結果がついに発表された。

僕は選外。そこは予想通りだったので、特にショックなどはない(本当)。

実際に選ばれた作品を見てみて、まず最初に感じたのは「これは意外だ」という感覚だ。下馬評では「これでしょう!」と高く評価されていた作品が含まれていなかったり、まったく話題にのぼっていなかった作品が選ばれていたり。驚きがあり、「おぉ!?」となった。

そして選評コメント。とても刺激的だった。選評理由に関して「あぁなるほど」という納得感が得られただけではなく、創作をするうえでの貴重な知見や心構えが散りばめられていた。語られる言葉に一本芯が通っている。それはあきらかに選評対象の作品やその作者に対してだけではなく、もっとひろい対象に向けて語られている言葉だ。

そして選ばれた作品を確認し、選評を読み終えて、僕はある感情を抱いた。それは不遜にも「これだったらいずれ届くな」という安堵感だった。

もちろん選ばれた作品たちと、僕の書いた作品との間には大きな差がある。それは明確だ。でもそれは決して埋めることのできない差ではない。そう感じたのだ。

そうであるなら、大事なことは彼我の差を踏まえたうえで、これからどうしていくのか、だ。

もともと、僕は2020年の創作活動について抱負を持っていた。それは、小説を書く上での「基礎体力」をつけていくということ。特にリーダビリティ、「読みやすさ」というものを僕は意識していく必要がある。

2018年の逆噴射小説大賞以降、僕は勢いだけで小説を書くということを繰り返してきた。その過程は学びが多く、成長できたし、楽しくもあった。でもその勢いの中で出来あがった一連の文章は、残念ながら稚拙で雑然としたものだった。その状態に、そろそろ嫌気がさし始めていたのだ(念のため補足すると、書いた作品自体はどれも気に入っています)。

僕はもっと言葉の置き方を、言葉の詰め方を、丁寧に吟味していかなければならない。それらを地道に、血肉になるまで、手癖となるまで意識し続ける必要がある。これは、1年程度では決して終わらない抱負であり、長く続く課題となるだろう。

そこにさらに、今回の逆噴射小説大賞への参加経験と、選評コメントを読むことで、新しい課題がふたつ、生まれてきたのだ。

ひとつ目の課題。僕はもっと「物語の構造」に自覚的となる必要がある。思いつくまま書き散らすのではなく、ものごとを効果的に配置していくということを意識し、学んでいく必要があるだろう。

逆噴射小説大賞は「ピーキー」だ、という言われ方をする。実際、主催者側も「ピーキーなレギュレーション」と表現している。でもそれは「小説の本道から外れた、特殊テクニックを競っている」ということを意味していはいない。

今、小説を書く人間は多い。それこそ子どもからお爺ちゃん、お婆ちゃんまで小説を書き、そしてそれをWebで公開したり、出版社や投稿サイトが主催する公募に応募するなどしているのだ。小説というコンテンツの担い手は多く、人口過多・競争過多だと言ってもいい。

そして同時に、現代は溢れかえるコンテンツの時代でもある。テレビはかつてのような影響力を持たなくなった。そのことに象徴されるように、人々の娯楽は多様化し、様々な手段で様々な嗜好を満たしている。そのような環境では、自分の発信に気づいてもらうことすら難しい。

僕たちの周囲では凄まじい競争が繰り広げられている。そして、そこには死屍累々の荒野がひろがっているのだ。

だからこそ、僕たちは数少ないチャンスをものにしなければならない。人を引きつけるタイトルを慎重に考え、ちょっとでも読んでもらえたのであれば、そのワンチャンで、短い文量の中でしっかりと掴みを効かせてガツンとぶちかます。そして続きに期待感を抱かせ、そのまま読者になってもらわなければならない。

それが逆噴射小説大賞が創設されるきっかけとなった、逆噴射小説講座の教えだ。僕たちが置かれている環境自体がピーキーなのだから、そこで戦うための武器や技もピーキーにもなる。空手や拳法が型を持つように、逆噴射小説大賞のピーキーさは、この荒野で戦っていくための型なのだ。そうであるなら、その型は力になる。やってやるしかないじゃないか。

そしてそれを成し遂げるためには、物語の構造に自覚的である必要がある。何をどのように配置し、どのタイミングで展開させるのか。短い文章の中でキャラクターの魅力、世界観を垣間見せつつ、手に汗を握らせる。そのような展開を適切に、歪にならずに紡いでいく。そしてその結果を単発で終わらせずに、コンスタントに打率よく打ち出せるようになっていく。

それは、初期衝動やセンスだけでは成し遂げることはできないことだろう。何が読者の注意を喚起するのか。どのような構成が読者に続きを読ませたいと思わせるのか。物語の構造に対する自覚が、それを成し遂げるための力を与えてくれるはずだ。

そして、ふたつ目の課題。それはR・E・A・Lだ。このことは前回、二次選考結果発表直後にもいろいろと書いた。逆噴射聡一郎がR・E・A・Lという言葉を使う時、そこにはみっつの意味が込められている(下記は有料記事)。

その中で、今回、僕が課題としたのは「物語の書き手自身のR・E・A・L」だ。書き手自身のR・E・A・L。それは、それ自体が多義的な意味を持つと理解している。たとえば作者にとっての初期衝動。好み。過去の記憶。専門性。家族。夢。信条。哲学。妄想。今置かれている環境。現在進行形で変化すらする、作者自身の血肉。それこそが、R・E・A・Lだ。

これをなにかウェットなものだと誤解してはならない。自分の感情を吐露した、情感をこめた文章を書けばそれがR・E・A・Lなのだと早合点してはいけない。たとえば機械のような冷徹な文章を書くことがその人の生き方から立ち現れたものなのであれば、それが、その人のR・E・A・Lに他ならない。

お前にとってのR・E・A・Lはなんだ? お前の血肉をつくりあげているR・E・A・Lとはなんだ? そのR・E・A・Lから生み出されるお前の武器は、研ぎ澄ますべき武器とはいったいなんだ?

逆噴射小説大賞を通じて、僕たちは、それを問われているのだ。

だから僕は、自分のR・E・A・Lについて自覚的でありたい。そしてそれを研ぎ澄ましていきたい。なにかを付け焼刃で身に着けて誤魔化そうとするのではなく、地に足をつけて、僕自身のR・E・A・Lを力強い武器へと練り上げていきたい。これも長く付き合い続けなければならない課題だろう。

こうして、僕の歩む道に三つの課題が宿った。

逆噴射小説大賞2019の終わりを迎えて、僕は今、明瞭な世界の中にいる。やるべきことはクリアだ。少なくとも今は、これから向かうべき道が見えている。だから、僕は、燃えている。

さて。

蛇足だけど、最後に誤解の無いように書いておきたい。この文章を読んで「なんだしゅげんじゃさん、ちょっと入れ込み過ぎじゃない? なにマジになってんの、大丈夫?」と思う人もいるかもしれない。ありがとう、でも大丈夫です!

ぶっちゃけるけど、実は僕、本業でしっかりサクセスできているのだ。その中で自己実現もできている。だから、小説を通じて社会的ステータスを獲得しようとか、ビッグマネーを得ようとか、そういう動機が一切ない(その必要がない)。

ではなぜ小説を書くのか。それはやはり、なによりも物語を紡ぎたいという原初的な衝動があるからだ。そしてそれを、人と共有したいという欲望があるからだ(だからもっと多くの人に知ってもらいたいし、もっと多くの人に読んでもらいたい!)。

そのうえで僕は、やるからには納得をしたい。そういう性格だ。小説を書くのは楽しい。書き上げた時の充足感は物凄いものがある。一方で、僕は自分が書いたものに対して納得できた試しがない。やるからには上達したいし、納得したい。それが、僕を駆り立てる大きな原動力となっている。

逆噴射小説大賞とは、稀有でありがたい催しだ。主催のダイハードテイルズの皆さんにとって、この催しをやることによって得られるものなんて、ほとんどないのではと思う。

もちろんコミュニティの活性化だったり、ダイハードテイルズというブランドの認知度向上であったり、副次的な効果はあるのかもしれない。でもそれは、彼らがこのイベントにかけている時間や労力、そして注がれている熱量と比べると、明らかに微々たるものだ。

それなのに、あれだけの膨大な投稿作品をひとつひとつ丁寧に読み込んで、そして厳しくも愛のある選評までつけて公表する。これは、凄いことだ。他にそんなことをやっているプロ作家グループなんて存在しないだろう。その事実を前にして、はっきりいって、感謝の気持ちしかわいてこない。

逆噴射小説大賞は、大賞を獲ったからといって何か社会的なステータスが得られるといった類いの催しではない。それは、言ってしまえば道場のようなものだ。僕たちはその中で切磋琢磨し、年に1回、腕を競い合う。そして、マスター・ソーイチローに導かれていく。

だからこそ、感謝の念も込めてマジで取り組みたいって思うわけだ。当然のことじゃないか。

そして僕自身のことに戻ると、僕はその過程で、少しずつでも納得できる状態に近づいていくことになるんじゃないか。そんなことを、考えている。

【おしまい】

きっと励みになります。