寂滅のエシュトザガン

寂滅のエシュトザガン

 ダマル・ガは、一人静かに佇んでいた。

 風が、その美しい髪を揺らしている。見つめる空は黄昏れて、ゆっくりと、落ちゆく陽が世界を赤橙色に染めていた。その黄昏のなかを、白きラルの群れが羽ばたいていった。その光景は美しく、そして悲しい。ケェケェと寂しげな鳴き声が聞こえてくる。

(あぁ、お前たちは……)

 ラルたちは去ろうとしているのだ。このエシュトザガンの階層世界を。滅びゆくこの世界から、安住の地を求めて──。

 だから、ダマル・ガは祈る。ラルたちが安らぎの地を得られますように、と。そして彼女の背後にそびえる、荘厳にして巨大なるエ・リヴィマナの神殿、その内奥に輝く神秘に想いを馳せながら、この世界の悲劇的な結末に胸を痛めた。

 彼女はまるで、護るように神殿の入り口に立っていた。その腰には、華美な装飾の剣が差されている。足元には黄銅にも似た輝きを放つ、円形の盾が置かれている。

 彼女は耳を澄ます。神殿の奥から、麗しきリ・ヴィマの歌声がかすかに聞こえてくる。それだけが、今のダマル・ガにとっては支えだった。

 このエシュトザガンの造物主であるリ・ヴィマ。その祝福を帯びた歌声は、かつてはエシュトザガン全土をも包み込んでいた。

 それが、今ではもう──。

 空気が揺らいでいる。大地は鈍い音をたて、かすかに震えている。階層世界の崩落が近い。滅びゆくエシュトザガンの階層世界の中で、彼女は、たった一人の生き残りだった。

(いや……)

 ダマル・ガは黄昏の彼方から近づいてくる影を見つめた。

(まだ、お前がいる。お前と、私が二人きり……)

 影は、唸るような歌声とともに近づいてくる。それは、不吉な歌声だ。

(ル・デト……破滅の歌)

 かつて、リ・ヴィマが夜の世界に封じたとされる悪神ル・デト。この歌声は、悪神ル・デトが奏でるものだと言われていた。

 今のダマル・ガには、それがまるで世界の滅びを言祝いでいるように聞こえていた。本来であれば嵐の夜のみ木霊していた歌声が、いまやエシュトザガン全土を覆おうとしている。その原因は──

(お前だ……!)

 影は歩みを止めた。そして、彼女のことをじっと見つめた。若い男だ。白髪。鋭く、しかし澄んだ眼差し。彼女もまた、男を見つめ返す。

 男は語りかけるように言葉を発した。

「最後に残ったのは……君だったのか」
「妹は!」

 男の言葉を遮るように、ダマル・ガは声を張り上げた。

「妹は……ルは、最期までお前のことを信じていた。お前のことをっ!」

 悲しみと憎しみで押し潰されそうだった。ダマル・ガの顔が険しく歪んでいく。彼女は腰から剣を抜いた。リ・ヴィマに選ばれし剣闘士としての証し──聖なる剣、ラ・ヴェスタを。

 そして男に突きつけ、その名を叫んだ。

「サ・ラク! 咎人サ・ラク!」

 二人の視線が交錯する。

「なぜだ! なぜお前は来たのだ……お前がエシュトザガンに来さえしなければ……! お前さえいなければ……こんなことには……お前は知っているだろう。ここでは皆が幸せに暮らしていたのだ……皆がっ」

 そうだ。皆が幸せだった。
 そして皆、死んでしまった。

 ダマル・ガは思い出す。エ・ルランの階層世界群、そのすべてに布告された、偉大なる洗礼者たちの言葉を。

人の身のままヴィリャヴァーンに到ろうなどと望むことは、人としての分際を超えた行いでありましょう。それは、エ・ルランの地に災いと争乱とを招き入れましょう。

「洗礼者の言葉は正しかった 」

 歯噛みし、サ・ラクを睨みつける。

「お前が! 愚かにもヴィリャヴァーンに到ろうなどと望みさえしなければ……こんなことには……こんなことにはならなかったっ!」

 ──ヴィリャヴァーン。

 魂の根源。階層世界を貫く巨大なる天柱、その輝ける柱の遥か上層に、それはあるのだと言われている。

 人は誰もがヴィリャヴァーンの輝きから生じ、そして、その根源の炎を胸に抱きながら、このエ・ルランの階層世界群へと落ちてくる。

 そのように、神話は物語っていた。

「俺は……」

 サ・ラクは応えた。

「俺は幾つもの階層世界を辿って、ここへとやってきた。俺の辿った階層世界はそのすべてが滅んでいった。一切の例外なく……」

 サ・ラクは悲しげな表情を浮かべた。

「そして、ここも滅ぶ。それは必然だ」
「なぜだ……!」

 ダマル・ガはほとんど泣きそうな顔で叫んでいた。

 行き倒れていたサ・ラクを見つけたあの日のことを思い出す。サ・ラクの顔を見て、思わず「美しい」と声に出していた。心奪われてしまった。それからの介抱の日々。サ・ラクの遠くを見つめる眼差しに、吸い込まれるように惹かれていった。回復したサ・ラクを、ルとともに市場へ連れ出した時、サ・ラクが浮かべた弾けるような笑顔は鮮烈だった。三人で囲んだ温かい食事。その瞬間、世界にぬくもりが溢れたように感じた──

 胸が。胸が、張り裂けそうだ。

(すべてが偽りだったのか? 私のせいなのか? 私のせいでルは……エシュトザガンは……っ!)

「なぜだ! なぜお前はそこまでして……多くの人間を不幸にしてまで……なぜだ! なぜなんだ……」

 サ・ラクは胸に手を当てた。

「俺のこの胸に宿る炎が……ヴィリャヴァーンの炎が俺を導いている。俺は行く……ヴィリャヴァーンに。それが俺の定めであり、そして」

 サ・ラクは見上げるように顔をあげた。神殿を貫き伸びる、ヴィリャヴァーンの天柱がその先にはあった。

「そして、それが俺の憧れだ」

 ダマル・ガの肩が震えていた。

「……ふざけるな」

 足で盾を跳ねあげる。

「ふざけるな、狂人っ!」

 宙を舞った盾を掴み、振りかぶる。盾がぎらりと陽光のような輝きを放った。

「お前は、私をっ!」

 ダマル・ガは叫ぶ。その叫びを載せて、盾はサ・ラクへと飛んだ! それはまるで刃を伴う日輪であった。輝き、回転し、鋭く飛んだ。

「……っ!」サ・ラクは半身となってそれをかわす。その体をかすめるように盾は後方へと飛んでいく。サ・ラクの胸から、布片が、血が、散っていった。

「リ・ヴィマのご加護を!」

 咆哮とともにダマル・ガは聖剣ラ・ヴェスタを掲げた。「う!?」サ・ラクは顔をしかめる。ラ・ヴェスタの聖なる閃光が瞬間、あたりを包み込んだ!

「うぉぉお!」

 ダマル・ガは跳んだ。すべての想いをこめて。妹の、エシュトザガンの人々の無念を載せて、サ・ラクへと向けて! サ・ラクは胸に手を当てていた。ヴィリャヴァーンの炎の鼓動を感じる。その後方からは日輪のごとき盾が、弧を描いて再び迫りつつあった。

「死ね! この世界とともに……私とともに、お前も滅べ! サ・ラク!」

「それは、できない」

 サ・ラクの胸に紅の輝きが生じていく。ダマル・ガの振るう聖なる剣がその身へと迫る。直後、紅の輝きから生じたのは剣だった。真紅の、鋭い、装飾の無い剣。サ・ラクは抜刀するようにそれを振った。それは紅の軌跡を描いていた。そして。

「あっ!?」

 ラ・ヴェスタの刃がくるくると宙を舞う。断ち切られたのだ──真紅の剣によって、いともたやすく。

(そんな、バカな!)

 刹那の時間、静止したようなその瞬間、ダマル・ガは見た。己を見つめているサ・ラクの眼差しを──その、澄んだ瞳を。

 美しい。ダマル・ガは、そう思った。その瞳が沈み込んでいく。そして沈み込んだサ・ラクの頭をかすめるようにして、日輪の刃が飛来した。ダマル・ガの体は、その日輪によって両断された。

「ぁ……」

 ダマル・ガの上半身が大地へと落ち、続いて、その下半身が頽れた。

「そ……んな……」

 ダマル・ガはもがくように喘いだ。その姿を見下ろすようにサ・ラクは佇んでいる。ぜぃぜぃと息を吐きながら、諦めきれないように、女はサ・ラクへと手を伸ばした。その体を包み込むように、ル・デトの歌が聞こえてくる。

「この歌は……」

 サ・ラクは静かに語りかける。黄昏の影が差し、その表情を伺い知ることはできない。

「この歌は、悪神の歌なんかじゃない。これは、エシュトザガンの影……人々が見ようとはしなかった、悲しい現実だ」

 そう告げると、サ・ラクは神殿へと歩き出した。そして首だけ振り返ると、一言、ダマル・ガに告げた。

「今の君ならそれがわかるはずだ……ダマル・ガ」

 その表情の影は取り払われている。だから、ダマル・ガは見ることができた。サ・ラクの瞳から落ちる、涙のひとすじの煌めきを。

「あ……ああ……」

 サ・ラクは去っていく。神殿の中へと。ダマル・ガにはわかっていた。この後、サ・ラクは破壊するだろう。神殿の中枢。リ・ヴィマの神聖機関を。そしてその解放された力を用い、上層世界へと昇っていくはずだ。

 リ・ヴィマの神聖機関が破壊された時、このエシュトザガンは真の終わりを迎える。

(いや……)

 薄れゆく意識の中で、ダマル・ガは想った。エシュトザガン──永遠の命の世界。死を克服した、永遠(とわ)に続く若さの世界。そこは文字通りの楽園だった。下層世界から収奪した生命の力を、リ・ヴィマの神聖機関が全土へと巡らせる。生命の力を、その歌声に乗せて。

(今ならわかる……)

「ゴボッ……」口から血を噴き出す。

 エシュトザガンの滅びの兆候は、以前からあったのだ。サ・ラクの訪れた下層世界が次々と滅んでいったその頃から──。徐々に収奪する生命力が不足していき、人々の老化が始まっていた。

 しかしそれでも人々は向き合おうとはしなかった。自分たちに迫る危機にも、そして、自分たちの世界が抱える欺瞞にも。

(あぁ……)

 ダマル・ガをル・デトの歌が包み込んでいく。

(そうか……これは……)

 これは哀しみの歌だ。生命を収奪された、下層世界の想いが織り成す歌だ。そして、滅んでいった者たちへの弔いの歌──サ・ラクの言葉を思い出した。(これは……エシュトザガンの影……)そうか。そうだったのか……。

「サ……ラク……」

 神殿に向けて、サ・ラクの向かった方向へと手を伸ばす。最期の力で、振り絞るように──

「……サ・ラク!」

 その瞬間、巨大な鳴動とともに大地が割れた。ダマル・ガの体がふわりと浮かぶ。

 崩落が始まったのだ。

 落下していくダマル・ガは、涙でにじむその目で見つめていた。偉大なるヴィリャヴァーンの天柱。その中を、光が浮上していく。

「あぁ……サ・ラク……」

 ダマル・ガは手を伸ばす。伸ばした手の指の間に、昇りゆく輝きがこぼれ出していた。その輝きの中に、ダマル・ガは一瞬、自分と、ルと、サ・ラクが笑いあう、そんな光景を見た気がした。

【寂滅のエシュトザガン】終わり

※ 剣闘文学トーナメント参加作品です。


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