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波木銅「万事快調〈オール・グリーンズ〉」を読んだ。

以下は作品紹介からの引用。

満場一致で第28回松本清張賞を受賞
時代の閉塞感も、小説のセオリーも、すべて蹴散らす、弱冠21歳の現役大学生による破格のデビュー作

このクソ田舎とおさらばするには金! とにかく金がいる! だったら大麻、育てちゃえ(学校の屋上で)。

茨城のどん詰まり。クソ田舎の底辺工業高校には噂があるーー。表向きは園芸同好会だが、その実態は犯罪クラブ。メンバーは3人の女子高生。彼女たちが育てるのは、植物は植物でも大麻(マリファナ)だった!

ユーモラスでオフ・ビートな文体が癖になる、中毒性120%のキケンな新時代小説

ほんのいっとき、ネットの片隅ですれ違った程度の関係性であるにせよ、自分が「うわ、この人ほんとに凄い」と感じた数少ない相手であるその人が、評価されて世の中に出ていく様を見るのは、やはり、嬉しい。

波木銅の「万事快調〈オール・グリーンズ〉」は僕にとってそういう作品なのであり、なので客観的に見れてないかもしれないんだけど、

って、いや、そんなことはないな。

だって選考委員が満場一致で松本清張賞ですよ! 僕なんかがあれこれ言う前にその事実自体に圧倒的な説得力がある。ようするにめちゃくちゃ凄いってことです。だからとにかく読んだほうがいいですよ、そういうことです。

ちなみにここからハイライトが読めます。

あらためてハイライト部分だけ読んでみてもめちゃくちゃ良い。横書きでもテンポが落ちてない。大胆な視点切り替えとかびっくりするんだけど、それすらも独特のリズムを生む要因となっていて凄みがある。そしてニンジャやマチェーテが出てくる(誇張表現)。

ということで、以下は駄文です。
だらだら取りとめもなく感想文を書いてみました。ほんと垂れ流しなので意味不明かもしれない。気が向いたら読んでみてください。あ、ちなみに若干のネタバレ要素も含んでいます。


なんだろう、「万事快調」はいろいろと語れてしまうし、語りたくなってしまう物語だ。きっと、これからいろいろな人がそれぞれの視点で語ったり論じたりする、そんな作品になるんだろうな、なんて思う。

なぜ語りたくなってしまうんだろう? たぶんそれは、自分が生きている「今」という時代や社会と、読書して得られた体験とに連続性を感じてしまうから……な気がする。たぶん。

つまりはこういうことなのかもしれない。「万事快調」の物語は、僕らが生きている社会とどこかで接続されている。地続きであり、ということは、酒場のおっちゃんよろしく誰もが時事に触れるといっちょ噛みして知ったような口をききたくなるのと同じで、自分の文脈に引きつけて語りたくなってしまう。そういう物語なんだと思う。

だから僕も、これから僕の感じる僕の文脈に引きつけて知ったように語ってしまうわけなのである。

で。「万事快調」はサバイブする物語だ。なにからサバイブするのか。僕が感じたのは「ダサさ」からサバイブする物語ということだ。じゃあその「ダサさ」ってなんなの、という話になるんだけど、

 岩隈は一学期終業式の校長のスピーチを、侮辱的に誇張したイントネーションで抜粋してみせた。

「えぇ ー、これからぁ、社会に旅立つぅ、準備をすることになるぅ、諸君らにぃ、偉大なぁ詩人の言葉をぉ、送りますぅ。『 闘う君の唄を、闘わない奴等が笑うだろう、ファイト!』」

「ヘドが出たね」

波木 銅. 万事快調〈オール・グリーンズ〉 (文春e-book) (Kindle の位置No.2553-2556). 文藝春秋. Kindle 版.

表象的には、こういった校長のスピーチに代表されるダサさであり、それって結局のところ主人公である朴たち十代の若者が置かれている限界ギリギリの状況から目を背けて、いまだ努力すれば報われるみたいな価値観の上に居直って、実際には少子高齢化が進んで若ければ若いほどバカを見る社会(地方であればなおさらだ)が到来しているにも関わらずそんな社会を生み出してしまったという責任については露ほども想像力を働かすことができない、そんな大人であり、親であり、教師であり。そしてそういった愚鈍で、緩慢で、停滞し、固定化して均一化した価値観のもとにつくられて運営されている学校も完全にクソダサく、そのダサさのなかにただひたすら馴染むことだけが求められてしまう。彼女たちが無自覚に抗っているのは、つまりはそういう社会全体に漂うダサさだ。それは物心両面の貧困さ、という言い方もできるかもしれない。

もともと十代なんて限界ギリギリだ。繊細で傷つきやすい。でも朴たちの「傷つきやすさ」はその貧困さのなかでどこか鈍麻している。もっと言うと、諦念を抱いている。今までの十代以上に限界ギリギリで、だから、社会には何も期待していないし、彼女たちは「自助」だけでなんとか状況を突破しようと試みることにもなる。

「万事快調」のひとつの特徴として、サブカル的な固有名詞の頻出がある。朴たちの日常はサブカルで満たされていて、この物語はさながらサブカルの見本市みたいになっている(作者の博覧強記ぶりが凄い。コンテンツを浴びるように呑んで生きてるの……?)。彼女たちにとってそれらのカルチャーは家族や社会に回収されない、それに代わるアイデンティティの拠り所であり、ダサさに抗う武装でもある。

特に朴のフリースタイルラップが凄く良い。ただの作劇上のギミックではなく必然であり、それが救いなのだとよくわかる。そして彼女のラップはグルーヴを生み、実際に物語をドライブさせていくのだ! (ただしノーフューチャーな方向に)

登場人物たちは濃密さを感じさせるほど多様な価値観や背景を持っている。毒親持ち、オタク、吃音、ネトウヨ、ゲイ、引きこもり……そして主人公の朴は在日四世で(ただしそういった背景は彼女のアイデンティティにはほとんど影響を与えていないようにも見える)、アセクシャル気味でもある。彼女たちはあまり他人に対して関心がないのと同時に、緩やかに自然に越境するし、緩やかに自然に他者の多様性を包摂しているようにも見える(少なくとも存在そのものは否定しない)。

そして同様に、緩やかに自然に、社会規範だって逸脱する。

結果、彼女たちのサバイブはクライムとなり、悲劇を再生産させもする。そしてそのことに対して登場人物たちは皆、どこかカラッと乾いていて、あっけらかんとしている。だからこの物語で描かれているのは明らかに悲劇的な限界状況なんだけど、読者は喜劇だと錯覚させられ、どこか前向きなバイブスを受け取ったようにも感じてしまう。「万事快調」というタイトルは、そんな側面をも象徴しているようにも感じる。

ラストなんかも完全にそうで、どう考えてもろくでもない未来(「岩隈はその後、この夜を人生最良の夜とみなすことになった」という残酷な一文!)しかないわけなんだけど、とてつもなくあっけらかんと終わり、突き抜けた感じがする。でもそれは同時に十代の子どもが未来と向き合うことができない(向き合うと正気ではいられなくなるから)という「つらみ」も含んでいるようにも感じてしまう。

いかにサバイブしようと、結局のところクソみたいにダサい現実は微動だにしない。主人公たちの自助努力はあくまでもクソみたいな現実に対するプロテストにはなり得ず、逸脱した形でのゲーム参加に過ぎない。そのサバイブに、社会そのものの変容は射程として入ってはいない。

そして逆説的だけど、そういうクソみたいな現実があるからこそ彼女たちはアトミックな、ぶつ切りになった個人として存在しているわけだし、ぶつ切りだからこそ自助努力するしかなくなってしまうわけだし、社会規範なんてくそくらえでナチュラルにクライムしてしまうわけだし、それがめちゃくちゃに疾走感を生むわけだし、そしてラスト、肩を貸しながら三人でともに歩くことにもなるわけなのだ。

クソみたいな現実がある。それは間違いなくある。だからこそ、こういった一級品のエンタメが成立してしまいもする! 受け手は朴たちのコミカルなドタバタ劇にどこか親しみを、人間的な共感すら抱いてしまう。奇跡のようなバランスによってこの物語は成立している。そして読者は刹那的な疾走感に身も心も委ねながら、朴たちと一緒に駆け抜けてゆくことにもなる!

まあようするに最高でした。
ラストの展開なんてめちゃくちゃエンタメしている! 凄く良い!

【おしまい】

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