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軌道旋風ギャブリエル 『楽園の地獄』 第三話 「空から来た女」

前回

この物語の登場人物たち

デミル
主人公。盲目の青年。超感覚・超計算能力の持ち主。デミルの故国アルドリア連邦はエクサゴナル共和国率いる国際有志連合軍によって蹂躙され、滅亡の淵に立たされている。デミルはアルドリア連邦の切り札〈屍衆かばねしゅう〉のひとりとしてエクサゴナルに潜伏、起死回生の作戦〈楽園の地獄〉を実行していく。

マキシム・デュカン
エクサゴナル共和国の〈指導者〉。緊迫の度合いを増す国際情勢を背景に、民主的な手続きを経て全権委任を得た若きカリスマ。マキシムの台頭後、エクサゴナル共和国は国際有志連合を率いてアルドリア連邦に侵攻。その国土を焦土へと変えた。なお彼の〈指導者〉という地位に法的根拠はない。彼はもはや、法に縛られない存在なのだ。

ルウルウ
〈屍衆〉最年少の少女。小柄ながら鋼鉄のような肉体と、尋常ではない膂力を誇る。デミルの護衛役。

セレン
〈屍衆〉のひとり。デミルの幼馴染。作戦決行前に何者かによって殺害された。

ギャブリエル
〈軌道旋風〉の異名を持つ、この物語のもうひとりの主人公。


 ◆


 瓦礫と化した貧民街の片隅で、ルウルウは見あげていた。
 それは神々しくも、畏怖を抱かせる光景だった。
 エクサゴナル共和国の首都、パリス上空。
 黒煙たなびく空を貫くように、一条の、赤い光が落ちてくる。

軌道旋風ギャブリエル
『楽園の地獄』

第三話

「空から来た女」


 ルウルウの十メートルほど後方。灰色の髪が静かに揺れていた。
 デミル。〈屍衆〉の青年だ。
 デミルは幼馴染の少女セレンの屍を抱きながら、冷徹にいまの状況を整理していた。電撃のように思考が迸っていく。
 ──考えろ。この異常な状況について、考えろ。周囲には瓦礫の山、ルウルウを取り囲むのはマキシムの番犬部隊たち。上空からはなにかが迫ってきている。
 ──考えろ。いったいなにが起きているのか。俺たちは、どう行動すべきなのか。とるべき最善手は? 考えろ。考えて、答えを導きだせ……。
 デミルの思考は過去へと……昨日の作戦行動へと遡っていく。

 作戦決行直前に発生した、デミルの幼馴染みであり、ともに戦う仲間でもあったセレンの死。それは明らかに何者かによる殺害だった。だがデミルは私情を捨て、セレンの亡骸を置き捨てて動いた。
 祖国のために。悪辣なるエクサゴナルに一矢報いるために。パリスを灰塵へと帰せしめるために。作戦行動を遂行し、パリス中心部を業火燃えさかる地獄へと変貌させた。
 それこそがアルドリア連邦、起死回生の作戦〈楽園の地獄〉の第一幕だった。
 だが……とデミルは思う。
 だが俺は、セレン、君をそのままにするつもりなどなかった。軍律を破り、アジトを抜けだし、君を迎えるために俺はここへとやってきた……(ルウルウのやつは勝手についてきた)。
 俺たちがいるのは敵地だ。だから俺の振る舞いは仲間たちを、ひいてはアルドリアを危険にさらすかもしれない愚かな行為だ。それは、よくわかっている。
 だが俺は確信していた。俺の感覚……すべてを見通すことのできるこの感覚であれば、どんな危険でも回避できる。失敗などするはずがない。そう、確信していた。
 だが、そうではなかった。
 俺は、やつらの接近を許してしまった。
〈シヤン・ドゥ・ギャハルドゥ〉。
 マキシム直属、番犬部隊の襲撃。人間離れしたやつらの動きは、驚異的なものだった。俺たち〈屍衆〉にも匹敵する恐るべき殺戮の集団。
 セレン。君に近づくにつれ、俺は、少しずつ冷静さを失っていたのかもしれない。現場に残された痕跡から、俺には君の死の瞬間、なにが起きたのかを感じとることができてしまう。そこでなにがあったのか、そして、そこに誰がいたのかも。俺には見えてしまう・・・・・・。だから俺は我を忘れた。そこから見えてきた光景は、俺にとっては信じがたいものだった。
 そして、やつらの襲撃を許してしまった。

 だが。
 だがそもそもやつらは、どうやって俺たちの行動を把握したのか? 俺たちがここにいることを知り、部隊を展開し急襲する。そんなことは俺たちの行動を、事前に把握していなければ不可能だ。

 それに理解できないことは他にもある。
 いま、上空から接近しつつあるなにか。この異様な状況はいったいなんだ。番犬どもも突然沈黙を始めた。すべてが異様な状況だ。

 いったいなにが起きている? 考えろ。なにか見落としがあるはずだ。俺が気づいていない、俺には見えていない、なにかがあるはずだ。俺の知らないなにかが、この〈楽園の地獄〉を取り巻いている。俺の知らない、なにかが──。

 思考は刹那の間に繰りひろげられていた。
 デミルは、さらに感覚を研ぎ澄まさせていく。
 デミルは盲目であり、その目には光すら差さない。
 だがデミルは……ルウルウの荒い呼吸、体温、鼓動、大気の流れ、かすかな自然音……それらから、完全に周囲の状況を把握することができる。ルウルウの視線の向きや角度すら、デミルには見えている・・・・・
 ルウルウの視線。それは上空へと向かっていた。周囲にいるマキシムの番犬ども。やつらもまた、動きを止めて呆けたように上空を見つめている。
 遥か上空からは、空気を燃やし、切り裂く轟音が聞こえてくる。音は急激に大きくなっている。質量が、超高高度から落下してきているのだ。
 デミルはルウルウに問うように呟いていた。
「なにが……起きている?」
 ルウルウの呟きがそれにこたえる。
「赤いんだ」
「……なに?」
「空をバーッと、赤い光が貫いているんだ!」
 そう叫ぶやいなや、ルウルウは跳躍した。デミルの傍らに着地。デミルの体とセレンの亡骸を抱え、距離をとるように駆けだす。
 駆けるルウルウの腕のなかで、デミルの超感覚は空に咲く、花のような物体を認識していた。それは巨大なパラシュートだった。パラシュートは空気抵抗によって即座に展開。灼熱していた質量は、落下速度を減じていく。
 やがて質量は大地へと……番犬どもの真上へと近づいた。
 番犬どもは動揺したかのようにたじろいでいる。
 質量、それは平べったい三角錐の物体だった。その下部から炎が噴きだす。それは衝撃緩和のロケットだ。物体は大地へと接近。直後、爆音が轟き……。

 突風が、吹き荒れた。

「ぬう……うぅ!」
 同刻。パリス中枢〈指導者〉公邸。華美な調度で埋めつくされた部屋のなかで、エクサゴナルの〈指導者〉マキシム・デュカンはうめいていた。
「ふざ……けるな……!」
 その彫刻じみた顔が歪んでいく。
「我が領域に踏みこんできただと? 〈軌道旋風〉……」
 栗色の長髪が震えた。奥歯を噛みしめ、肩はわななき……「く、くくく」と、その顔には一転、不気味な笑みが浮かんでいく。
 部屋を満たすように鳴り響いているのは、壮大なる交響曲だ。
「旧式が。旧式が……旧式がッ! 〈軌道旋風〉、貴様のごとき旧式が!」
 交響曲にあわせ、マキシムは激しく腕を振るいはじめた。
「旧式、旧式、旧式! 愚かなる旧式! 貴様などより私の方が優れているのだと……」
 ジャーン! 激しい打楽器の音。マキシムは叫んだ。
「はっきりと、わからせてやる!」

「なんかあれって……」
 巨大な繭みたい。
 落ちてきた物体を見つめながら、ルウルウはそんな印象を抱いていた。ルウルウの右肩にはデミル、左腕にはセレンの亡骸。ルウルウは小柄な少女だが、体よりも大きなデミルとセレンを悠々と担ぎあげている。余りにもアンバランスだ。だがそのアンバランスさこそが、ルウルウの尋常ならざる膂力の証しでもあった。
「……帰還船」
 そう呟いたのはデミルだ。
 ルウルウは最大限の警戒を維持したまま、首をかしげる。
「帰還船……?」
「ああ、そうだ。宇宙から地上へと戻るための帰還船……」
 再びデミルの思考が動きだす。
〈楽園の地獄〉に先行する作戦があった。その名も〈神の鉄槌〉。
〈神の鉄槌〉は衛星軌道上にある宇宙ステーションを急襲し、宇宙ステーションとスペースデブリ宇宙ゴミの連鎖的地上降下によってエクサゴナル共和国を壊滅させるという、壮絶な作戦だった。しかし、〈神の鉄槌〉は失敗した。ゆえにプランB──デミルたちの〈楽園の地獄〉が始動したのだった。
 そしてデミルは直感していた。
 この帰還船は、〈神の鉄槌〉の失敗となにか関係があるに違いない……と。

 静かに、帰還船のハッチが開いていく。
 瞬間、緊張が弛緩し……直後、再び沸騰した。
 魔法のように静止していたはずの番犬どもが動きだす。小刻みに激しい跳躍を繰りかえし……それは激しいドラムを思わせた……番犬は、開いたハッチへと殺到した。獰猛なる獣たちの、殺戮の意思。殺意が波濤のように噴きだし、周囲へと広がっていく。
 刹那。
unアン……」
「あ……?」
 ルウルウは思わず声をあげた。
 白いなにかが、ハッチから跳びだしていた。
 美しい白鷺。
 ハッチのなかから跳びだしたそれを、ルウルウははじめ、そのように認識した。だが、そうではなかった。
 それは白く輝く、しなやかなる肢体だった。
 それはあまりにも美しく、まるで時が止まったかのようだった。
 それは女だった。
 神のごとき均整、完璧なる肢体。白いボディスーツで包みこんだ体を、女は空中で舞うように回転させた。その動きは人間離れした姿勢制御であり、完璧なる美の、完璧なる顕現とすら感じさせた。
deuxドゥ……」
 その場にいる誰もが、リズムを取るようにささやく女の声を聞いた。それに合わせるように女は身を捻り、空中で旋回し……その瞳が冷たく閃いた。
troisトロワ
「あぁ!?」
 ルウルウは目を見開く。眼前。女はルウルウの目と鼻の先に立っている。まるで瞬間移動だ。そしてその背後では、バキバキとした破砕音がとどろき、番犬たちが一斉に歪み、膨れ……。
『『ギイイイイイイィヤーー!』』
 絶叫にも似た轟音とともに、爆発。
 閃光を背にして、女は冷たい笑みを浮かべていた。
Bonjourボンジュール

「うぅ……うああああああああああッ!」
〈指導者〉執務室に絶叫がとどろく。激しい痛みにマキシムは頭を抱え、よろめき、崩れおちるように倒れ、床のうえであえいだ。まるで陸にあがった魚だった。
「バカな……バカ……な……ッ!」
 番犬たちとの接続が途切れ、耐えがたい痛みがいま、マキシムの脳内へとフィードバックされていた。
 ──超並列体スーパーパラレル
 それはエクサゴナルが誇る超絶の天才、プロフェッサー・ガエタンによって創始されたプロジェクトである。人間の脳を拡張し、遠隔地における機械人形たちの複数同時並行操作を可能とする、恐るべき研究だった。
 拡張された脳は機械人形の、並列的かつ超人的な挙動を可能とし、さらには機械人形に組みこまれたAIが、距離と時間のラグを補正する。そのことによって操作者の意をノンタイムで機械人形たちに反映するのだ。
 かくして、無敵の軍団が誕生する……そのはずだった。
 超並列体プロジェクトは莫大な予算のもと、戦場において凄まじい成果と惨劇とを生みだすはずだ。だが、そうはならなかった。華々しく開始されたプロジェクトの成果が陽の目を見ることは決してなかった。
 なぜなら、誰も耐えきれなかったからだ。
 脳を拡張し、複数同時かつ遠隔に機械人形たちを操作する。それは完全に人間の限界を超えた試みであり、三桁にも及ぼうという被験者たち、そのことごとくが耐えきれずに絶命していった。
 だが。
 神の恩寵か、はたまた悪魔の呪いか。奇跡のような確率のなかで、実験に耐え、生きのびた人間がたったひとりだけ存在した。
 それが、マキシム・デュカン。
 マキシム・デュカンは超並列体の被験者にして、唯一の生き残りである。
 マキシムは拡張された脳機能を駆使し、超人的な頭脳によって権力の座を駆けあがった。マキシムの人とは思えぬカリスマ性は人びとを魅了し、いつしか哀れな被験者だったはずの男は、エクサゴナル共和国の最高権力者……〈指導者〉となっていた。
「おのれ……おのれ……ッ!」
 床に這いつくばり、わななく。ふだん民衆に見せている姿からは想像もできない無様な姿だった。マキシムは苦痛と屈辱とに顔を歪め、うめいた。
「おのれプロフェッサー・ガエタン……おのれ〈軌道旋風〉……おのれ……おのれ……ッ! 私を侮る貴様らに、いつか目にものを見せてくれよう……必ず……」
 その目が、瞳孔が。極限まで見開かれ、マキシムは獰猛なる雄叫びをあげていた。
「必ずだッ!」

「…………ッ!」
 動くことができなかった。まるで金縛りにあったみたいだった。
 ルウルウは、目を見開いたままで固まっていた。
 眼前でたたずむ女はとても人とは思えない。神的な雰囲気を漂わせ、そのまなざしは深く、すべてを射ぬくように冷たかった。
「……ルウルウ」
 沈黙を破ったのはデミルだった。
「降ろしてくれ」
「デミル……?」
「大丈夫だ。おそらく、いまはまだ」
 戸惑うルウルウの肩から、デミルは静かに大地へと降りたつ。
「俺にはわかる……お前に俺たちを攻撃する意思はないということが。いまは、まだな。そして」
 デミルはその手に持つ白杖で、爆発した番犬どもを指し示した。
「お前もあいつらと同じなのだと、俺にはわかる」
「え?」
 ルウルウが驚きの声をあげ、白杖の示す先を見た。瓦礫のうえ。バチバチと火花が散っていた。散らばる金属。配線や基板。残骸。ルウルウは呟く。
「機械……人形……?」
「その通り」
 女は小さくうなずいた。
「ここにいるわたしは機械。そして……」
 女は空を見あげ、おごそかに続ける。
「わたしの本当の体は、あの空の向こうにある」
 黒煙たなびく空を、女は遠いまなざしで見つめている。
 身を包む白いボディースーツは、微かな光を放っている。
 その様は、まるで神託の巫女を思わせた。
「つまり……お前は宇宙にいるのか」
OuiYes
 奇妙で、不思議な感覚だった。
 女は宇宙にいる。
 同時に地上にも……目の前にも存在している。
 こうやって、デミルたちと会話すらしているのだ。
 どこかSFじみた、神秘的な時間が流れていた。
 だがデミルにはわかっていた。
 女は、けっして味方などではない。
 むしろ〈屍衆〉の……いや、アルドリア連邦の敵なのだと。
 デミルは思い浮かべる……一瞬にして番犬どもを葬った、女の体さばきを。
 ハッチから跳びだした直後、宙で身を捻り旋回。その瞬間、繰りだした超絶の蹴りで、取りかこむ番犬どもに衝撃を浸透させ破壊。さらには爆発寸前の番犬を踏み台にして、瞬間移動のごとくルウルウの眼前へと跳んだ。
 それはデミルですらかろうじて認識できるほどの、超速の身体操作だった。
 この女は。
 デミルは思った。
 その気になれば俺とルウルウの命を、一瞬で絶つことができるはずだ。
 冷たい汗がデミルの頬を流れてゆく。
 デミルはいざという時の切り札を……白杖を握りしめた。
「お前は何者だ。なぜ、俺たちを殺さない。いったいなにを考えている?」
 女は空を見あげたまま、それにこたえる。
「均衡」
「……均衡?」
「そう、均衡」
 女はその超然としたまなざしでデミルを、そしてルウルウを見つめた。
「わたしは常に見ている……世界を、地球を。ふふふ……知っているかしら。気温が上昇して大洋が熱せられると、そこから遠く離れた土地では嵐が起きる。一方で、地球の反対側では乾いていく土地がある。そこには飢えゆく人びとがいる。戦争が起きる。飢えた人びとがさらに死ぬ。でも戦争から遠く離れた土地では、豊かな生活をつづけている大衆もいる。彼らは知らない。自分たちの幸せが、多くの屍のうえに成りたっているということを。それを知らずに穏やかに生きている……知らなければ幸せでいられる……こうやって世界は天秤を揺らしつづけて、傾きあいながら均衡を保ちつづけている。わたしは天空から、そんな地上を見つめつづけている……」
 ルウルウは思わず唾を呑んだ。
 人ならざる者と対峙している。
 女には、そう感じさせるなにかがあった。
 女は続けた。
「でもいま、世界は急速に均衡を失いつつある。そしてその渦の中心に」
 女は地面を指さした。
「ここ、エクサゴナルがある。愚かなるマキシムとそれに従う羊……ピュアで愚鈍な羊たち。彼らによって巻きおこされた混沌の渦が、いま、世界の均衡を破壊しようとしている」
 だから、と女は続けた。
「均衡を取りもどす必要がある。そのためには、混沌を消しさるような大きな力が……浄化の力が必要。そう、あなたたちのような荒々しい暴力がね」
 その瞳の底には冷たい光が宿っていた。
 女は手を広げ、いまだ黒煙をあげつづけるパリスを見渡す。
「ふふ、いい感じ。マキシムの混沌が浄化されていくのはすてき。こうやって世界は均衡を取りもどしていくのだから……」
 それはまるで天上の存在が、ちっぽけな地上について語るかのような口調だった。
「わたしは守護天使。共和国を……エクサゴナルを護るために生みだされた存在。わたしには義務がある。エクサゴナルから生じた混沌を消しさり、世界に均衡を取り戻す義務がね。だからいま、こうしてここにいる。浄化の担い手たる、君たちの目の前に」
 女はデミルたちを見つめ、冷たく微笑んだ。
 デミルの手は震えていた。
「……なにを、言っているんだ?」
 デミルの盲いた目が見開かれ、顔が歪んだ。
「お前は……」
 怒り。それは怒りだった。
 デミルにとって、エクサゴナルの民などどうでもよかった。たとえ無辜の市民であろうとも、デミルは容赦なく殺しつくす覚悟があった。焼きつくし、滅ぼしつくす。そのつもりでここにいる。同情する気持ちなど、微塵も存在しない。彼らがどうなろうが、知ったことではない。
 だが。だが、それでもなお。
「神にでもなったつもりか?」
 女のもの言いは、ただひたすらに不快だった。
 女の傲慢は、デミルの奥底から嫌悪の情を呼び覚ましていた。
「お前は……ッ!」
 こいつも同じだ。高みから。安全な場所から。俺たちを笑って踏みにじる。そういう類の連中だ。きれいごとを並べたて、自分のゲスな行為を糊塗して正当化する。
 クソのような、人間の屑ども。
 デミルの脳裏に瞬間、焦土と化した故郷、その失われた日々が浮かんでいった。セレンとともに過ごした時間。その匂い。せせらぎの音。木漏れ日の暖かさ。君の笑い声。安らかな時間──。
 デミルのなかでなにかが沸騰した。
 俺たちの、敵。
 こいつは、俺たちの敵。
「デミル、ダメだッ!」
 ルウルウが悲痛に叫んだ。
 だが刹那。
 デミルは鬼気迫る表情で、白杖に隠していた仕込み刀を抜刀していた。それは神速の居合い。その速度は鋼鉄ですら両断する、必殺の剣技であった。たとえ超絶の体技を誇る女であろうとも、この間合いから逃れる術はない。
 ……はずだった。
 しかし。
 空気が揺らぐ。
 そこに、すでに女の姿はない。
「!」
 デミルの首すじにひやりとした感触があった。
「ふふ……」
 女の手。女はすでに背後にいた。
 デミルは動けない。
 とめどもなく汗が流れる。冷たい汗だった。
 世界が動きを止め、デミルは死を予感した。
 だが。
 ふっ、と女の笑い。
「よしましょう」
 空気が弛緩し、女の手が離れてゆく。
 ルウルウが大きく息を吐きだすのが聞こえた。
「なぜ……」
 振りかえるデミルの前に、差しだされたのは女の手だった。
「わたしにとって、君の怒りなんてどうでもいい」
 そう言って女は、手から小さななにかを放った。
 緩やかな放物線を描き飛んできたそれを、デミルは掴む。
 記録素子メモリチップだった。
「……なんの真似だ」
「それは〈指導者〉公邸の詳細データ。好きに使いなさい」
「な……ッ」
 言葉がでない。
 デミルとルウルウが呆然するなか、女は背を向けて悠々と歩きはじめる。
 デミルはうめいた。
「お前……!」
 女は首だけ返し、静かに告げた。
「ギャブリエル」
「なんだと……?」
「わたしの名は、ギャブリエル。教えてあげる。君たちも、わたしも、マキシムも……みな同じ」
 女は瓦礫の山を跳躍し、その頂点に立った。
 ふたりを見おろし、続ける。
「わたしたちはみな、プロフェッサー・ガエタンの子ども。だから姉として、君たちにはいささか同情の念もある」
「プロフェッサー……ガエタンだと……?」
 言葉をつげないでいるデミルたちに向けて女は微笑んだ。
 その笑みにはどこか、憐憫にも似たなにかが含まれている。
「なんなんだ、お前は……」
 うめくデミルたちを包み込むように、突如、風が吹き荒れた。
「デミル……!」
 不安そうにルウルウもうめく。
 吹き荒れる風のなかで、デミルのなかでも、なにかが荒れ狂っていた。崩れるかのようだ……世界が崩れていくような感覚だった。
「プロフェッサー・ガエタン……? 同じだと……? 俺たちとマキシムが?」
 やがて風はやみ……女は消えていた。
 デミルたちの胸のなかに、不吉な予感だけが残されていた。

第四話に続く

【次回予告】
続々と集結する〈屍衆〉の強者たち。彼らは〈指導者〉公邸襲撃を決行する。だがそれは〈楽園の地獄〉最終章のはじまりに過ぎなかった。

軌道旋風ギャブリエル『楽園の地獄』
第四話「マキシムの楽園」

エクサゴナル。それは、破滅が定められた楽園。

この続きは2022年6月24日に発売された「無数の銃弾:VOL.5」で読めます。

次号VOL.6発売のタイミングでVOL.5掲載のエピソードもnote上で公開予定です。

きっと励みになります。