四号警備2 新人ボディガード久遠航太と隠れ鬼(3)/安田依央
放課後のひとけのない廊下を走る。来客用のスリッパに足を取られ、走りにくいのがもどかしかった。
九月一日はつつがなく過ぎた。始業式と新学期のガイダンスは、午前中で終わりだったので朝、学校近くまで絵理沙を送り、校門をくぐるのを見届けた後、近くの本屋やカフェで時間を潰して、帰路も付き添った。
電車移動に一時間近くかかる道のりだが、朝夕は有料の座席指定車を使うため、混雑した車内で痴漢被害に遭う心配はない。特に危険もなさそうだったが、航太は彼女の隣の席に浅く腰かけて、一応周囲を警戒しているし、絵理沙は持参した本に集中していて、これといった会話もなかった。
翌日、つまり今日より通常授業が始まり、授業後のホームルームが終了する四時前に正門近くのコンビニで彼女を待つことになっていた。航太は門の前で待機するつもりにしていたが、校門前に男性が立っていては目立つから困ると言われた。昨日、航太と合流し歩く姿を見られ、クラスで噂になったらしい。
「彼氏でもないのに、彼氏とか言われても迷惑でしかないんで」
ぼそぼそとした声だが、結構厳しい口調で言われ航太は恐縮した。絵理沙が校門から出たら三メートルぐらい離れて後ろからついてくるよう言われてしまった。自分の気の利かなさを反省しつつ絵理沙を待つ。
ところが四時を過ぎても一向に彼女は現れなかった。クラスメートとおしゃべりをしていて遅くなることもあるかも知れないので少し様子を見る。このような場合どのタイミングで誰に連絡を取るのか、会社と依頼主である浅川社長との間で取り決められたルールがあった。
そのルールに従い、三十分を過ぎたところで航太は会社に状況を報告し、絵理沙のスマホに電話を入れた。
しかし、かからない。電源が入っていないか圏外だというのだ。さすがにこれはまずい。ユナイテッド4経由で浅川社長に連絡を入れ、社長から学校に話を通してもらった。
手の空いた先生に校内の様子を見てきてもらったが、返ってきたのはどこにも姿がないという返事だった。
学校側の許可を得て校内に入る。クラス担任は若い女性で、校内放送で絵理沙を呼び出すと共に、絵理沙の所属する二年の教室やトイレも見てくれていた。
「お忙しいところを申し訳ありません」
「いえ、私どもも心配しておりますので。どこに行ったんでしょうね、浅川さん。さっき昇降口も見てみたんですけど、上履きのまま履き替えていないみたいです」
裏門から出た、あるいは航太の隙をついて帰ってしまった可能性もあるかと思っていたが、まだ校内に留まっていることになる。
校内見取り図のコピーをもらい渡り廊下で二手に分かれることになった。連絡用に電話番号を交換しているところで先生が航太に向き直り言った。
「浅川さんは二年になって編入されてきたんですが、本校の雰囲気になかなかなじめないみたいで心配していたんです」
「そうなんですか?」
「それでも二学期に元気な顔を見せてくれたので安心していたんですけど……」
学校になじめない子が夏休みを境に不登校に陥ってしまうのも珍しくはないそうだ。
「本校はケア体制も手厚いですし、そんなことになる生徒は少ないんですけど、やはりゼロというわけにはいかないんですよね」
ホイッスルの音に続いて、溌剌とした掛け声が聞こえる。広い中庭でチアリーディング部の練習が行われていた。中高一貫で文武両道、進学率の高さはもちろんスポーツ強豪校としても有名な私立女子校だ。さっきから何人かの生徒と行き合っているが部外者の航太にも明るい声で挨拶をしてくれる。
どこかの部活を見学している可能性はないかと先生に訊くと、浅川さんは誘ってもなかなか応じてくれないのでそれはないだろうという答えが返ってきた。
教室以外で生徒が行きそうな場所を見取り図で確認し、航太は四階から屋上へ向かうことにした。階段を駆け上がりながら、不安がせり上がってくるのを感じている。確かに今朝、浅川邸まで迎えに行った際の絵理沙は昨日以上に憂鬱そうだった。
航太の姿を見て、彼女は溜息を一つついた。のろのろとした動作で靴を履くと、見送りに来た家政婦さんから鞄を受けとり、諦めたような表情で「いってきます」と言ったのだ。
もしかすると絵理沙にとって、学校というのはあまり居心地の良い場所ではないのかも知れない。しかし、それなら一刻も早く帰ろうと思うのではないだろうか? 時刻はもう五時半を回っている。何度も絵理沙の電話を鳴らしているが、一向につながらなかった。
不意にスマホが震え、絵理沙かと期待したが、走りながらディスプレイを見ると、浅川社長だ。
「絵理沙は? あの子は見つかったの!?」
いきなり怒鳴られた。
「現在、先生方と一緒に校内を探しています」
「ちょっとどういうこと? あんたがついていながらなんでこんなことになるのよ。一体何をやってたの!? あの子にもしものことがあったらどうしてくれるの」
早口で捲し立てるように叫ぶ浅川社長に「申し訳ありません」と言うのが精一杯だった。航太は腹にぐっと力を入れ、冷静になろうと努め口を開く。
「あの浅川社長。一つお聞きしたいのですが」
「何っ!?」
噛み付くように言われ、一瞬怯むが続けた。
「絵理沙さん、学校について何か言っておられませんでしたか?」
先ほど、担任の先生から一学期はあまりクラスになじめず、一人でぽつんとしていることが多かったと聞いている。先生や学級委員が皆の輪に入れるように働きかけたものの、あまりうまくいかなかったそうだ。
「いいえ、何も聞いてないわよ。ちょっとヘンなこと言わないで。不満なんかあるわけないでしょう。去年まで通っていた共学の中学が合わなくて、そこに替わったの。苦労して色々探したのよ? 通学に時間はかかるけど、そこならみんな明るくて学校側もきちんと目を光らせてくれるから、いじめに遭う心配もないし安心なはず。編入を受け入れてもらうためにどれだけ寄付金を積んだと思ってんの。これから警察にも連絡しますからね。ああ、もう。この忙しい時にどうしてこんな。だからエスコートを頼んだのに何やってんのよ。いい? 私は時間がないの。切るわよ」
そう言ってぶつりと通話が切れた。
もし絵理沙にとってここが苦痛だったとすると、放課後のこんな時間まで校内に残る理由があるのか? まさか自殺? 不穏な考えが浮かび、ひやりとした。
慌てて打ち消すが、やはり不安だ。だって航太は絵理沙のことを何も知らない。彼女が何を考えているのか、どんな気持ちで通学しているのか分からないのだ。
そこまで考えてちょっとへこんだ。それじゃダメだったのか。ただ学校に送り届ければいいと思っていたけど、もっと彼女の気持ちに寄り添うべきだったのかも知れない。
考え過ぎならそれでいい。
とにかく絵理沙を見つけないと――。
再び走り出した航太の耳に校内放送のアナウンスが聞こえてきた。
「現在の時刻は午後五時三十分、あと三十分で部活動は終了です」
アナウンスのあと音楽が流れ始める。その曲を聴いた瞬間、それどころじゃないと分かっているはずなのに、心臓を鷲掴みにされたような気がした。
日本語の女性ボーカルだ。変わった声だ。あまり聞いたことがないタイプの珍しい音色。特別低音というわけでもないが、少しハスキーで不思議な揺らぎを含んでいる。
――飛べ、高い場所から。目の前にあるアイマイなもの全部蹴飛ばして、ぶち破れ、壁を――
歌と共に鮮やかな世界が展開していくような気がした。決して無理して歌いあげているという風ではないのに恐ろしく力強い。頭をがしっと掴まれ、激しく揺さぶられているような気分になる。鷲掴みにされたまま逃げられないのだ。
何だこれ、誰の歌? 一つの音ごとに奥の奥まで声の成分がぎっしり詰まっているみたいだ。恐らく並外れた声量があるのだろう。
――私の人生、これ限り。あんたの人生、それ限り。明日には終わってるかも知れないんだ。だから前へ、前へ進め、もがいても――
すごいなと思った。感情を揺さぶられ、いても立ってもいられない気持ちになる。
いや、何言ってんだよ俺と思った。今はまず絵理沙の安否だ。一刻も早く彼女を見つけ出さないと。自分に言い聞かせながら名も知らぬ女性シンガーの声に追い立てられるように走る。図書室は既に利用時間が終わっていて真っ暗だった。入口脇の操作盤を見ると、セキュリティシステムが作動している。視聴覚教室、英語教室。どこも同様で絵理沙は見つからない。
もし、彼女が自殺でもしたらどうなる?
これは俺にとって任務の失敗になるのか? ユナイテッド4や烈にどれほどの迷惑がかかるだろうと思った。
でも、こんなことが起こるなんて予想できなかった。エスコートは通学の安全を確保するものだ。学校内で起こったことは責任の範囲外なのではないか――。自己保身のような考えが次々に浮かぶ。
その瞬間、女性シンガーが「そんなことどうだっていいんだろ」と叫んだ。サビの部分にさしかかったのだ。
ガンと頭を殴られたような気がした。その通りだと思った。自分のことなんてどうでもいい。まずは絵理沙だ。慌てるな。どこだ、彼女はどこにいる? 焦る気持ちを落ち着かせ、迷路のような校内を走っている。
曲が変わった。今度の歌は「媚びるな」という一言から始まった。アップテンポのノリのいい曲だ。男の前で可愛いふりをしてきた自分に決別するという内容だった。
――それが本当の自分じゃないこと自分が一番分かってるのに、なんでそれやる、私もあなたも。違う違う違う。私は私であなたはあなただ。誰の真似でもなくて、誰かの理想を演じることもないはずだよ――
歌詞は強いが、この曲の彼女はどこか肩の力が抜けており、少しコミカルにも聞こえる。落差がすごい。声が特徴的なので同じシンガーと分かるが、こうやって聞き比べなければ同一人物と気づかないかも知れない。
暑い。航太は四階の廊下にいるが、空調が切れたようで、一気に汗が噴き出してきた。
「絵理沙さん。いらっしゃいませんか? 久遠です」
廊下の窓越しに見る空が次第に光を失っていく。曲に負けじと張り上げた声が、リノリウムの床の上に虚しく落ちた。
後は屋上かと見取り図を見直す。屋上へ出る扉は施錠されており、生徒が勝手に出入りすることはできないらしい。それでも屋上へ向かう階段を見つけ、駆け上がる。
ここにも校内放送が流れていた。
曲が変わる。同じ女性の声だ。さっきとはうって変わって、囁きかけるような曲調だ。
改めて思う。この人の声には深みというか厚みがあって、とても心地がいい。窓もない空間で、彼女の声に抱かれているような不思議な浮遊感を感じた。
あがったり下がったり複雑な音階だ。航太は音楽が得意ではなかったが、多分、楽譜に起こすと音符が乱高下しまくっていると思われた。これを歌いこなすのは相当難しそうだ。
内容もこれまでの曲とはずいぶん違う。
――何故いつもこんなに苦しいんだろう。何が苦しいのか分からないけど、とても苦しいよ。何かが足りないわけじゃない。満たされていても一人。どれだけ周りに友達がいても、一人だって思う。みんな楽しそうに笑ってるのに、私は心から笑えたことない――
メロディ自体はさほど陰鬱なものではない。短調かと思うと、長調に変わる。それでいて妙に心を揺さぶられた。
どうしてなのだろう。静かな声に心の一番奥に大切にしまいこんでいるもの、普段は意識から消してしまっているような何かを「そこにある」と突きつけられる気がする。
屋上へ向かう階段を上った先で防火扉が片方だけ閉まっていた。その陰を覗き込んで、航太は思わず声を上げた。
「絵理沙さ……ん。良かった。ここにいたんですね」
(第4回につづく)
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