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軍都と色街 第十二章 佐世保 前/八木澤高明

 佐世保させぼへは、博多から鉄道で移動した。それにしても佐世保という地名には、何とも不思議な響きがある。語源が気になり少し調べてみると、アイヌ語からてんしたという説や狭い川の瀬を意味する、させから生じたという説、さらにはさせぶという木が繁茂していたことが、語源になったという説もある。それにしても様々な説がある。
 佐世保など語源のはっきりしない地名というのは日本にはかなりある。この列島の歴史の深さを感じる時でもある。
 そんな取り留めもないことを考えながら、車窓風景をぼんやりと眺めていたら、列車があり駅に停車した。
 有田は、焼き物で有名な土地であるが、この街の名を聞いて、ひとりの人物のことを思い出した。戦場カメラマンとしてカンボジアで亡くなったいち泰造たいぞうである。
 その名前を知ったのは、今から三十年ほど前、大学を中退してカメラマンを志していた頃のことだった。当時写真のイロハを教えてくれた先輩が、一冊の文庫本を「読んでみろ」とプレゼントしてくれた。本の名前は『地雷を踏んだらサヨウナラ』、戦場カメラマン一ノ瀬泰造の書簡集だった。
 ページを読み進めていくうちに、一ノ瀬氏の文と写真に魅了された。取材先へ常に持って行っては、ページをめくった。軽妙な文章の中に、彼の持っている繊細さや優しさが感じられて、私も将来彼のようなカメラマンになりたいと思った。今では彼が亡くなった年齢である二十六歳をとっくに超えてしまった。もうその倍の年齢になってしまった。
 その一ノ瀬泰造が戦場の他にライフワークとして撮影していたのが、有田焼の工房やその歴史だった。
 静の象徴ともいうべき有田焼に向かい合う一方で、彼はカンボジア内戦当時、カンボジアの共産組織クメール・ルージュによって占拠されていたカンボジアの遺跡アンコール・ワットを撮影することに命を賭けた。
 当時のアンコール・ワットは、内戦下で誰も入ることは許されず、幻の遺跡となっていた。それを撮影すれば、世界的な栄誉を得られるという思いから、一ノ瀬泰造はアンコール・ワットを撮影しようと、単身潜入を試み、クメール・ルージュに拘束され、処刑されてしまったのだった。
 私は、ポル・ポト派の残党を取材するため今から十五年ほど前にカンボジアを訪ねたことがあった。その時どうしても行きたいと思っていたのが、一ノ瀬泰造が命を落としたアンコール・ワットだった。
 一ノ瀬泰造が生前、アンコール・ワットを撮影するために拠点としていたのが、シェムリアップという町だった。
 シュムリアップのゲストハウスに宿を取り、日の出前、私はバイクタクシーでアンコール・ワットへと向かった。森の中を抜け、ほりに囲まれたアンコール・ワットは予想以上に大きかった。バイクを降りて、濠に架かった石の橋を渡り、内戦の傷跡である弾痕が残った回廊を抜けるとだいらんが見渡せた。
 日の出の時刻が近づくと、大伽藍周辺は、いつのまにか多くの観光客でいっぱいになった。一人の戦場カメラマンが命がけで、忍び込もうとした時代からは、隔世の感がある。
 今日のアンコール・ワットの状況を、果たして一ノ瀬氏はどんな表情で雲の上から見つめているのだろうか。
 日の出を眺めると、私は大伽藍へと足を運んだ。十字回廊には、江戸時代にアンコール・ワットを訪れた日本人森本もりもとこんゆう一房かずふさの落書きも残っていた。
 森本は、江戸時代のはじめ一六三二(寛永九)年にカンボジアに渡り、アンコール・ワットを訪ねた。森本は、これから向かう佐世保と同じ長崎県にあった平戸藩の藩士だった。
 九州出身の森本と一ノ瀬がアンコール・ワットという建造物を目指したことに不思議な因縁を感じずにはいられない。森本は、父のだいを弔うことと、母の健康を祈念するためアンコール・ワットを訪ねたという。森本が仕えたまつ氏は当時、国際的な貿易港だった平戸を有していたため、アンコール・ワットに向かうことができたのだろう。鎖国前夜の江戸時代のはじめ、幕府は西国の諸藩が東南アジアの国々と貿易することを認めていた。幕府が発行する朱印状が必要だったことから、朱印船貿易と呼ばれるが、西国諸藩と東南アジアは、私が想像する以上に身近だったに違いない。
 おそらく、森本以外にもこのアンコール・ワットを訪ねた日本人はいたことだろう。大伽藍の上から、アンコール・ワットを眺めると、それにしてもこれだけのものを造ったアンコール朝の凄さに驚かずにはいられなかった。
 アンコール・ワットは、十二世紀アンコール朝のスールヤヴァルマン二世によって、ヒンドゥー教寺院として建造された。完成までに約三十年の月日を要したという。十二世紀といえば、日本では平安時代から鎌倉時代への転換期、勿論もちろんこれだけの建造物を造った権力者は存在しなかった。
 約六百年に渡って栄えたアンコール朝は、大規模な灌漑かんがい施設を造ることによって国家を発展させ、アンコール・ワットなどの大建造物を次々と建造していった。アンコール朝は、精神世界を具現化するために、多くの人々を労役に駆り立て、おそらく数十年の月日の中で、かなりの人々が死んだに違いない。記録によれば、アンコール・ワットの建造と前後する時期、アンコール朝に対する国内の反乱が頻発している。
 そして、アンコール朝は反乱などで弱体化したことにより隣国タイのアユタヤ朝によって滅ぼされた。
 一ノ瀬泰造が命がけで撮影を試みたアンコール・ワット。一ノ瀬がアンコール・ワットに向かったのは一九七三年十一月のことだった。
 私はこの原稿を書くにあたって、十数年ぶりに若かりし頃、貪り読んだ『地雷を踏んだらサヨウナラ』を手に取った。
 一ノ瀬はカンボジア人の家に居候しながらアンコール・ワットに潜入する機会を窺い、友人の教師ロックルーの結婚式を撮影したあと、決行する数日前に、日本の友人や先輩たちに手紙を書いていた。友人のアカツさんに宛てた手紙の最後はこう記してある。
 
“もし、うまく地雷を踏んだら、サヨウナラ!
 今から、同居している多勢の子供たちを撮ります“
 
 地雷を踏んだらサヨウナラという一節が衝撃的だが、私には居候していた家の子どもたちにカメラを向けた一ノ瀬の行動に、興味を覚えた。果たしてどのような写真を撮ったのか定かではないが、彼は子どもたちにカメラを向けながら、これからはじまる命がけの取材に高ぶる気持ちを抑えていたのかもしれないなと思った。
 一ノ瀬はアンコール・ワットへの潜入には成功したが、クメール・ルージュに拘束され最終的には処刑されたという。一ノ瀬の死後、カンボジアは共産勢力のポル・ポト派が政権を樹立し、過度な共産主義を推し進め、何百万人もの人々の命を奪った。その中には、結婚式を撮影したロックルーも含まれていた。
 カンボジアで亡くなった一ノ瀬のことを思い返しながら、年を重ねれば重ねるほど、旅をするということは、土地の景色を眺め、歴史を辿たどるだけでなく、己自身の心のうちを巡ることなのだと感じたのだった。

寒村から鎮守府へ

 電車がJR佐世保駅に到着したのは、ちょうど昼過ぎのことで、季節は夏ということもあり、容赦のない日差しが照りつけてきた。
 私は、駅を出るとすぐにレンタカー屋に駆け込んだ。車の冷房を勢いよくつけて、勝冨かつとみ遊廓へと向かった。
 佐世保が開けたのは、横須賀や呉と同じく軍港だったからである。
 それ以前は、ひなびた漁村で、紅燈とは無縁の土地であった。軍港以前の姿は、横須賀や呉とまったく同じである。
 そう考えると、当時の日本社会において軍というものが、巨大な経済装置であったことがよくわかる。
 ロシアの侵攻により、ウクライナでの戦闘が泥沼化し、多くの人々が塗炭の苦しみを味わっているが、その背後では、軍隊が動き武器が使われている以上、どこかで莫大ばくだいな利益を享受しているものがいる。
 駅から二十分ほど車を走らせただろうか、港から離れた住宅街に着いた。勝冨遊廓がかつて存在した場所だった。周囲は小高い丘になっていて、港は見えない。港からの距離にしたら、一キロほどだろうか。
 これまで、呉や横須賀、大湊といった軍港にあった遊廓跡を訪ねてきたが、どこも同じような地形の場所にあった。軍港や駐屯地などからは、離れた場所にあって、小高い丘の谷沿いである。軍隊とは付かず離れず、微妙な距離の場所にあった。その距離感は、遊廓というものが、軍隊にとって必要なものではあるが、あまり公にはしたくないという政府の意思があるからではないだろうか。
 佐世保が鎮守府に指定されたのは、一八八六(明治十九)年のことであるが、佐世保が候補地にあがったのは、その三年前のことだった。この時、測量のため佐世保を訪れたのは、日露戦争で連合艦隊を率いて、ロシアのバルチック艦隊を撃退した東郷とうごう平八郎へいはちろうだった。
 測量には八十名ほどの班員がきたが、彼らが宿泊する施設などはなく、民家に宿泊しながら一ヶ月ほど作業した。小さな漁船しか見たことがなかった佐世保周辺の人々には、測量船は巨大で、多くの見物客が押し寄せたという。
 その後、鎮守府に指定され、建設工事がはじまると、急速に佐世保の街は発展していくことになる。一八八三年に三千七百人ほどだった人口は、一八八六年には倍近い七千百人になった。さらに各地から仕事を求めて出稼ぎ人たちもやってきた。
 労働者たちが集まると、すぐに女性を置いた料理屋ができ、賑わうようになったという。曖昧屋と呼ばれたそうした店は、男たちに料理と酒を提供し、性欲を満たす遊廓の役割も果たすようになったのだった。
 曖昧屋は佐世保の街中に点在するようになり、佐世保のあるひがしそのぐん郡長の原田謙吾は、曖昧屋を野放しにするのは風紀の管理上不適切だと考え、遊廓設置を早々に許可したのだった。
 遊廓設置に関してはそれ以前、佐世保に鎮守府が内定すると、海軍次官樺山かばやま資紀すけのりが、佐世保に出張してきて、郡長の原田と打ち合わせをしており、設置の件は既定の路線だった。樺山はその出張の際に遊廓を設置する予定地までも下見していたのだった。
 海軍が、鎮守府内定の段階で入念に遊廓を設置することまで決めていたのは、風紀の乱れを防止するということ以外にもうひとつ重要なことがあった。風紀の乱れを防止するためというのは、当時の新聞記事などにも散見されるが、海軍だけでなく、軍隊にとって、遊廓設置において一番重視されることは、兵士たちの性病対策である。
 明治時代に日本政府が徴兵制度を導入するに当たって、気にかけたのは、国民病とも呼ばれた梅毒への対策だった。軍隊に性病が蔓延すれば、かんしゃの分だけ戦闘力が低下することになる。
 梅毒は、現在でも数年ほど前から国内で患者数が増えていることが話題になっているが、江戸時代にはかなりの数の感染者がいた。
『蘭学事始』を刊行したことでも知られているすぎ玄白げんぱくは、江戸で年間千人ほどの患者を診たと言われているが、そのうち七割か八割が梅毒の感染者だったという。発掘された江戸時代の墓から出土した人骨を調査したところ、その約半数が梅毒感染者だったという記録もある。
 果たして、どれほどの感染者がいたのか正確な記録は残っていないものの、残された記録などから想像するに庶民の間には梅毒が蔓延していたことは間違いなかった。その背景には、江戸時代になって全国各地に遊廓ができ、街道筋には飯盛めしもりはたなどが多く存在したことがあり、庶民の間に梅毒が急速に広まっていったのだろう。
 梅毒が蔓延していたのは、日本だけではなかった。イギリスでは一八六四年に伝染病予防法という法律が施行されている。その法律の実態は性病予防で、軍人たちを性病から守るために娼婦などに対して梅毒検査を実施した。当時のイギリス軍では、陸海軍人の約三割が梅毒に感染していたともいわれ、梅毒対策は重要なことだった。イギリス軍による梅毒検査は、日本の横浜でも行われた。一八六七(慶応三)年のことで、イギリス兵が横浜に駐屯していたこともあり、兵士たちが出入りしていた横浜の港崎みよざき遊廓の娼妓に対して行われたのだった。
 イギリス軍ばかりではなく、各国の軍隊にとって性病対策は、重要なことだった。『陸軍と性病』(藤田昌雄著)に、明治時代の平時におけるヨーロッパ列強の性病感染率が掲載されている。それによれば、各国軍隊では十パーセントから三十パーセントという確率で、梅毒などの性病に兵士たちが感染している。第一次大戦下のドイツ軍においては、平時は約十九・九パーセントだったものが、その倍以上の四十四パーセントまで増加している。
 軍隊にとって死活問題である性病に対して、海軍であれば鎮守府、陸軍であれば連隊の駐屯地のある場所に遊廓が作られ、太平洋戦争がはじまると、占領地には慰安所が設置されて対策が講じられたのだった。
 もう今から、十五年ほど前のことになるが、日本海軍の元軍人に慰安所に関する話を聞いたことがあった。彼は私を家に招いてくれて、アルバムに収められていた写真を見せながら話をしてくれたのだった。
 彼の海軍兵学校時代の写真や戦地での写真などが貼られたアルバムをめくっていくと、思いがけない写真が目に飛び込んできた。
 椰子やしの木が生え、南国情緒が漂ってくる写真、そこにはインドネシア人だという女性が三人とこの日話をしてくれた男性が写っていた。写真の横には説明が記してあり、女性のひとりはスズメさん。男性はそのスズメさんの肩に手を回し、リラックスしている。男性の後ろに立つ二人の女性は、それぞれ少し緊張の色が見え、スズメさんは笑顔である。
「これはね。インドネシアのスラバヤで撮ったんだよ。三人の女性は現地の慰安婦。日本軍の占領地には慰安所があってね。その事実は隠しちゃいけないと思っているよ」
 元軍人は、デリケートな問題である慰安婦の存在を包み隠さず、話してくれた。
「韓国では、ひどい扱いを受けたという女性もいるけど、私が知る限りは、そんな女性ばかりではなかったよ」
 この一枚の写真で慰安婦たちの置かれていた状況をすべて窺い知ることは、もちろんできない。ただ写真からは、従軍慰安婦の枕言葉ともいえる性奴隷などというおぞましい印象を受けることはなかった。彼女たちとこの男性の間には和やかな空気が漂っている。スラバヤには当時、三軒の慰安所があって、朝鮮半島から来た女性たちもいたというが、彼が持っていた写真にはインドネシア人の女性しか写っていなかった。
 インドネシアから話は飛ぶが、伝わる話としてビルマ戦線では、慰安婦と兵士が結婚した話もあるという。
 戦場という極限状況の場である以上、日常からは考えられない悲劇も当然あった筈だ。しかし四六時中砲弾が飛んでくるわけではなく、時には、穏やかな日々もあったことだろう。そして、兵士も人の子であれば、慰安婦も人の子である。そこには、互いに交わされる情というものがあったはずである。どんな場所であれ、戦時下という時代であれ変わらないのが男女の間に流れる自然な感情なのではないか。

佐世保湾を望む

遊廓の歴史

 佐世保が鎮守府に指定されると、その翌年の一八八七(明治二十)年には、遊廓の設置が正式に許可された。労働者の流入による人口の増加や軍人たちへの性病の蔓延を防ぐために迅速な措置が取られたのはいうまでもない。
 私の手元に『佐世保遊里考』(山口日都志著)という本がある。佐世保の遊廓の歴史をそのはじまりから終わりまで記した力作である。その作品から引用させてもらいながら、話を進めていきたい。
 軍港として佐世保が開けると、町の中心部から歩いて一時間ほどの場所にかぜ遊廓ができた。三軒の貸座敷が営業をはじめ、どの店にも十五人ほどの娼妓がいたという。店には海軍の関係者、工事関係者、町の富裕層などが、人力車などを利用して通った。
 ただ、木風遊廓は街の中心部から遠かったことが、海軍関係者が気にした点だった。遊廓というのは、海軍の施設から近過ぎて、三味線の音が聞こえて来るような場所はダメで、一方で遠過ぎても水兵たちが通うのが大変で、近場にいる私娼に手を出すことになる。そうなると性病が蔓延してしまう。絶妙な距離が求められた。さらに木風遊廓は海軍の事情だけでなく、遊廓周辺の住民たちの水源となる川が流れているという事情もあった。遊客が多く押し寄せたことにより、その水源の汚染も懸念されたのだった。
 様々な事情が絡み合い、遊廓関係者は移転を申請した。業者にとっても、上客である海軍から遠い場所よりは、近いにこしたことはない。
 海軍と業者の思惑が一致したこともあり、一八九一(明治二十四)年に中心部近い、きょうのつぼへと移った。遊廓は小佐世保遊廓と呼ばれ、三軒から営業を開始した。
 その後、対外的には日清戦争、日露戦争が勃発し、佐世保に鉄道が開通すると、更に人口が増加した。一九〇二(明治三十五)年には、佐世保市となり人口は五万人を越えた。人口構成も男性の人口が女性を常に一万人ほど上回っていたこともあり、遊廓が発展する要素が揃っていた。
 小佐世保遊廓は、大きく発展していき、明治の末には二十軒近くに増えて、勝冨遊廓と呼ばれるようになったのだった。
 佐世保には、その後もうひとつ遊廓が作られた。一九〇九(明治四十二)年にできた花園遊廓である。そのルーツは、宮田町にあった私娼窟だった。宮田町と隣接する万徳町に佐世保を守るための陸軍砲兵連隊が置かれた。その砲兵連隊の兵士向けに飲食店ができ、いつしか店は私娼たちを置くようになったのだった。
 宮田町にはどれほどの私娼がいたのか数字が残ってはいないが、当時の新聞などにその様子が伝えられ、勝冨遊廓以上に賑わった。
 公許を得た遊廓に対して、非合法な色街である私娼窟はどの時代も遊廓を凌ぐ人気を得ていたことが少なくない。時代を江戸時代に戻せば、江戸で公許を得ていたのは吉原だけだが、いわゆる宿しゅくと呼ばれた品川宿、千住宿、板橋宿、甲州街道の内藤新宿などは、なかば公認された「飯盛り女」を置いて賑わっていた。江戸の中心部から離れた場所にあった数ヶ所の色街では、江戸の男たちの欲望を満たすことはできなかった。江戸の街中には岡場所と呼ばれた私娼窟がいくつも生まれたのだった。
 その中でも有名だったのは、深川や湯島、芝、神田といった職人が多く暮らす土地だった。彼らがすぐに足を運べ、遊廓に比べたら手軽に遊べた岡場所には男たちが集まった。特に、湯女ゆなと呼ばれ、風呂屋で春を売っていた神田は人気があり、一時期吉原に閑古鳥が鳴いたほどだった。そのため吉原から、奉行所に神田の風呂屋の取り締まりを願い出る事態となった。
 江戸時代には、度々私娼窟は取り締まりの対象になったが、完全に消えることはなかった。現代に目を向けて見ても、非合法な風俗店が営業を続けていて、警察とのイタチごっこが続いている。
 男の欲望と直結する売春は、身一つではじめられる商売でもあり、いつの時代でも無くなることはない。明治時代の佐世保でも、行政の目を盗んで私娼窟が形成されていき、一番の賑わいをみせたのだった。
 ただ、軍部にとって軍都という性格上、兵士たちに性病が蔓延したり、軍紀が乱れてしまうことは避けたいという思惑もあり、宮田町にあった私娼窟は移転し、公許を得て花園遊廓として営業することとなった。
 単純に禁止という形を取らなかったのは、性欲のはけ口として色街は必要だと軍部と行政が考えたのだろう。

勝冨遊廓跡を歩く

 勝冨遊廓跡を歩いてみることにした。遊廓は、斜面を利用した場所に作られていた。現在は周辺にはマンションが建ち並んでいるが、ところどころにかつては遊廓として利用されたのではないかという往時を偲ばせる木造建築が残っている。
 誰か昔日のことを知る人はいないかと探していると、事情を知っていそうな八十代と思しき男性がひとり歩いてきた。遊廓のことを調べていると告げると、一軒の商店を指差して、言うのだった。
「この土地で生まれ育ったから遊廓があったことは知っている。ただ、若い頃からよそに働きに出ていて、二年ほど前に戻ってきたので、詳しいことは知らん。あの店の人が古いから、聞いてみるといいですよ。この辺りの人は随分入れ替わっているから、昔のことを知っている人も少なくなったね」
 男性は、事情を知っている店の主人に私から聞いてきたと言ってくださいと、自分の名前を教えてくれた。
 その商店に行くと、店には誰もいなかった。「すいません」と、声をかけると、店の奥にある居住スペースから「はい」と言いながら、男性が出てきた。
 年の頃は先ほどの男性と同じくらいだろうか。遊廓のことを調べていて、ご主人が事情に詳しいと聞いたと伝えると、にこやかな表情を浮かべながら、店の外へ出るように、手招きした。
 男性は店の前に立って、当時の様子を話しはじめた。
「遊廓のことを知っているのは、もうほとんどいないでしょうね。隣の建物はマンションになっていますけど、もともとは遊廓だったんですよ。私が子どもの頃は賑やかな場所だったんです。遊廓のお姉さんたちは、性格の良い人が多かったですね。皆さん、望んで働きに来たわけではないはずなのに、子どもだった私を見ると、ニコニコして、『坊やいくつ?』なんて声を掛けたりしてくれました。今になって思えば、故郷にいる弟のことを思い出したりしていたんですかね。よくアイスキャンデーやお菓子を買ってくれたりもしました」
 男性が覚えているのは、戦前から戦中にかけての遊廓の記憶だという。男性の記憶より少し前になるが、一九三〇(昭和五)年に発行された『全國遊廓案内』(日本遊覧社)によれば、十六軒の貸座敷があり、百五十人も娼妓がいたという。
 男性とささやかな交流のあった娼婦は、一体、どこから来たのだろうか。ふと頭をよぎったのは、熊本県の天草地方である。
 熊本県の天草地方は、明治時代から昭和のはじめにかけて、多くのからゆきさんを生んだ。からゆきさんとは、海を渡ってアジア、アフリカなどで体を売った日本人の娼婦のことである。私は、マレーシアやインドネシア、シンガポール、ミャンマーにある日本人墓地を訪ねたことがあったが、そこで少なからず墓碑に熊本県天草と刻まれた女性の墓を見た。
 天草の女性たちの中には、からゆきさんだけではなく、九州地方の遊廓で働く女性も少なくなかったという。

勝冨遊郭跡
勝冨遊郭跡

天草を歩いた記憶

 今から、十五年ほど前に天草を訪ねたことがあった。
 私が天草地方をまわったのは、暑い夏の盛りだった。
天草地方の玄関口である牛深うしぶかの町でレンタカーを借りて、さきという港町に向かった。空はますます青く、車窓の右手からは、からゆきさんが世界各地へと渡って行った海が、太陽光に照らされ鮮やかに輝いていた。
 穏やかな入江の中にある小さな港町崎津に着くと、私は一軒の民宿に部屋を取り、町の中を歩いた。まずは教会へと向かった。というのは、崎津には有名な教会があって、天草地方のキリシタン信仰の中心地でもあるからだ。
 天草地方が多くのからゆきさんを生みだした理由のひとつにキリシタン信仰があり、それが切っても切れない関係になっている。江戸幕府崩壊後、キリシタン禁教令が解かれると、キリスト教は瞬く間に復活するが、その背景には厳しい弾圧にもかかわらず人々が江戸時代を通じて信仰を捨てなかったことがある。天草半島では、サツマイモを主食とし、キリスト教の教義を守り、間引きをしなかったことから江戸時代に人口は十倍にまで増加した。
 私が教会を訪ねると、ミサが行われている最中であった。日本らしく畳が敷かれた教会の中では、数人の老婆が静かに祈りを捧げていた。崎津教会は一五六九(永禄十二)年、ポルトガル人の医師でもあったルイス・デ・アルメイダ神父によってこの地にキリスト教が伝えられたことにちなんで建てられた。禁教令の出ていた江戸時代には、教会の祭壇は絵踏みを行う場所であったという。一八七三(明治六)年明治政府によって、キリシタンの禁制が解かれると、秘かに信仰を守って来た信者たちの拠り所となった。
 海を渡ったからゆきさんの中には、この教会で洗礼や祈りを捧げた人々も少なからずいたに違いない。ルイス・デ・アルメイダは日本に来て、赤子が間引きされ、打ち捨てられている姿に衝撃を受けたという。当時のぶんの国大分県で、私財を投げ打って乳児院を作ったという。ただ、そのアルメイダの教えを熱心に信仰したことが、十倍ともいえる人口爆発のひとつの要因となり、そのためにからゆきさんは故郷を離れ海を渡らなければならなかった。信仰とは時に、信者たちにこうした受難をもたらすものなのだろうか。
 こんな想像をしても何の意味もないのはわかっているのだが、もしこの地にキリスト教がもたらされなければ、からゆきさんの悲劇は違ったものになっていたのかもしれない。
 
 夕方宿に戻ると、女将さんに、からゆきさんについて何か知っていることはないかと尋ねた。
「いゃー。もし知ってても、この辺の人は話したがらないですよ。昔のことをほじくられるのを嫌がる人もいるからね。ここより、もうちょっと山の方に行ったほうがいいんじゃなかね。だけどもう残っとらんでしょうに。今富というところにひとりそういうお婆さんが住んでおったけど、本に出て大騒ぎになったんですよ。小遣いをあげに来る人がいたり、花をあげに来る人がいたりとね」
 女将は、かつてこの近くにからゆきさんが住んでいたことは教えてくれたが、それ以上のことを話すのは、気が進まないようだった。彼女の態度を見ていると、やはりからゆきさんのことを隠したいという気持ちは未だに強いのだとわかった。
 
 宿の女将は取材がはかどらない私を見てびんに思ったのか、郷土史家の男性を紹介してくれた。男性は、この地の隠れキリシタンやからゆきさんについても詳しいという。
 翌朝、私は今富集落という場所に暮らしている郷土史家のさこみつを訪ねた。いきなり訪ねたにもかかわらず、彼はあがりなさいと言って、家の中に通してくれた。
「わざわざ東京から来たとですか。もうこの土地にはからゆきさんはおらんですよ。ほれ、あそこに一軒の家が見えるでしょう」
 迫田は、窓越しにつたがからまった一軒の廃屋を指差した。
「あそこに一人のからゆきさんだった女性が住んでおったんだが、数年前に亡くなってしまって、今はもう誰も住んでおらん」
 今にも崩れ落ちそうな、その家屋は東南アジアで体を売っていたからゆきさんのついの棲み家だったという。彼女は身寄りもなく、ひとりで暮らしていた。
 
「貧しかとこだから」
 なぜこの土地にからゆきさんが多かったのか、尋ねると迫田は言った。天草は土地の貧しさ故に九割が小作農だったという。小作農は小前百姓と呼ばれ自分の土地を持てず、山に入り山稼ぎといわれる炭作りのための炭木の切り出しなどが現金収入だった。さらに貧しさを象徴するもののひとつとして、つい最近まで天草では末子相続の風習が残っていた。相続させる土地も満足になく、まずは上の子どもから家を出て、男は大工や左官などの職人となり、女は子守りや女中、そしてからゆきさんとして海を渡っていかざるを得なかったのである。土地がやせていたことからも口減らしの意味で末子相続が行われたという。その風習も最近では薄れてしまい、天草を出て行った子どもたちが帰って来ない、と迫田は苦笑いを浮かべた。
 しばし話をしてくれたあと迫田は、「おなかいたでしょ?」と、言った。時計の針は午後の一時を指していた。
 私の返事を聞く前に立ち上がって、台所から冷したそうめんを持ってきてくれた。冷んやりとして、素朴な味のそうめんは、暑さに少々参っていたこともあり、殊の外美味しかった。
 この後も、天草を取材していて、話を聞いた人に何度かそうめんをご馳走になった。
 取材を終えてからだが、天草で食べられているそうめんが、キリスト教と少なからず関係があることを知った。諸説あるのだが、天草は江戸時代のはじめの島原の乱とも関係が深く、乱に参加した村人の多くが命を落とした。乱後に多くの移民を受け入れたのだが、その中にキリシタンが多かった小豆島から来た者が少なくなかった。の地はそうめんの産地として知られ、彼らによって天草にそうめんが伝えられたという。
 食と宗教が結ぶ不思議な縁を感じずにはいられなかった。
 
 昼食後、迫田と一緒に今富の集落を歩いた。周囲の水田から聞こえてくる蛙の鳴き声ばかりが響き、人の姿はあまり見かけなかった。
 私は、畑の中にぽつねんと建つからゆきさんが暮らしていた家屋に足を運んでみた。草いきれの匂いに包まれていた家屋。せめて、彼女の生きた証しはないかと、家の中を覗いて見たいと思ったが、雨戸が閉められていて、中の様子は見ることができなかった。台所の曇りガラスからうっすらと彼女が使っていたであろう白い食器が見えた。
 からゆきさんだった老婆は生前、何も語ることなく、村の中では、誰もその話題には触れようとしなかったという。そして老婆はひとり静かに、すべての歴史を己の心の中にだけ留めて、この世を去って行った。
 仲間たちの中には、異郷の地で命を落とした者も少なくなかったことだろう。海を渡って、体を売り、戻って来た故郷は果たして、安住の地だったのだろうか。日々、何を思い暮らしていたのだろうか。
 彼女の暮らした家からは、海は見えず、潜伏キリシタンの墓地があったという小山が見えた。今では雑草が生えるにまかせた庭に面した縁側で、若き日の青春を過ごした南洋のことを思い浮かべながら、毎日、彼女は空を見上げていたのだろうか。私も蔦がからまった家屋の屋根の向こうに広がる空を見上げてみた。青空の中にコッペパンのような綿雲が気持ち良さげに浮かんでいたのだった。
 人の優しさを感じた天草への旅。佐世保の遊廓に天草から来た女性もいたことだろう。彼女たちはどんな人生を送ったのだろうか。

戦後における色街の変遷

 勝冨遊廓跡に話を戻そう。遊廓跡で娼婦との交流があったと語ってくれた男性の話から見えてくることがある。それは、当時は、遊廓が指定地域においては合法であり、色街が人々の日常生活から近いが故に生まれたのではないかということだ。
 色街が日常からは見えにくい今日からは、想像しがたい光景である。幼少期の彼は、どのようにして女性が娼婦だと気がついたのだろうか。
「それは、母親から直接ではなくて、間接的に聞いたと記憶しております。うちの両親は遊廓相手に食料品を卸す商売をしておりましたので、遊廓の経営者だけではなくて、働いていた女性たちとも少なくない縁があったんですね。それで、私のことも女性たちが知っていてくれて、良くしてくれたんです。『あのお姉さんたちは、遠くからここに働きに来ていて、苦労しているんだよ』って母親は何度かボソッと言ってました。遊廓は男の人たちがお酒を飲んだりするところだとは気がついていましたので、幼心に男の人たちを相手にする仕事をしているんだなと感づいた次第です」
 遊廓と共生する日常を送っていたからこそ生まれた交流だった。遊廓や娼婦たちは消えてしまったが、彼の店だけはこの土地で営業を続けているのだった。
 勝冨遊廓は、売春防止法によって、明治時代からの歴史を終えた。終戦で日本海軍が去ったことにより、新たにこの土地へやって来たのが、米軍だった。
 米軍に関する記憶も当然男性にはあることだろう。その点を尋ねた。
「この場所で米兵を見たという記憶はあまりないんですけど、佐世保の街の中には、女性を置いて、米兵を相手にして商売をする地区がいくつもあったんです」
 私は無理を承知で、その場所に案内してもらえないかとお願いしてみた。すると男性は、「いいですよ」と、二つ返事で了承してくれたのだった。
 レンタカーに乗ってもらい、私は男性の案内で車を走らせた。佐世保の街を訪ねるのは初めてだったが、小高い丘を縫うように細い道が通っていて、同じ港町である故郷の横浜の風景と似ているなと思った。
「ちょうど、この辺りですかね」
 男性が長い坂道の途中で車を止めるように言った。
 私たちは車を降りると、車が入れないほど細い路地を歩いた。その先の階段を上がると、木造のアパートがあった。
「ここがそうだったんです。米兵を相手にする女性たちがいたんです」
 その場所は、住宅街だった。アパートも今では、ごく普通の賃貸物件になっているようだった。まわりには商店すらなく、ここに米兵相手の娼婦がいたとは、一見いちげんの者ではまったくわからないだろう。
 この土地に暮らしている男性ならではの情報だった。勝冨遊廓の場所からは、車で十分ほどの距離があった。どうして、この場所のことを知っていたのだろうか。
「戦後になって、遊廓の関係者の中には、米兵相手の商売が金になるからと、鞍替えした人が少なくなかったんですよ。遊廓の人たちとは付き合いがあったので、誰があそこで商売をしているとかそういった情報は比較的、耳に入りやすかったんです」
 私がかつて訪ねた千歳や呉、横須賀といった米軍基地のまわりでは、米兵相手の女性を置いて商売する家をパンパンハウスと呼んだ。ここ佐世保ではどのように呼ばれていたのだろうか。
「どのように呼んでいたんですかね。パンパンハウスだったかな。ただね、パンパンという言葉はあんまり好きな言葉じゃないんですよね。そう呼ばれた人たちも、自分から望んでという人は少なかったと思うんです。昔の勝冨遊廓と同じように家族のために犠牲になっていた人がほとんどでしょう。パンパンという言葉は、そのような境遇の人たちを蔑んでいると思いますね」
 パンパンという言葉に対して、嫌悪感を覚えると、この連載の取材の過程で何度か聞いた。確かその場所は、九州だったように記憶している。福岡県を流れるおんがわの河口にある芦屋という町で、男性と同じ理由でその言葉を使うべきではないと言った女性がいた。
 二人の言葉は、人が置かれている境遇に関して、安易な言葉を投げかけるべきではないという思いに貫かれていた。取材の中で、私は時に何の躊躇ためらいもなくパンパンという言葉を使っているが、改めなければいけないなと気がつかされたのだった。
 木造アパートを出て、再び車で次の目的地に向かった。やはり丘を縫って走る道は狭く、時折り、眼下に佐世保港が見渡せた。
 曲がりくねった坂の途中で、男性が車を止めるように言った。男性が「ここですよ」と、言って指差したのは、木造のアパートだった。
 この坂には、米兵を相手にする三軒のアパートがあったという。まわりは住宅街になっていて、やはりここに米兵が出入りしていたことなど、想像もできない。
 ただ、青葉荘というアパートの表札には、アルファベットも併記されていた。年月の経過によって、色落ちが激しく、元は何色だったのかわからない。かなり古いものであることは間違いないだろう。
 このアパートが米兵向けに商売をしていたのならば、彼らが足を踏み入れやすいようにアルファベットを併記したのかもしれない。
 米兵相手の商売をしていたアパートを巡りながら、私が唯一色街の匂いを感じたのが、この表札だった。
 アパートを巡ったあと、勝冨遊廓ができたあとに作られた、花園遊廓の跡にも足を運んだ。その場所には、色街跡を感じさせない広々とした道路が通り、周辺は今では住宅街や公園になっていて、かつての色街の匂いはどこからも感じることができなかった。
 戦前に発行された『全国遊廓案内』によれば、花園遊廓には、四十七軒の貸座敷があって、三百四十人ほどの娼妓がいたというから、勝冨遊廓の倍以上の娼妓がいたことになる。
 ただ、色街の匂いは勝冨遊廓跡のほうが、濃密に残っていた。
 花園遊廓は戦後直後には、米兵相手のパンパンハウスなどになったとの記録もあることから、戦後しばらくは、色街としての命脈を保っていた。
 男性のおかげで私は、地元の人しか知ることはない場所を知ることができたのだった。

米兵相手の娼婦がいたというハウス

次回に続く)

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プロフィール
八木澤高明(やぎさわ・たかあき)
1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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